クリーク(読み)くりーく(英語表記)Ernst Krieck

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クリーク」の意味・わかりやすい解説

クリーク(Ernst Krieck)
くりーく
Ernst Krieck
(1882―1947)

ドイツの教育学者。フェーギスハイムに生まれる。カールスルーエ師範学校卒業(1900)ののち、マンハイムの小学校教師をしながら社会史、文化史、教育史の研究を続けた。フランクフルト・アム・マインの教育大学教授(1928)を経て、ハイデルベルク大学総長となった(1933)。ヘルバルト以来の従来の教育学を個人主義的、規範的、技術的教育学であると批判し、それに対して現実的、客観的事象としての教育事実の叙述、認識を目的とする教育科学Erziehungswissenschaftの樹立を唱えた。彼によれば、教育とは、他の社会機能と密接な連関をもつ社会の根源的機能であり、社会が生活秩序、価値などの文化を通してその成員を類型同化する過程であるとされた。しかも、社会の包括的、本源的母体を民族国家と考え、これを諸機能の統一原理とすることにより、その教育科学は民族主義的、国家主義的性格を濃厚にした。

 主著『教育の哲学』(1922)、『文化民族の教育組織』(1927)などにおける教育理念や、『自由ドイツ学校』誌上での中央党社民党への攻撃は、ナチス政府の迎えるところとなり、その理論イデオローグの役を果たすこととなった。

[舟山俊明]


クリーク(民族)
くりーく
Creek

かつてアメリカ合衆国のジョージア州アラバマ州に住んでいたマスコギー(ムスコギーともいう)語系の北米先住民(アメリカ・インディアン)。1950年にはオクラホマ州に約5万人、アラバマ州に約500人が住んでいた。現人口は4万5872人(1990)。

 トウモロコシカボチャ、豆類を栽培したが、農耕は主として女性の仕事で、男性は狩猟と戦いに携わった。50以上の母系トーテム氏族に分かれ、それらが胞族をなしていた。村は白組と赤組の二つの地域集団に分かれ、前者は平和の儀礼、後者は戦争の儀礼をつかさどっていた。クリークの社会には世襲的な身分の違いはなかったが、個人的能力、たとえば戦場での功績によって階級ができていた。側面に階段をつけた台形状に盛り土をし、その上に草葺(くさぶ)きのドーム状屋根をもつ宗教用建造物をつくった。

 1813~14年のクリーク戦争に敗れたのち、クリークは一部を残してオクラホマ州に強制移住させられた。現在では、もともとの彼らの固有の言語や文化はほとんど失われている。

[板橋作美]


クリーク(水路)
くりーく
creek

デルタ(三角州)その他の低湿地につくられた人工的水路。日本の佐賀平野や中国の揚子江(ようすこう)・珠江(しゅこう)、インドシナ半島のメコン川、タイのチャオプラヤー川のデルタにみられる。これらの低湿地帯の開拓史をみるとクリークが人工的に掘られたことがわかり、ほとんどの集落へはクリークが通じ、物揚げ場がつくられ、各家は小舟をもっている。クリークは灌漑(かんがい)、排水や交通(舟運)に使われ、底の泥土は肥料とされ、生産と生活の両面に大きく利用されている。

[浅香幸雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クリーク」の意味・わかりやすい解説

クリーク
Krieck, Ernst

[生]1882
[没]1947
ドイツの教育学者。ナチス時代の教育界における理論および実践運動の指導者。教員養成校を卒業後,小学校教師のかたわら,民族誌・教育史などを研究し,『教育の哲学』 Philosophie der Erziehung (1922) を著わす。 1928年フランクフルト・アム・マイン教育大学,ハイデルベルク大学教授に就任。ヘルバルト以降の伝統的教育学を当為的課題の技術学と批判し,教育学を事実の客観的認識から出発する一個の科学 (「純粋教育科学」) としてとらえ,教育過程を「共同社会がその成員を類型的に同化していく過程」と定義した。しかし,民族と国家を教育の最高原理とする民族共同体的理論は,ナチスの利用するところとなり,彼の研究課題も民族教育の確立へと移っていった。

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