日本大百科全書(ニッポニカ) 「マンハイム」の意味・わかりやすい解説
マンハイム(Karl Mannheim)
まんはいむ
Karl Mannheim
(1893―1947)
社会学者。オーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで、ユダヤ系ハンガリー人を父とし、ドイツ人を母として生まれる。ブダペスト大学哲学科を卒業したのち、1912年から1913年にかけてドイツに留学し、フライブルク、ハイデルベルク、ベルリンの各大学に学び、とくにベルリン大学の私講師であったジンメルから強い影響を受けた。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)とともにハンガリーに帰国し、ルカーチやバラージュなどとともにハンガリー革命の運動の一翼を担う。その渦中の1918年、『認識論の構造分析』によってブダペスト大学から学位を得る。ホルティたちの反革命の成功のため、1920年にドイツに亡命し、ハイデルベルク大学に身を寄せる。1925年に同大学講師となり、1929年『イデオロギーとユートピア』の刊行直後にフランクフルト大学の社会学教授となる。しかし、ヒトラー政権の成立(1933)とともにイギリスへの亡命を余儀なくされ、その後、死に至るまでロンドン大学で社会学、教育社会学を講じ、第二次世界大戦後にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の活動にも協力した。
マンハイムは、第一に、知識社会学の確立者として位置づけられる。『イデオロギーとユートピア』は知識社会学の視座を代表する古典的著作の一つとなっており、そこで提起された存在被拘束性Seinsverbundenheit(ドイツ語)の概念は、今日では知識社会学のキーワードとなっている。第二に、『変革期における人間と社会』(1935)にみられるように、自らがユダヤ系のマージナル・マン(境界人、周辺人)であり、数次の亡命を体験した立場からの現代社会分析が重要である。この視点は、さらに「時代の診断学」としての現代学Gegenwartskunde(ドイツ語)としてまとめられていった。第三に、政治社会学の視点からの大衆社会mass society分析の出発点を提起したといってよい。リースマン、フロム、ミルズなどの大衆社会論は、多かれ少なかれマンハイムからの影響を受けている。第四に、とくに晩年の教育社会学の分野での活動は、ユネスコのヨーロッパ支部長としての実践とともに、ファシズムを再生させない「自由のための計画化」の具体的な方途を探る努力として、今日に至るまで大きな影響を及ぼしている。
[田中義久]
『福武直訳『変革期における人間と社会』上下(1953・みすず書房)』▽『K・マンハイム著、谷田部文吉・池田秀男訳『体系社会学』(1963・誠信書房)』▽『鈴木二郎訳『イデオロギーとユートピア』(1968・未来社)』▽『高橋徹・徳永恂訳『イデオロギーとユートピア』(『世界の名著56』所収・1971・中央公論社/2006・中公クラシックス)』
マンハイム(ドイツ)
まんはいむ
Mannheim
ドイツ南西部、バーデン・ウュルテンベルク州の都市。人口30万6700(2000)。ライン川の右岸、ネッカー川との合流点に位置する。対岸はラインラント・プファルツ州のルートウィヒスハーフェン。1834年に河港の整備が始まり、以後ライン、ネッカーの水運とライン川両岸を走る鉄道との結節点として工業立地が盛んになり、北西部に工業地域ができた。機械、車両、精密・光学機器、電気機器のほか、ライン川の新旧流路間にあるフリーゼンハイム島には石油精製工場があり、対岸のルートウィヒスハーフェンの化学工場に原料を供給している。また、市域の北東部には、沖積地に残る広大な森林に接して住宅地区があり、東部、南部にはライン河畔のシュロスガルテン公園をはじめ緑地が多い。
[朝野洋一]
歴史
石器時代に集落があったことが知られるが、この都市の名が史料に初出するのは766年のことで、中世にはライン川とネッカー川を利用する輸送品に対する関税徴収所が置かれ、1607年に都市法が与えられた。1720~78年の間プファルツ選帝侯の居城地となり、半円と直線の街路で碁盤目状に136にくぎられた市街地が建設され、水準の高い文化的中心地でもあった。1803年プファルツの解体とともにバーデン領に編入された。
[中村賢二郎]