イラン(読み)いらん(英語表記)Iran

翻訳|Iran

共同通信ニュース用語解説 「イラン」の解説

イラン

中東の地域大国の一つ。日本の伝統的友好国で人口約8800万人。イスラム教シーア派が90%以上を占め、最高指導者ハメネイ師が国政全般の決定権を握る。髪を隠すヘジャブ(スカーフ)を着用する義務を女性に課しており、国会は違反者への罰則を強化する法案を9月に可決した。核開発を巡りイスラエルとの対立が激化、中東不安定化の要因にもなっている。石油や天然ガスといった資源が豊富だが、米国の強力な制裁で経済が長らく低迷している。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「イラン」の意味・読み・例文・類語

イラン

  1. ( Iran ) アジア大陸西南部の共和国。国名は「アーリア人の国」の意という説もある。正式国名イラン‐イスラム共和国。北はカスピ海、南はペルシア湾、オマーン湾に面し、イラン高原が大部分を占める。アーリア系諸語を話す集団が移住して来たのは紀元前九~七世紀で、前六世紀にはアケメネス帝国を建国。以来、パルティア、サーサーンなどが栄え、またアラブ人、モンゴル人などの支配を受けた。一九二五年パーレビー朝創建、三五年イランを正式国名とする。七九年イスラム共和国となる。国境問題、ペルシア湾岸地域の覇権などをめぐって、八〇年九月から八八年八月までイラクとの間に、イラン‐イラク戦争があった。世界有数の石油産出国。首都テヘラン。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イラン」の意味・わかりやすい解説

イラン
いらん
Iran

総論

中東のイスラム共和国。正式国名はイラン・イスラム共和国Keshvar-e Jomhūrī-ye Irān-e Islām。欧米ではギリシア以来、アケメネス朝の故地パールサPārsa地方に由来するペルシスPersisまたはペルシアPersiaなどを用いてきたが、1935年1月1日パフラビー朝のレザー・シャーによってイランが正式の外国語呼称に定められた。ただペルシアもイランの同義語として今日でも用いられている。面積164万8195平方キロメートル、人口7120万8000(2007推計)、人口密度1平方キロメートル当り43人。首都はテヘラン。

 西はトルコとイラク、南はペルシア湾、東はアフガニスタン、パキスタン、北はカスピ海と、アゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタンに接する。古来東西交通の要衝を占め、アケメネス朝(ペルシア帝国)、ササン朝などの大帝国が興隆、イスラム時代に入っても世界史上重要な役割を演じ、イラン文化圏を形成。1970年以降、産油国のなかで指導的な役割を果たしてきた。1979年2月のイスラム革命(イラン革命)によって2500年を超す王制は終わりを遂げた。シーア派イスラム教を国教とし、国旗には緑、白、赤の三色旗に「神は偉大なり」のスローガンが入っている。

[岡﨑正孝]

自然

地形

イラン北部を東西にアルボルズ山脈が、北西部から南東部にザーグロス山脈が走り、この両褶曲(しゅうきょく)山脈の間に標高1000~2000メートルのイラン高原が形成されている。両山脈はアルプス‐ヒマラヤ造山帯に属し、前者は新生代鮮新世の造山運動により、後者は白亜紀後期、早期鮮新世の造山運動の影響を強く受け、後期中新世と鮮新世の長い期間にわたる褶曲によって現在みられる大山系が出現した。国土の大部分はイラン高原上にあり、低地はカスピ海岸、ペルシア湾岸のわずかな部分にすぎない。高原部は乾燥していて、その中央部には、かつては湖底だったカビールとルートの二大砂漠が横たわり、両辺縁部には多くの褶曲山脈が並行して走っている。北西部には塩分の多いウルミーエ湖があり、中央部にはナマク湖など塩湖が多い。季節的に水のなくなる河川や、下流が砂漠に消える尻無(しりなし)川も多い。最大の内陸河川はイスファハーンを貫流するザーヤンデ・ルード(川)で、この川はガーブハーニー沼に流れ込んでいる。南東部にはザーグロス山脈から流れ出るカールーン川があり、その流域に平野が広がっている。

[岡﨑正孝]

気候

地域によって大きく異なる。高原部は大陸性で乾燥しており、テヘランでは年降水量219.2ミリメートル、7月の湿度は24%である。降水は冬に集中し、夏期にはほとんど雨が降らない。カスピ海沿岸地方は地中海性気候を示し、カスピ海を通ってくる湿気を帯びた風と後背のアルボルズ山脈の影響で降水量も多く、かつ温暖である。またペルシア湾岸低地では降水量は少なく、アラビア半島から吹き寄せる熱風の影響で高温多湿である。北西部は半乾燥地域に属し、比較的降水が多い。

[岡﨑正孝]

地誌

自然条件の違いによって次の4地域に区分することができる。まず第一はイラン高原地方で、テヘラン、シーラーズ、マシュハド、イスファハーン、ケルマーン、ヤズドなどの歴史的に重要な役割を果たした都市が含まれる。この地域は年降水量250ミリメートルに達せず、湿度は低く、乾燥している。そのためイバラなど耐旱(たいかん)性の植物を除き一般には植物は自生しない。乾地農法は成立せず、河川、泉、井戸やカナートとよぶ地下灌漑(かんがい)溝によって水の得られる所でのみ農耕が営まれており、ここにオアシス集落ができる。この地方では砂漠のなかに点状に集落が成立している。都市も水が多量に存する所にできる。作物は麦類が主で、ほかに綿花、テンサイなどの商業作物も栽培される。

 第二は北西部地方で、高原地方よりは自然に恵まれ、300~500ミリメートルの年降水量を有する。乾地農法が可能で、耕地は面状に広がり、地味も豊かで生産性が高い。穀類のほかタバコ、果実、ブドウも栽培される。アゼルバイジャン、ハマダン、ケルマーンシャー、ロレスターン地方がここに含まれ、イランの農業地帯を形成している。この地域はイラク、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと国境を接しているため、外国の影響を強く受け、異民族や外国にしばしば占領された。19世紀来イランの文化的、政治的先進地域であった。

 第三はカスピ海とアルボルズ山脈に挟まれた平野部で、ラシュト、エンゼリー、ゴルガーンなどの都市がある。ここはイランでもっとも年降水量が多く、東部のゴルガーン地方では500ミリメートル、西部のギーラーンでは1000ミリメートルを超える。豊かな降水を利用して米作が行われ、柑橘(かんきつ)類、茶、綿花の栽培が盛んである。人口は稠密(ちゅうみつ)で全国平均の約4.5倍(人口密度163人)に達する(2002)。山は温帯広葉樹林で覆われ、製炭なども行われる。夏は海水浴客が集まり、リゾート地となる。

