中央党(読み)ちゅうおうとう(その他表記)Das Zentrum
Die Deutsche Zentrumspartei

改訂新版 世界大百科事典 「中央党」の意味・わかりやすい解説

中央党 (ちゅうおうとう)
Das Zentrum
Die Deutsche Zentrumspartei

ドイツ政党。ドイツ帝国成立直後の1871年3月に58名の帝国議員によって結成され,以後つねに帝国議会第1党もしくは第2党の勢力を有した。旧西ドイツのキリスト教民主・社会同盟CDU/CSU)の前身である。その構成員の大多数はカトリックであるが,設立当初から少数ながらプロテスタントをも含み,またその綱領宗派の名をいっさい語らず宗教的自由の擁護をうたっている。ビスマルクが行ったカトリック弾圧政策に起因する文化闘争に際して,中央党はカトリックの抵抗の拠点となりカトリックの利益を擁護して活動したが,他方政府との和解の条件をめぐって教皇と対立しその意向を拒みさえした。したがってこの政党は,宗派としてのカトリックあるいはカトリック教会に従属する政党ではない。また中央党の掲げる宗教的自由は,宗教が私的生活のみならず公的生活をも律することを前提としており,この点で自由主義政党や社会主義政党のいう宗教信仰の自由とは異なる。宗教を公的生活の規準とみなすということは,具体的には,公教育を教会の手にゆだねるべきこと,婚姻は官庁への届出と併せて教会の承認を必要とすること,私有財産制は神聖な秩序として不可侵であるべきこと等の主張となって表れる。それゆえ中央党は,一方で国家権力による教会の抑圧に反発するが,他方宗教を公的生活から分離して私的生活領域に限定しようとする自由主義政党や社会主義政党とも対立する。中央党が第1次大戦前に国民の求めた政治改革を自由主義政党や社会主義政党とともに追求しえなかった根本的理由は,この点にある。また第1次大戦中に中央党国会議員エルツベルガーの提案した和平決議が,自由主義政党と社会主義政党に譲歩して不平等選挙制を改めようとした宰相ベートマン・ホルウェークの失脚を計るものであったことも同一の文脈に属する。さらに,ナチス政権の独裁権承認(1933年3月の授権法,これによって同年7月中央党は解散)にあたり,中央党の示した交換条件の一つは,公教育に関する教会の既得権承認であった。
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百科事典マイペディア 「中央党」の意味・わかりやすい解説

中央党【ちゅうおうとう】

ドイツのカトリック政党。1870年南ドイツの保守派を中心に結成。ビスマルクの文化闘争に激しく抵抗,事実上勝利を収めた。1879年以降政府と協力関係に入ったが,カトリック教徒の労働者,農民中産階級を統合し,文字通り左右中間にあって重要法案の決定権を握った。ワイマール共和国時代しばしば首相を出したが,1933年ヒトラーの授権法に賛成して解散。第2次大戦後その基盤キリスト教民主同盟継承
→関連項目エルツベルガーパーペンブリューニング

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中央党」の意味・わかりやすい解説

中央党
ちゅうおうとう
Centerpartiet

スウェーデンの政党。 1922年2つの地方政党が合体して農民党として結成。 60年総選挙の際中央党と改称。農民をおもな支持基盤として,地方分権主義,都市と農民の所得均衡,国家・協同組合・私企業の3者対等競争を主張する中道政党。 76年9月総選挙では原発廃棄をおもなスローガンにして総選挙をリード,社会民主労働党政権を 44年ぶりに倒した。中央党党首フェルディンを首班にした穏健党,自由党,中央党の3党連合政権を樹立したが,2年で閣内不統一により崩壊。 79年総選挙でも善戦し,再びフェルディン首班の3党連合政権を形成したが,やはり2年で閣内不統一により崩壊。 82年選挙ではパルメ率いる社会民主労働党に政権を奪われた。 91年選挙で保守政党が9年ぶりに政権を獲得したが,穏健党,中央党,自由党,キリスト教民主党の4党連合政権でも過半数議席に達せず,政権運用の実質は社会民主労働党が掌握することになった。その後中央党は党勢を衰退させている。

