クレマンソー(読み)くれまんそー(英語表記)Georges Benjamin Clemenceau

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クレマンソー」の意味・わかりやすい解説

クレマンソー
くれまんそー
Georges Benjamin Clemenceau
(1841―1929)

フランスの政治家。9月28日バンデー県生まれ。初め医を業としたが、パリ・コミューン(1871)直前、パリ第18区(労働者街モンマルトル)長に選ばれて内戦回避に努力したのが、政治の世界に入る第一歩となった。1871年代議士に当選。コミューン派弾圧後の社会主義者を欠く議会内にあって最左翼の急進社会主義派(正確には社会主義的急進派)に投じた。彼の政治理念は「民主的共和制下のフランス国家」「大革命以来の民主的共和制の故郷であるフランス国家の強化、防衛」であった。彼の敵は、対外的にはアルザス・ロレーヌを奪取したドイツであったが、対内的には第一に、初心のジャコバン的伝統・理念を忘却して、民主的改革を怠る保守化した旧急進派(日和見(ひよりみ)主義派とよばれた)であり、この意味でポアンカレとは終生の政敵関係に立った。1880年代、この派の諸内閣を雄弁の力一つで次々に倒していき、「虎(とら)」の異名をもって恐れられた。国内第二の敵は、秩序を乱す暴力的労働運動と、それと結んだ「祖国をもたぬ」社会主義であった。ブーランジェ事件(1887~1889)、ドレフュス事件(1894~1899)における共和制防衛、人権擁護の闘士と、峻烈(しゅんれつ)な労働運動弾圧者が、彼の内に同居していたといえる。

 第一次世界大戦末期、クレマンソーのこの本領が発揮された。当時フランス国民は長い戦いに倦(う)み、兵士の間に厭戦(えんせん)・反戦思想が広がり、前線は崩壊に瀕(ひん)していた。大統領ポアンカレは、1917年11月あえて政敵クレマンソーを、その鉄腕に期待して首相に任命した。クレマンソーもよくこれにこたえ、参謀総長に信頼するフォッシュを据えて国務統帥を緊密化し、カイヨーに代表される和平論者を投獄して反戦運動を徹底的に弾圧し、前線では逃亡・抗命兵士を即決裁判で銃殺に処するなど、強硬方策をとり、ついにフランスを勝利に導いた。しかし平和条約では、英米の反対にあってライン川左岸の獲得にも、ドイツの徹底的弱体化にも失敗し、不本意な調印を余儀なくされた。1920年大統領選に敗れて政界を去った。1929年11月24日パリにて死去。

[石原 司]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クレマンソー」の意味・わかりやすい解説

クレマンソー
Clemenceau, Georges

[生]1841.9.28. バンデー,ムイユロンアンバレ
[没]1929.11.24. パリ
フランスの政治家。医師の子に生れ,ナントとパリで医学を修め,1865~69年渡米,70~71年にパリ 18区 (モンマルトル) の区長に就任。 71年下院議員に選ばれたが,ドイツとの講和条約に反対。 76~93年に急進共和派議員在任中,左派論客として次々と内閣を倒し,「虎」の異名を取り,特にドレフュス事件での正義のための論争で名声を博した。 1903年上院議員,06~09年首相に就任,対独強硬政策を推進,国内ではストライキを軍隊により鎮圧した。 09年海軍問題の討議において敗れ首相を辞任したが,その後対独戦準備を主張し,第1次世界大戦中の 17年に再度首相に就任,危機を転じて勝利に導いた。パリ講和会議議長となり,フランスの立場を主張。議会でその独裁的傾向を批判され,20年大統領選に立候補して敗れ,首相を辞任,政界を引退した。晩年には文筆活動に入った。主著『デモステネス』 Démosthène (1926) ,『わが思索の黄昏に』 Au soir de la pensée (27) ,『勝利の栄誉と悲惨』 Grandeurs et misères d'une victoire (30) 。

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