 第四はザーグロス山脈とペルシア湾に挟まれた地方で、バンダル・ホメイニ、アバダーン、ホッラムシャフル(旧フニーンシャフル)、バンダル・アッバースなどの都市が含まれる。この地域の自然はイランでもっとも厳しい。年降水量は250ミリメートル以下、湿度は年平均60%を超え、酷暑多湿の地である。自然条件に恵まれず、農業をはじめとする経済活動は一般に低調であったが、西部のフーゼスターンは例外で、ここはかつては大農業地帯として栄えた。モンゴルの侵入によって荒廃したが、1950年以降開発計画が実施されてきた。20世紀に入り石油が発見され、世界の主要産油地帯として重要な地域となった。アバダーンには大製油所がある。

[岡﨑正孝]

歴史

イスラム前

紀元前1000年代アーリア民族が数世紀にわたりイラン高原に侵入、北西部イランに定着したメディア人が前7世紀エクバタナ(現ハマダン)を都に王国を建てた。前550年ファールス地方に興ったアケメネス朝(ペルシア帝国)はメディアを滅ぼし、広大な領域を支配する世界帝国を形成、長い間ギリシアと戦ったが、前331年アレクサンドロス大王によって滅ぼされた。大王の死後(前323)はセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入ったが、前250年前後には北部イランに興ったイラン系遊牧民のパルティア朝がとってかわった。パルティアは500年間イランを治め、西ではローマと対峙(たいじ)、226年にササン朝に滅ぼされた。ササン朝はゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝時代の伝統を受け継ぎ、イラン文化の隆盛期を創出した。

[岡﨑正孝]

イスラム時代

ササン朝は642年アラブ軍に滅ぼされた。ウマイヤ朝、アッバース朝下でイスラムへの改宗が進み、アラビア語が公用語となった。しかし、ブハラを都として9世紀に栄えたサーマーン朝の下で古代の文芸が復興し、近世ペルシア文学が生まれた。サーマーン朝にかわり東イランを支配したガズナ朝はトルコ系の王朝であったが、この王たちもイラン文化の保護者となり、宮廷に多くの学者、文人を招いた。『王書』を書いたフィルドウスィー、科学者ビールーニーはこの時代の人である。10世紀中ごろ中央アジアから南下したトルコ系のセルジューク人はガズナ朝を滅ぼし、イランの支配者となった。西アジアへのトルコ人の流入はこのときに始まる。セルジューク朝の諸王もペルシア文化を保護し、ガザーリー、ウマル・アル・ハイヤーミーなど有名な学者、文人が輩出した。1258年モンゴル人によってイル・ハン朝(イル・ハン国)が、1370年ティームール朝(ティムール帝国)が成立しイランの支配者となった。王朝交替時には侵略戦によって国土の荒廃は避けられなかったが、新王朝創設後国土の復興がなされ、イラン・イスラム文化が興隆した。

 1501年イラン民族国家サファビー朝が成立、シーア派イスラムを国教として、シャー・アッバースのときに最隆盛期を迎えた。首都イスファハーンは70万の人口を擁する大都市になった。しかし1722年にはアフガン人の侵入により事実上崩壊。アフシャール朝のナーディル・シャー(在位1736~47)の支配を経て、ザンド朝の成立をみ、この王朝のカリーム・ハーン(在位1750~79)の下で繁栄した平和な時代を迎えた。18世紀末トルコ系カージャール朝が王朝を建てた。この王朝は二度ロシアとの戦いに敗れ、領土を失ったほか、1828年の条約では治外法権をも認めざるをえなかった。19世紀後半にはヨーロッパの原料供給地、工業製品の市場となり、イランの経済は大きな影響を被った。また、イギリス、ロシアに対する利権の供与が続き、これが反王制運動の源となった。1906年には激しい立憲運動が起こり、憲法の制定をみた。1908年立憲制を弾圧しようとした政府軍と立憲派は激しく対立したが、立憲派の勝利に終わった。第一次世界大戦中は中立を宣言したが、西部イランは戦場と化した。1921年2月コサック旅団の士官レザー・ハーンが首都テヘランを無血占領、1925年にはカージャール朝を廃し、レザー・シャーと称してパフラビー朝を建てた。

[岡﨑正孝]

パフラビー朝

レザー・シャーは中央集権的行政機構を整え、軍事、法制、学制などの近代化を図った。そのほか、イラン縦貫鉄道の完成、チャドル(女性の外被)廃止などもなされた。西欧化政策を強権によって推進する一方、古代イランの伝統の復活を図り、カーペット織りなど伝統工芸を保護したり、イスラム暦にかわり伝統的暦法を公用暦に採用した。第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとイランは中立を宣言したが、1941年イギリス、ソ連両軍はイランに侵入、シャー(国王)は退位しモーリシャスに亡命した。大戦中イランは連合軍に協力、兵站(へいたん)供給地となった。1951年には首相モサデクを指導者とする石油国有化運動が起こり、石油事業に利権を有するイギリスとの間で紛争が生じたが、1953年にはザーヘディ将軍によるモサデク打倒のクーデターが成功、1954年アメリカの石油会社を含む国際石油財団(コンソーシアム)が石油事業を行うことになった。モサデク失脚後帰国したパフラビー朝2代目の国王ムハンマド・レザー・シャー(パーレビ国王)は、1962年からは農地改革、女性参政権付与など6項目からなる内政改革(「白色革命」)を実施、経済も順調に発展した。経済成長率は1950年代には4.5%であったが、1960年代には9~10%、1971年14.3%、1974年51%と高度成長を実現した。経済の発展を背景に1967年には国王の戴冠(たいかん)式、1971年に建国2500年祭を挙行、国威を発揚した。

[岡﨑正孝]

イラン・イスラム共和国の成立

1978年1月、イラクに亡命中の宗教指導者ホメイニを批判した政府に対し、シーア派の聖都コムで抗議デモが発生、このとき多くの死者が出た。これが発端となって各地でデモが頻発、政治的に緊迫した。9月以降、デモは回を重ねるごとに大規模になり、12月10日の宗教祝祭日(アーシューラー)のデモは150万人にも上った。反シャーの雰囲気の高まるなかで、シャーは1979年1月16日出国を余儀なくされ、2月1日ホメイニが亡命先のパリから帰国した。2月5日にはバザルガンがホメイニにより首相に指名され、シャーの任命したバフティヤールShāpūr Bakhtiyār(1914―1991)政権と二重権力が成立した。しかし、2月11日反シャー勢力がニヤバラン宮殿を攻撃した際、軍はバフティヤール側の防衛に加わらず中立を保ち、ここにバフティヤール内閣は自然消滅し、王制は崩壊した。3月30日には国民投票が行われ、4月1日ホメイニによりイラン・イスラム共和国の成立が宣言され、元首たる最高指導者にはホメイニが就任した。亡命中の元国王がアメリカへ入国したのを契機に、11月4日ホメイニ支持学生団によるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が勃発(ぼっぱつ)、占拠は1981年1月2日まで444日に及んだ。1980年2月4日バニサドルAbū al-Hasan Bani Sadr(1933―2021)が初代大統領に就任したが、宗教界主導のイスラム共和党(IRP)との間に対立と抗争が起こり、1981年6月バニサドルは解任されパリに亡命した。IRPは司法権、立法権のみならず行政権をも掌握、IRPと反IRP勢力との確執は激化の一途をたどり、IRP本部や首相府の爆破などテロ活動が相次ぎ、多くの要人が死亡、これに対して政府は反体制派の大量逮捕と処刑で応酬した。アムネスティ・インターナショナルの発表(1981年11月)によると、革命後3350人が処刑されたという。