中央党
ちゅうおうとう
Zentrum

ドイツ第二帝政時代とワイマール共和国時代の保守政党。現在のキリスト教民主同盟の前身で,カトリック教会の利害を代表して 1870年に結成された。反プロシア的色彩をもち,カトリック教会の自由,ドイツの連邦的統一を主張し,ビスマルクとの間にいわゆる文化闘争を展開した。ワイマール時代には協調外交,ワイマール憲法擁護をスローガンに,いわゆるワイマール連合の中心的存在となった。しかしヒトラー政権成立とともに弾圧を受け,自発的解散を余儀なくされた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中央党」の意味・わかりやすい解説

中央党
ちゅうおうとう
Zentrumspartei ドイツ語

ドイツのカトリック政党。プロテスタント系のプロイセンが主導するドイツ統一と近代化に直面したプロイセン議会などのカトリック系議員が、カトリック教会の擁護とカトリック系住民の利益を守るために1870/71年に創設した政党。文化闘争の過程で結束を強めた。世界観政党として国民のあらゆる階層を含み、選挙における変動が少なく安定していたため、第二帝政、ワイマール共和国期を通じて国会での政策決定や政府形成に中心的役割を担った。共和国末期には保守化し、1933年7月ナチス体制の下で解散した。

[木村靖二]

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旺文社世界史事典 三訂版 「中央党」の解説

中央党
ちゅうおうとう
Zentrumspartei

1870年,カトリック教会の立場を擁護するために結成されたドイツのカトリック政党
初めビスマルクと文化闘争を行ったが,のち政府と協調するに至った。同党の地盤は南ドイツで,反プロイセンの立場から各地方民と結び,各地各階層の雑多な利益を代表する中間政党となった。ヴァイマル共和国時代はヴァイマル連合に属したが,1933年ナチス政権に弾圧されて解散した。現在のキリスト教民主同盟は同党右派の流れをくむ。

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世界大百科事典(旧版)内の中央党の言及

【カトリック政党】より

キリスト教民主主義政党【西川 知一】。。…

【カトリック政党】より

…イタリアの統一国家は教会領を没収する形で成立しており,バチカンはこの統一国家とたたかうために,カトリック政党という形で統一国家の中に入ってたたかうよりも,外からたたかう方を選んだのである。同じころ統一国家が成立したドイツでは,中央党Deutsche Zentrumsparteiというカトリック政党が生まれた。この政党も自由主義に対するたたかいのための組織であったが,同時に,ドイツの統一国家がプロテスタント系の勢力によって実現されたため,そのプロテスタント系の勢力によるカトリシズムへの圧迫に対抗するという面ももっていた。…

【バイエルン】より

…次いでプロイセン主導の普仏戦争に参加,軍隊・鉄道等について独自の留保権をもつ王国としてドイツ帝国(第二帝政)の一角を構成した。しかし,カトリックの〈旧バイエルン〉地方を中心に反プロイセン,親オーストリアの空気は根強く存在し,連邦主義的な中央党の重要な地盤となった。他方,〈新バイエルン〉地方を主要な地盤とする自由派は,帝国宰相ビスマルクと結ぶバイエルン官僚政府の議会での支柱を形成した。…

【文化闘争】より

…ビスマルクは,カトリックを媒介とするフランス,オーストリアの提携,またそれに呼応した国内のカトリックによる反政府活動を恐れてこの弾圧政策を強行した。とくにその際1871年に中央党が結成されたことは,カトリック政治勢力の新たな結集とみなされ重要な動機となった。主要な弾圧立法をあげれば,71年の帝国刑法改正による教会内の言論統制をはじめとし,72年のプロイセン学校管理法による教会の教育活動抑圧,同年のイエズス会法による伝道布教活動の規制,また73年に始まる一連の五月法による聖職者の養成と任免への介入等がある。…

※「中央党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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