デモステネス(読み)でもすてねす(英語表記)Demosthenes

翻訳|Demosthenes

日本大百科全書(ニッポニカ) 「デモステネス」の意味・わかりやすい解説

デモステネス(雄弁家、政治家)
でもすてねす
Demosthenes
(前384―前322)

古代ギリシアアテネ雄弁家、政治家。富裕な手工業者の家に生まれ、7歳で孤児となる。父の遺産を横領した後見人たちを告訴するためイサイオスに雄弁術を学び、法廷弁論の草稿書きや雄弁術の教師として生計をたてた。彼の名の下に伝わる民事関係の法廷弁論は、社会経済史の貴重な史料となっている。紀元前355年ころからは政治的弁論家としても登場し、マケドニアフィリッポス2世攻撃の演説を繰り返し行い、ギリシアの自由を守るためにアテネ市民の決起を促した。そしてアテネとテーベとの同盟を成立させてマケドニアに決戦を挑んだが、前338年カイロネイア戦いで完敗した。フィリッポス2世の没(前336)後、ギリシアの自由回復を図ったが失敗し、亡命した。フィリッポス2世の後を継いだアレクサンドロス大王の没(前323)後、帰国して再度反マケドニア運動を企てたが、ラミア戦争に敗れた。サロン湾内のカラウレイア島に逃れたが追跡され、毒を仰いで自殺した。

[篠崎三男]


デモステネス(将軍)
でもすてねす
Demosthenes
(?―前413)

アテネの将軍ペロポネソス戦争中、各地に転戦して戦功をあげた。とくに紀元前425年には、スパルタ軍の一部をピロスのスファクテリア島に封鎖することに成功。前413年、ニキアス救援のためシチリアに赴き、制海権を失う前の早期撤退を主張したがいれられず、陸路による撤退の後陣を務めて、シラクサ軍に降伏、処刑された。有能な戦略家であったが、政治的野心はなかった。

[中村 純]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デモステネス」の意味・わかりやすい解説

デモステネス
Dēmosthenēs

[生]?
[没]前413
古代ギリシア,アテネの将軍。ペロポネソス戦争で活躍。前 426年コリントの植民市レウカおよびボイオチア攻略に失敗。しかしその後,ナウパクトス防衛とアムフィロキアのオルパエとイドメネでの二大勝利により令名をはせた。前 425年には海軍を率いて,メッセニアのピュロスを占拠し,クレオンとともにスファクテリアにあったスパルタ軍を破り,重装歩兵 (ホプリタイ ) の一団を捕虜にした。翌年メガラ,ボイオチア攻略に失敗。前 413年ニキアス援助のため,シラクサに派遣されたが,エピポラエ夜襲に失敗,退却の機を逸して降伏,処刑された。有能な軍人ではあったが,政治の場に立つことはなく,戦略家として知られた。

デモステネス
Dēmosthenēs

[生]前384/前383. アテネ,パイアニア
[没]前322. カラウリア(現ポロス)島
古代ギリシア最大の雄弁家。イサイオスの門に学んでから法廷演説家として出発し,やがて政界に入り,特に愛国者として反マケドニア運動の先頭に立ち,力と情熱を傾けた議会演説によって祖国の奮起を促した。彼の名で伝わる 61編の演説のうちで特に有名なものは,『フィリッポス弾劾・第1~第3』 Philippikaをはじめとする政治演説で,その文体は初めはイソクラテスの影響で調和と洗練を示したが,次第に情熱的な個性がほとばしり,重厚さと盛上がりによって人を圧するものとなった。アレクサンドロス大王の死後再び反マケドニア運動を行い,失敗して追及を受け,服毒自殺した。

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