[岡﨑正孝]

政治

政治制度

新憲法は1979年12月2日の国民投票で採択された。これはイスラム色のきわめて濃いもので、国の最高指導権は、指導者として国民の信望を集める宗教法学者に賦与され、すべての自由は「イスラムの原則に反しない限り」でしか認められない。イスラム法の原則に反した法律は制定できず、これを監視するため、聖職者で構成する憲法擁護評議会が設けられている。三権分立が憲法で規定されており、立法権は一院制の国民議会により行使されるが、重要な問題については国民投票による立法権の行使も認めている。議員の任期は4年で、定数は290人。行政府の長としての大統領は、最高指導者に次ぐ地位にあり、国民の直接投票により選出され、任期は4年で2期まで。また、イラン革命とシーア派に忠実であることが資格として要請される。内閣の首班であった首相職は1989年の憲法改正により廃止。司法権は最高裁判所長官、検事総長および3人のイスラム裁判官よりなる最高司法評議会に与えられている。最高裁判所長官と検事総長はイスラム法学者であることが要件となり、裁判官はイスラム法に基づいて判決を下す。

 1978年には、パフラビー朝下で非合法とされていた反王制の国民戦線が復活し、革命の実現に貢献、バザルガンが首相に、サンジャビーが外相になるなど、革命後一時、国の中枢を占めた。フェダーイン・ハルク、モジャーヘディーン・ハルクなどの左翼政治集団も革命に参加したが、ホメイニの支持を受けるイスラム共和党(IRP)との抗争に敗れて地下活動に転じ、IRP幹部の暗殺などテロ活動を行っていた。旧与党のIRPは1987年に解散した。なお、1979年の革命以来、信任投票的色合いが強かった大統領選挙であったが、1997年5月大統領ラフサンジャニの2期8年の任期満了に伴い、複数候補による選挙が行われ、穏健・急進派の支持を得た元イスラム指導相のハタミが最高指導者であるハメネイの推す保守派のナテクヌーリAli Akbar Nateq Nouri(1943― )を破って当選した。大統領ハタミは欧米諸国との関係修復にも意欲的に取り組んだほか、イラン革命を指導したホメイニが許可しなかったイラン製のポピュラー音楽や娯楽映画を一部解禁にし、服装の規制を緩和するなど、自由化を積極的に推進した。一方で、言論の自由を保障したことにより、体制に対する批判がなかば公然と行われるようになるなど、それまで考えられなかった事態も起きた。1999年7月、出版法改正法案に対して、報道の自由が制約されるとして、学生を中心に大規模な抗議デモが繰り広げられたのは、その一例である。2001年の大統領選挙でもハタミが再選、2期8年を務めた。

 2005年6月の大統領選挙では、保守穏健派の元大統領ラフサンジャニと、保守強硬派のテヘラン市長アフマディネジャドの決選投票の末、アフマディネジャドが当選、同年8月大統領に就任した。イランで非聖職者が大統領となるのは、1981年にラジャイMohammad-Ali Rajai(1933―1981)が暗殺されて以来のことであるが、アフマディネジャドは大統領就任後、過激な反イスラエル発言を繰り返すなどし、国際社会の反発を招いた。

[岡﨑正孝]

地方行政

28の州(オスタン)に分かれている。この下に県(シャハレスタン)が置かれ、その下に郡(バフシュ)がある。各地方行政の長は中央より任命される。郡のなかには町(シャフル)と村(デヘスタン)がある。これらの行政機構とは別に、革命後にはモスクが配給物資分配を行うなど行政の一部を肩代りした。

[岡﨑正孝]

外交

パフラビー朝下ではアメリカの影響力がきわめて強く、1955年以来バグダード条約機構(後の中央条約機構)の構成員であり、中東における反共の要(かなめ)としての役割を果たしてきた。1979年11月に発生したイスラム系学生によるアメリカ大使館占拠事件(1981年1月20日まで444日間)を契機として両国は公然たる敵対関係に入った。革命指導者は反共思想をもち、天然ガス輸出を停止するなどソ連とも友好的ではなかった。外交の基本は排外主義的で非同盟中立路線をとり、1979年11月にリビアと外交を再開している。またイラクとの国境紛争が再燃し、1980~1988年のイラン・イラク戦争となった。その後もアメリカはイランを「テロ支援国家」と非難、ヨーロッパ諸国とは1989年にホメイニがイギリス人サルマン・ラシュディSalman Rushdie(1947― )の小説『悪魔の詩』がイスラム教に敵対するとしてラシュディに死刑を宣言した(『悪魔の詩』事件)ことから、関係が悪化したままであった。しかし、かつては反共思想を背景に非友好的な関係にあったソ連とは、ホメイニ死後の1989年「ソ連・イラン関係と友好協力に関する宣言」に調印した。穏健派のラフサンジャニが大統領に就任、ソ連最高会議議長ゴルバチョフとの会談で合意したもので、ソ連との関係はその後のロシア時代を通じて友好的な関係を保っている。イランの原子力発電所の支援・協力は続いているし、1993年の洪水被害時にはロシアから救援物資が空輸された。さらに、1997年大統領に就任したハタミは、緊張緩和外交に転換した。1998年、ハタミはイラン大統領として11年ぶりに国連総会で演説し、「文明間の対話」を呼びかけた。また、ラシュディの死刑宣言に対しては政府は関与しないと確約。1999年7月には、イギリス大使が10年ぶりにテヘランに着任するなど、ヨーロッパ諸国との関係改善が図られた。しかしアメリカは、1995年に国内の企業にイランとの取引を禁じる対イラン全面禁輸措置を実施し、1996年にはイラン・リビア両国の石油産業等に投資を行う国内外企業に対し制裁を科することを目的とした「イラン・リビア制裁法」を成立させるなど、対イラン制裁を継続した。さらに2002年1月大統領ブッシュは一般教書演説で北朝鮮、イラクとともにイランを「悪の枢軸」と名指しで非難するなど、イラン・アメリカ間の緊張は高まっている。

 2002年イランの原子力施設の建設が発覚し、イランの核問題が国際社会に大きな波紋をよんだ。イランは2003年に国際原子力機関(IAEA)による核査察の受入れを表明し、2004年11月にはイギリス、フランス、ドイツとの間で、ウラン濃縮関連活動の停止に合意したが、2005年8月アフマディネジャドが大統領に就任後これを拒否し、ウラン転換活動(ウラン濃縮の前段階)を再開。さらに2006年1月、イランはウラン濃縮を含む核研究開発を再開するなどしたため、同年2月、IAEA緊急理事会はイランの核問題について国連安全保障理事会へ付託する決議を採択し、3月、国連安保理は議長声明でイランにウラン濃縮活動の停止を求めた。しかしイランはこれを拒否し、4月には濃縮ウランの製造を開始、アフマディネジャドはイランが核技術保有国の一員になったと発表するなど、対立姿勢をみせた。そのため、同年7月、国連安保理はイランに対しウラン濃縮関連・再処理活動の停止を義務づける決議を採択。しかしイランが同決議を拒否したことから、12月には制裁決議、翌2007年3月には追加制裁決議を全会一致で採択した。

[岡﨑正孝]

防衛

パフラビー朝のレザー・シャーが近代的軍隊を創設、旧王制軍は総兵力54万5600人を擁し、「ペルシア湾の憲兵」の役割を果たした。現在は最高指導者を最高司令官とし、最高国防評議会の下に陸軍約35万人、海軍1万8000人、空軍5万2000人の軍隊をもつ(推定)。また、正規軍とは別に民兵部隊を一本化した約12万5000人の革命防衛隊があり、王制時代の秘密警察サバクSAVAKにかわりサバマSAVAMAが組織されている。

[岡﨑正孝]

経済・産業

概説

1925年にパフラビー朝を建てたレザー・シャーによって近代産業がおこされ、セメント工場や繊維工場などがつくられ、製鉄所建設も計画された。第二次世界大戦後は1949年以降1978年まで5次にわたり開発計画が実施され、おもに石油収入やアメリカの経済援助を財源とし経済各分野の近代化が図られた。とくに1963年からは「白色革命」の実施と並行し、石油収入の飛躍的増大もあり高度経済成長期を迎えた。しかし、イラン革命による混乱、イラン・イラク戦争などによって経済活動は停滞、1980年の国民総生産(GNP)は1977年の約71%に縮小したといわれたが、その後経済の建て直しを図り、1997年には1086億1400万ドル、2003年には1368億ドル、2005年には1885億ドル(IMF暫定値)となっている。1人当りGNPは2802ドルに達し、GDP成長率は5.8%(2007)と高い水準にある。

[岡﨑正孝]

資源・鉱工業

最大の鉱物資源は石油である。1901年イギリス人ダーシーWilliam Knox D'Arcy(1849―1917)が南部イランの石油開発利権を取得、1908年マスジェデ・ソレイマーンで試掘に成功した。1909年に利権はアングロ・ペルシア(のちにアングロ・イラニアンと改称)石油会社に譲渡され、石油の開発、精製、販売にあたった。1914年イギリス政府は海軍の燃料供給のため同社の株式の50%を取得した。アバダーンには日産50万バレルに達する世界最大の製油所がある。1949年の利権料改訂をめぐり石油国有化運動が激化、1951年3月国有化法が成立、モサデク政権の下で同社の施設接収などが行われた。イギリスとの間で紛争が続いたが、1953年のモサデク政権崩壊後、1954年に国際協定が成立、国有化は認められ、英米仏などの八大石油会社からなる国際石油財団(コンソーシアム)によって石油事業が行われることになった。しかし、1973年イランは石油に対する主権を確立、イラン国営石油会社(NIOC)の指示により旧財団加盟社が開発、生産、輸送などを行い、内需用以外の原油はこれらの会社に輸出用として割当てていた。革命後は旧財団に対する販売契約は破棄され、すべてNIOCの手で販売されるようになった。

 原油の確認埋蔵量は2006年末現在1375億バレルで、世界の約11.4%(世界第2位)にあたる。生産量は、イスラム革命前の1976年には日産588万バレルであった。革命後の1980年には日産170万バレルに激減したが、その後1998年には377万バレル、2006年には434万バレルまで回復している。1973年10月から1974年1月の間に原油価格は約4倍高となり、石油収入も1973年の44億ドルから1974年には170億ドルに増えた。2006年3月~2007年3月には624億5800万ドルとなった。石油以外の資源としては天然ガス、石炭、鉄、銅、鉛、岩塩、ニッケル、トルコ石などがあり、天然ガスの埋蔵量は世界第2位、生産量は第4位となっている。

 1962年以降工業化が進み、製鉄所が1971年に完成したほか、外資の流入により自動車、タイヤ、電化製品、肥料などの生産が活発になり、1973年には国民総生産に占める工業部門の割合は23%になり、実質19%の経済成長を遂げた。1973年には中東地域最大の規模を誇る石油化学コンビナート事業が日本との合弁によって開始されたが、イラン革命とそれに続くイラン・イラク戦争によって、1989年日本側が撤退、現在はイランが自力で操業している。

 1999年、イラン南西部、イラクとの国境付近でアザデガン油田が発見された。イラン最大級の油田で、推定埋蔵量約260億バレルとされる。2000年に日本企業が契約の優先交渉権を獲得し(のち2003年に交渉が妥結せず優先交渉権は失効)、2004年2月に交渉当事者間で合意が得られ、日本の国際石油開発(現国際石油開発帝石)がNIOCおよびその子会社と油田の評価・開発にかかわる契約を締結した。当初国際石油開発は75%の権益比率をもっていたが、2006年に65%をNIOCへ譲渡、現在は10%の権益を保有し開発に参加している。

[岡﨑正孝]

農林・水産業

農業用地は6224万8000ヘクタールで国土総面積の37.7%にあたる。うち耕地は1611万7000ヘクタール(2003)で、残りは樹園地、牧草地、牧場よりなる。主要農産物は小麦(1450万トン)、大麦(290万トン)、米(350万トン。以上2005年現在)で、ほかにテンサイ、ジャガイモ、サトウキビ、各種果実、野菜類が栽培される。カナートとよぶ地下灌漑(かんがい)溝や井戸、泉、ダム、河川などによって灌漑されているが、地表水は夏には水量が著しく減少する。高原地方の多くでは水の得られる所でしか農耕は営まれず、耕地の規模は用水の量に左右される。1962年以降農地改革が実施され、長年の大土地所有制は解消した。畜産は主として遊牧民によってなされ、2005年には、家畜数はヒツジ5400万頭、ヤギ2650万頭、ウシ880万頭であるが、生産性が低く供給不足で、毎年多量の肉を輸入している。漁業は盛んではないが、カスピ海のキャビア(チョウザメの卵)は世界的に有名で、年平均200トンを産する。

[岡﨑正孝]

貿易

最大の輸出品は石油である。それ以外ではじゅうたん、ピスタチオ、皮革類、キャビアが主たる輸出品で、工業化の進展とともに繊維製品、自動車、化学製品など工業製品の輸出も増えている。主要な輸出相手国は日本、中国、トルコ、イタリア、韓国、南アフリカ共和国、フランスなどである。輸入品目は機械類、食料、鉄鋼、車両などである。主要輸入相手国はドイツ、中国、アラブ首長国連邦、フランス、韓国、イタリア、日本である。

[岡﨑正孝]

交通

1938年にペルシア湾のバンダル・ホメイニとカスピ海のバンダル・トルクマーンを結ぶ鉄道が完成、のちにテヘラン―ジョルファ、テヘラン―マシュハド、コム―ケルマーン線がつくられた。道路網の整備も進み、幹線道路は舗装され、高速道路もいくつか建設された。もっとも重要な港湾は、ペルシア湾のホッラムシャフルで、ほかにバンダル・ホメイニ、ブーシェフル、バンダル・アッバースがある。テヘランとアバダーンは国際航空の要地である。なお、2004年に開港したテヘランのイマーム・ホメイニ空港は、空港運営をめぐる政府と保守派の対立により開港直後に閉鎖されていたが、翌2005年4月に運行が再開された。ほかにテヘランにはメフラバード空港がある。

[岡﨑正孝]

社会

住民

住民の大多数を占めるのはアーリア系のイラン人である。このほか7世紀以降イランに住み着いたアラブ人、11世紀末中央アジアから流入したトルコ人、少数民族としてアルメニア人、ユダヤ人、アッシリア人が住む。アラブ人はおもにイラクに隣接するフーゼスターン地方、トルコ人はトルクメニスタンに接するゴルガーン地方、トルコに隣接するアゼルバイジャン地方に多い。

 イラン、トルコ、アラブ系で部族組織をもつ住民もいる。イラン系の部族としてはクルド、ロル、バフチアリ、バルーチの諸部族がいる。クルド人の居住地はイラン、トルコ、イラクの3国にまたがり、イランでは北西部のコルデスターン、西アゼルバイジャン、ケルマーンシャー州に住み、人口は約350万と推定される。彼らの大半は19世紀後半に遊牧をやめ定着した。ロル人はイラン西部のロレスターンに、バフチアリ人はファールス、イスファハーン、フーゼスターンのザーグロス山地に住む。ロルとバフチアリとをあわせた人口は250万。バルーチ人は南東部のバルーチスターンに住む。パキスタン領にも多くのバルーチ人が住むが、イラン側の人口は約60万。トルコ系の部族としては北東部のゴルガーン、ホラサーンに住むトルクメン人がいる。彼らはアフガニスタン、アゼルバイジャンやトルクメニスタンなどの旧ソ連地域から独立した中央アジアの国々にもおり、総人口約100万と推定され、イラン領の人口は約10万。ほかにカシュカイ、アフシャール、シャーサバンなどの部族がいる。いまでも遊牧を続けているものが多く、カシュカイ人の場合には冬から夏の宿営地への移動経路は600キロメートルを超す。

[岡﨑正孝]

言語

国語は印欧語派のペルシア語である。文字にはセム系のアラビア文字を用いている。このほか、印欧語派に属するクルド語、バルーチ語が話され、トルコ系住民の間ではトルクメン語、アゼリー語などトルコ語の方言、アラブ人の間ではアラビア語が話されている。

[岡﨑正孝]

国民生活

工業化に伴い都市化が急速に進行し、都市人口の割合は総人口の約64.7%(2001)になった。大都市の人口増加は著しく、たとえばテヘランの人口は1956年の157万から1966年には298万、1976年445万、1996年には675万8845、2003年には719万に達した。この急激な膨張は深刻な住宅問題を引き起こし、これがイラン革命の要因の一つともなった。2001年推計の就業者人口に占める割合は、農業30%、鉱工業25%、サービス業45%となっている。革命前の1970年代に女性の職場進出が増大し、1976年の女性の就業人口は69万(農業外)に達した。国民所得は1963年次以降の「白色革命」により著しく伸びた。1人当り国民総所得(GNI)は3000ドル(2006)となっている。

 パフラビー朝成立前までは教育は主としてイスラム教の聖職者の手によってマクタブ、マドレセと称する宗教学校で行われてきたが、レザー・シャーの時代に世俗化が進み、1943年には義務教育法が施行された。現在は五・三・三・四制の学制がとられている。5年間の小学校が義務教育で、生徒数は1963年の172万から1978年には520万に増えた。2001~2002年の生徒数は約751万人となっている。識字率は1956年に15%であったが、1966年には38%、1977年には63%、1994年には男性78.4%、女性65.8%になった。2003年の推計では、15歳以上の識字率は全人口の79.4%で、男性85.6%、女性73%となっている。1935年にテヘラン大学がイランで初めての大学として設立され、1994~1995年には、大学30、医科大学30、専門大学12となり、大学生数は29万人を数える。留学生も多く、約12万人がアメリカやイギリスなどの大学で学んでいる。

 公用暦(イラン暦)は春分の日を歳首とし、預言者ムハンマド(マホメット)が迫害を逃れてメッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)した年、西暦622年を紀元とする太陽暦である。学年暦はイラン暦6月1日に始まるが、会計年度などはすべて春分の日から始まる。西暦622年を紀元とする太陰暦であるイスラム暦は宗教行事に関してのみ用いられてきたが、革命後これも公用暦となった。この暦は1年が354日で、月と季節は一定しない。休日はイスラム教の休日である金曜日。

[岡﨑正孝]

宗教

イランの全人口の99%はイスラム教徒であり、その大部分(89%)はシーア派を奉じ、トルクメン人、バルーチ人、クルド人など10%がスンニー派を奉じているにすぎない。宗教的少数派としてはユダヤ教徒やアルメニア人、アッシリア人などのキリスト教徒、ゾロアスター教徒(約3万人)、さらにバハーイ教徒もいる。バハーイ教はイスラムから派生、19世紀中ごろにおこったバーブ教から発展した宗教であり、イラン・イスラム共和国の下で非合法とされている。

[岡﨑正孝]

文化

イラン人は偉大な歴史的栄光と輝かしい文化的遺産に大きな誇りをもっている。とりわけ彼らは詩を好み、10世紀に著されたフィルドウスィーの『王書』をはじめ、15世紀末までに輩出したウマル・アル・ハイヤーミー、ニザーミー、サーディー、ハーフィズなどの詩に強い愛着を抱いている。詩は知識層の独占ではなく、国民のあらゆる層に浸透している。一方、散文は詩ほど重要ではない。イランでもアラブ征服後、絵画は発達しなかったが、13世紀以降歴史書や詩書の挿絵としてミニアチュールが描かれるようになり、15~16世紀には巨匠ベヘザードUstād Kamāl Ad-dīn Behzād(1455?―1536?)など多くの偉大な画家が出た。ペルシアの陶器は輝かしい伝統をもち、とくにセルジューク時代に隆盛の極に達した。ペルシアじゅうたんは、16世紀にサファビー朝の保護を受けて高級品が織られ、世界的に有名になり、19世紀には欧米でペルシアじゅうたんの需要が高まった。現在でも手織りであり、高価で、イラン人の蓄財の手段となっている。イラン人のシーア派教徒は、シーア派のイマーム(指導者)、ホセインの殉教日(アーシューラー)には殉教をしのび、苦しみを身をもって味わうなど、宗教的に熱狂する。一方、古代イランからの伝統的な行事である新年の祝日(春分の日)は、全国民にとって最大の祝日である。イラン人は客を歓待し、礼儀正しく、儀礼好きである。また自尊心が高く、自己主張が強い。自然条件が厳しいため水と緑へのあこがれは強く、水や緑をたいせつにする。

 新聞および月刊、週刊の雑誌は各種ある。これまで政治的空白期以外は言論・表現の自由はなかったが、大統領のハタミによる「現実路線」への改革で、かなり自由な発言が保障されるようになった。

[岡﨑正孝]

日本との関係

日本とイランの関係は、1880年(明治13)、通商条約締結のためイラン事情調査に吉田正春(1852―1921)、横山孫一郎らが派遣されたのに始まる。このとき条約は締結されなかったが、1896年には福島安正、1899年には家永豊吉(いえながとよきち)(1862―1936)が調査旅行をし、1902年(明治35)には井上雅二(まさじ)(1877―1947)が北イランを旅行している。1926年(大正15)に外交関係が結ばれ、領事館が開設された。第二次世界大戦中イランは連合国側となったため、1942年(昭和17)4月に国交断絶、1945年3月対日宣戦布告がなされた。戦後1953年(昭和28)に国交が回復され、1958年にはシャーが訪日、以来経済関係が強化された。日本にとってイランは重要な石油供給国であるほか、イラン革命前には消費財や資本財の輸出先として密接な関係にあった。1973年設立のイラン・ジャパン石油化学(IJPC)をはじめ、多くの合弁企業ができたが、革命後その大半は撤退した。1980年代なかごろから、出稼ぎ目的のイラン人不法滞在者が急増、1992年(平成4)9月、1974年に結ばれた査証免除協定を停止した(2004年末現在のイラン人の登録者数5403人、強制送還手続がとられた者の数673人)。

 経済関係では、日本はイランの最大の輸出相手国で、そのほとんどが石油となっている。イランから日本への輸出額は127億ドル、日本からイランへの輸出額は13億ドル(2007)と、エネルギー資源に乏しい日本の大幅な輸入超過になっている。1979~1999年度までの直接投資は累計で5億2900万ドルである。1993年度以降の直接投資はないが、1999年8月外務大臣高村正彦(こうむらまさひこ)(1942― )がイランを訪問、ハタミ政権の支持を表明、凍結していたイラン南部のカールーン川ダム建設の円借款を再開した。2000年にはイランの大統領として初めてハタミが来日。その際、1999年9月に発見されたイランのアザデガン油田の開発に関する共同声明に署名が行われた。

[岡﨑正孝]

『ギルシュマン著、岡崎敬他訳『イランの古代文化』(1970・平凡社)』『前嶋信次編『西アジア史』(1972・山川出版社)』『加賀谷寛著『イラン現代史』(1975・近藤出版社)』『黒柳恒男著『イラン――栄光の過去と現在』(1975・泰流社)』『足利惇氏著『ペルシア帝国』(1977・講談社)』『加納弘勝著『イラン社会を解剖する』(1980・東京新聞出版局)』『勝藤猛・内記良一・岡﨑正孝編『イスラム世界――その歴史と文化』(1981・世界思想社)』『根岸富二郎・岡﨑正孝編『イラン――その国土と市場』(1981・科学新聞社)』『富田健次著『アーヤトッラーたちのイラン――イスラーム統治体制の矛盾と展開』(1993・第三書館)』『後藤晃・鈴木均編『中東における中央権力と地域性――イランとエジプト』(1997・アジア経済出版会)』『原隆一著『イランの水と社会』(1997・古今書院)』『上岡弘二編『(暮らしがわかるアジア読本)イラン』(1999・河出書房新社)』『岡﨑正孝著『カナート イランの地下水路』(2000・論創社)』『大西円著『イラン経済を解剖する』(2000・日本貿易振興会)』『原隆一・岩崎葉子編『イラン国民経済のダイナミズム』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』『ハンス・E・ヴルフ著、大東文化大学現代アジア研究所監修、原隆一・禿仁志・山内和也・深見和子訳『ペルシアの伝統技術――風土・歴史・職人』(2001・平凡社)』『中西久枝著『イスラームとモダニティ――現代イランの諸相』(2002・風媒社)』『岡田恵美子・北原圭一・鈴木珠里編著『イランを知るための65章』(2004・明石書店)』『酒井啓子・臼杵陽編『イスラーム地域の国家とナショナリズム』(2005・東京大学出版会)』『宮田律著『物語 イランの歴史――誇り高きペルシアの系譜』(中公新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「イラン」の意味・わかりやすい解説

イラン
Īrān

基本情報
正式名称=イラン・イスラム共和国Jumhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān,Islamic Republic of Iran 
面積=164万8195km2 
人口(2010)=7434万人 
首都=テヘランTeheran(日本との時差=-5.5時間) 
主要言語=ペルシア語,アゼルバイジャン語,クルド語 
通貨=イラン・リアルIranian Rial

西アジアの東部を占め,西はトルコ,イラク,北はアルメニア,アゼルバイジャン,トルクメニスタン,東はアフガニスタン,パキスタンに接する共和国。

イランは正しくは〈イーラーン〉と発音される。この言葉はアーリヤ人を意味する古代ペルシア語の〈アルヤーンAryān〉が〈アイラーン〉〈エーラーン〉となまって変化し,近代ペルシア語に入って〈イーラーンĪrān〉となったものである。イランをさす呼称としてこれとまぎらわしいものにペルシアがある。古代ギリシア人は,アケメネス朝の支配領域をその王朝が勃興した故地であるイラン南西部のファールス地方にちなみ〈ペルシスPersis〉と呼ぶようになったが,それ以降,この言葉はラテン語に入りヨーロッパの側からのイランに対する他称となった。イランとペルシアの違いは自称,他称という別だけでなく,概念とニュアンスにおいて若干の相違がある。イランの概念は,(1)狭くイラン高原だけを指す地域概念,(2)1935年1月1日からパフラビー朝が正式に国号として定めたことによって一般化した国家概念,(3)文化・言語概念,の三つに分けることができる。このうち(1),(2)の概念は慣用としてペルシアと共通するが,(3)の概念はペルシアよりも広い意味で使われている。イラン系諸民族の原住地は,黒海とカスピ海北方のステップ地帯と考えられているが,その後の民族移動で黒海北岸地方にスキタイなどの北イラン語派,中央アジアにソグド人などの東イラン語派の住民,イラン高原に西イラン語派の諸族が居住・分布していた。このような歴史的事実からするとイランという概念は,文化史的には過去,現在においてイラン系の諸民族がかかわりをもった文化圏と理解することが適当であり,その中心地域はイラン高原,アフガニスタン,中央アジアであった。
イラン族

イランの地形は三方を山脈,高地に囲まれた逆三角形の高原である。北部にアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部をなすエルブルズ山脈が東西に走り,3000m級の山峰が連なっている。最高峰はテヘランの北にそびえるダマーバンド山(5671m)である。山脈に沿った地域は造山活動のために地震が頻発する地域となっている。北西部から南東部に向かって別の数条の山脈が並走している。これをまとめてザーグロス山脈といっているが,3000m級の峰が連なり,山間の盆地にオアシスの集落が発達している。東部のアフガニスタンとの国境地帯は連続した山脈といえないが,とぎれとぎれに高地がある。イラン高原の標高は平均して700m以上,もっとも低い所は南東部の300m,高い所はエルブルズとザーグロスの両山脈が出会う北西部のアゼルバイジャン地方の1500mである。

 イラン高原の気候はエルブルズ,ザーグロスの両山脈が外洋からの影響をさえぎる自然の障壁になっているため,降水量が年間を通じて少なく,極度に乾燥していることが特徴である。高原全体の平均の年降水量は250mm程度,三方の山脈,高地から離れて中央部にいくほど降水量は減少し,年間100mm以下の人の住むことが不可能なカビール砂漠,ルートLūṭ砂漠になっている。東部のバルーチスターン,シースターンSīstānの両地方はまったくの砂漠ではないが,標高の低い内陸盆地であるために乾燥が著しい。イラン高原で比較的降水量に恵まれているのは,500mm以上の雨が降る北西部のアゼルバイジャン地方で,乾燥森林と叢林ステップが見られ,天水農業が可能となっている。

 大陸性の気候を示すイラン高原は,夏と冬の気温較差が25℃以上と大きい。7月は平均気温30℃,昼間は40℃を超す暑さを記録するが,1月は中央アジア方面の高気圧帯から寒冷で乾燥した空気が流れこんでくるため,平均気温は3℃となり,寒さが厳しい。また,冬は地中海方面から移動してくる低気圧の影響で,雨がこの時期に集中して降る。高原部での生活の場は,以上のような過酷な自然と風土に制約されてかたよったものになっている。村,都市といった集落は,比較的降水量が多く水を得ることが容易なエルブルズ,ザーグロス両山脈の麓か山間の盆地に集中している。このような所は春に山からの融雪水が中小の河川となって流れ,また伏流して地下水になったものをカナート灌漑によって利用できるため,農業と生活の便に恵まれている。

 イランの大半は高原地域によって占められているが,わずかながら低地帯も存在する。その一つはエルブルズ山脈の北側,カスピ海南岸に沿って延びるギーラーン,マーザンダラーンMāzandarān両地方の海岸平野とその東に続くトルクメンのステップである。この地域はカスピ海の湿潤な空気が北斜面にあたるため,年間1000mm以上の降雨があり,夏乾燥,冬多雨の地中海性気候となっている。とくに湿潤なのはギーラーン地方で,広葉樹の茂る森林と水田があり稲作が行われている。東に行くにしたがって乾燥度が強まり,カスピ海南東部のトルクメン平原ではステップ化している。ここでは遊牧のほかに綿作とタバコの栽培が行われている。

 もうひとつの低地帯はペルシア湾岸地方である。総じてこの地域は,山地が海岸にまで迫り平野が少ないが,カールーン川の浸食作用で扇状地となったザーグロス山脈の南西部は,フージスターンホーゼスターン)の平原になっている。ここはメソポタミア平原の地続きで住民はアラブ系である。古代ペルシアの時代からアッバース朝中期の頃まで灌漑網が整備されて肥沃な所として知られていたが,その後は荒廃した。現在は石油採掘の中心地である。

 住民は,ペルシア語を用いるイラン人を中心とするが,このほかトルコ系,イラン系の諸民族が混在し,宗教も含め複雑な社会構成となっている。これについては,[社会,文化]の記述を参照されたい。

7世紀にアラブの征服を受けるまで,イラン文化圏はイラン高原と中央アジアの二つの地域に分かれて歴史を展開させていた。前者においてはアケメネス朝パルティアササン朝の諸王朝が興亡し,後者においてはホラズム,バクトリア,ソグドの各地方にオアシス都市国家が盛衰を繰り返していた。7~8世紀の〈沈黙の2世紀〉といわれるアラブ支配期に,東西のイラン語派を代表するソグド語パフラビー語の中世語はすたれて使われなくなり,代わって9世紀になるとアラビア語の語彙を多量にとりこんだ近代語が,両地域の接点をなすイラン北東部からアフガニスタンの北部地方で生まれ,イラン文化圏の共通語になった。これはダリーDarī語といい,後の近代ペルシア語のもとになった言葉である。新しい言語の誕生はイラン・ナショナリズムの精神を高揚させ,イラン高原にターヒル朝(821-873),サッファール朝(867-903)という民族王朝を成立させた。続くサーマーン朝(875-999)の時代になると,言語の共有を背景に東西のイラン世界が初めて政治的に統一され,以後,トルコ系遊牧民の侵略,支配を受けながらも,その文化的一体性をティムール朝末期の15世紀まで保っていく。16世紀を迎えるとイラン文化圏は政治,宗教,文化の面で分裂する。中央アジアではウズベク族のシャイバーニー朝(1500-99)の成立によってトルコ化が決定的となり,イラン系の言語はタジク語として少数言語になっていった。他方,イラン高原では10世紀以来,ガズナ朝(977-1186),セルジューク朝(1038-1194),ホラズム・シャー朝(1077-1231),イル・ハーン国(1258-1353),ティムール朝(1370-1507)など,トルコ・モンゴル系遊牧民の支配が続いたが,基層にはイラン文化が根強く残っていた。この傾向はシーア派を国教とするサファビー朝(1501-1736)のもとでイランの国民意識となって結実し,アフシャール朝(1736-96),カージャール朝(1779-1925)のトルコ系王朝の支配を経てパフラビー朝(1925-79)のもとで,イランの複雑な民族構成を克服するイデオロギーとしてイラン主義が唱えられるにいたった。
執筆者:

19世紀前半のたび重なる対外戦争,すなわちイラン・ロシア戦争(第1次,1804-13。第2次,1826-28),ヘラート攻防戦(第1次,1837-38。第2次,1856-57),さらにイギリスとの戦争(1857)に敗北を繰り返し,弱体をさらけ出したカージャール朝イランは,いやおうなく西欧列強への政治的・経済的従属化の道を歩み始めることとなった。特に,副都タブリーズをロシア軍に占領されるという手痛い敗北を被った第2次イラン・ロシア戦争の結果締結されたトルコマンチャーイ条約(1828)は,単に領土の割譲や利権の供与を約したにとどまらない。同条約によりイランは,関税の自主権の放棄と領事裁判権を認めることを強いられたのであり(カピチュレーションの開始),この意味で,イランが主権国家から転落する第一歩を印すものであった。このことは同時に,元来絶対的かつ自己完結的であり,ムスリム(イスラム教徒)社会の全一的体系であるべきはずのイスラム法(シャリーア)が,もはやそれとして機能しえなくなるという決定的事態の到来をも意味した。それだけに,イスラムの専門学者であり,ムスリム大衆の導き手であるばかりではなく,イスラムの防衛者としての役割も負うウラマー層は,こうした事態に対しとりわけ強い反発を示し,シーア派イスラムの危機として深刻に受け止めていく。

 19世紀後半にいっそう頻度を増した諸外国との不平等条約の締結や,利権の譲渡,借款の導入政策は,伝統的イラン社会を根底からゆさぶり,諸社会層の動揺と不満を募らせていった。こうして高まった不満や反発が,一気に噴出するのがタバコ・ボイコット運動(1891-92)であり,それはイラン民族運動の起点として位置づけられている。さらに,西欧列強への従属化を阻止しえなかったというよりは,結果としてその推進役を果たしたカージャール朝の専制支配に対する批判が強まっていくなかで,反列強・反専制闘争として展開されたのがイラン立憲革命(1905-11)であった。この革命を通じてイランが獲得した最大の成果である国民議会Majles-e shūrā-ye mellī(1906年10月開設)は,支配層の経済的基盤となっていたトゥユール制を廃止し,王族への年金の削減を行うなど,専制支配の基盤の切りくずしを図る一方,外国への利権譲渡および借款導入の拒否,外国人官吏の追放,国民銀行の設立等の方針を打ち出し,イラン経済の再建と政治的自立への道を邁進(まいしん)する。また主としてベルギー憲法に範をとったとされる基本法Qānūn-e asāsī(イラン憲法)は,立憲君主制をイランの新政体と定めると同時に,〈イラン国民mellatの諸権利〉(基本法補足,第8~25条)として,人格,財産,住居の不可侵,法の下での平等などをうたい込んでいる。

 元来イスラムの信徒共同体を意味したメッラトmellat概念が,ここにみられるような〈国民〉という意味合いを帯びるようになるには,西欧流の立憲主義思想の紹介につとめたマルコム・ハーンターレボフの活動に負うところが大きい。そしてこの国民概念は,祖国vaṭan,人民mardomといった言葉とともに,立憲革命を通じて初めてイラン社会内部で一般化し定着化していくのである。当時の立憲主義者たちにとっては,この国民概念は,国家の主権の源としての,権利主体としてのそれである以上に,反列強闘争を担う民族運動の主体としてより大きな意味をもっていた。それは,イランの従属化を招来した元凶はひとり専制的支配体制にあるのではなく,それが拠って立つイラン社会自体が内包する言語的・宗教的・民族的多様性に由来するという共通認識に立ち,この多様性を克服する新たな統一概念として,国民概念が強く意識されていたことに示されている。

 イランにおける国民概念発展のこうした特質は,1950年代初頭のモサッデクによる石油国有化運動が,国民の諸権利を軽視してきたパフラビー体制を危機に追い込みながらも,運動の主流は反帝国主義民族解放闘争として展開したことに端的に現れていよう。もっとも,立憲革命の評価自体にもそれを確認することができる。ロシア軍の直接的軍事介入の圧力で第2議会が崩壊したこと(1911年末)をもって立憲革命を失敗もしくは未完に終わったとする立場がそれである。これは立憲革命の基本的意義は,イラン〈国民〉によるイランの独立回復への闘いにあったことを強調し,その挫折の原因を,外国軍の干渉にもとめるものである。したがって立憲革命の〈国民〉による権利闘争史としての側面は背後に押しやられてしまうこととなる。1925年にレザー・シャー・パフラビーが,立憲革命が達成しえなかったイランの完全独立を叫び,立憲制の正統なる継承者と自らを任じ,軍事独裁政権(パフラビー朝)を成立させえた条件の一つをそこに見いだすことができる。事実,レザー・シャー政権は,1921年のイラン・ソ連条約をはじめとするカピチュレーションの撤廃に成功する。それはイランをめぐる英ソの勢力均衡を巧みに利用したものであった。

 第2次大戦後,モハンマド・レザー・パフラビーは,イランをめぐる冷戦体制のもとで,アメリカとの結びつきを強め,イランの近代国家への脱皮が主権国家への道であることを旗印に,1963年以降白色革命とよばれる上からの強引な〈近代化〉政策を推進する。70年代以降は,増大する石油収入に自信を深め,国王主導型路線を邁進し,これを保証するサバクSAVAKをはじめとする膨大な抑圧機構をつくりあげる。パフラビー朝50年の専制は,イラン近代史が獲得し発展させてきた権利主体としての国民概念の未成熟さを反映するものであったと言えよう。この意味で,1979年2月のイラン革命は,その末期には,〈人権蹂躙(じゆうりん)についてイランほど恐ろしい記録をもつ国は世界中にない〉と烙印を押されたパフラビー体制を根底から否定し去り,新政権を樹立し,同年3月にホメイニーを最高指導者とする新政権は〈イスラム共和国宣言〉を発し,12月にはイスラム共和国憲法を制定した。

 この新政権がイスラム的価値体系に基づく新たな国家・社会秩序の構築に向けての具体的プラン作成の拠り所としたのは,ホメイニーが主張する〈ベラーヤテ・ファキー〉論であった。彼が1970年代初頭に発表した同名の著書において構想したベラーヤテ・ファキー論とは,イスラム法学者(ファキー)による直接統治であった。これは,イスラムに通暁した専門家(ウラマー)は公正なる統治が行われるよう為政者に助言を与え,その監督を行わなければならないとするシーア派十二イマーム派の政治思想に伝統的に見られた〈法学者の後見・監督〉という意味での〈ベラーヤテ・ファキー〉論からすると,極めて斬新な内容と言えよう。〈隠れイマームの再臨の時までは法学者(ファキー)が国事の統轄と信徒共同体の指導を行わねばならない〉ことを謳った共和国憲法第5条は,この理念を受けたものであり,同第8章(107~112条)ではそれが〈最高指導者(ラフバル)〉として具体化されている。理論上主権は神に属するが,その行使権は国民に属することを明示する(第56条)イスラム共和国憲法は,欧米諸国同様,三権分立の原則を堅持し,相互のチェック体制への配慮もある。しかし,〈最高指導者〉はこれら三権の上位に位置する存在であり,憲法第110条が規定するその職責は,イスラム共和国の全般的政策の決定と監督に始まり,国民投票の発令,全軍最高司令官,三権の関係の調整など多方面にわたり,また,憲法擁護評議会メンバー,司法長官,統合参謀総長,共和国国営放送局総裁の任免権など広範囲な権限を有する。

 80年9月イラン革命の波及を恐れたイラクがイランに侵攻し,両国は全面戦争に入った(イラン・イラク戦争)。革命後の混乱に加えて戦争の長期化で経済は疲弊し,88年7月イランは国連の停戦決議受諾を発表した。和平交渉は難航したが,90年8月クウェートに侵攻して国際的孤立を招いたイラクが譲歩し,両国の国交は正常化した。
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イランは1951年に石油国有化を達成し,中東地域における石油国有化の先駆者であった。73年には石油操業権を接収したもののコンソーシアムへの販売を定めた協定を結ばざるをえなかったが,79年のイラン革命後になって直接販売が可能となり完全国有化が実現された。イラン革命は,1970年代の石油収入急増とこれに伴う構造変動によって引き起こされ,80年代の中東などイスラム諸地域における国家や社会のイスラム化への先駆となった。冷戦構造の終焉に伴う社会主義圏の国家崩壊もあいまって,革命後のイランでは国境をまたいだ地域経済が形成されつつある。

 石油はイラン経済最大の担い手であり続けている。石油輸出は旧体制のピーク時1977年には240億ドルに至ったが,イラン・イラク戦争の休戦を受け入れた87年には86億に低下し,96年でも175億ドルに回復したに留まる。革命後,新政府は〈GDPに占める石油部門比率の低下〉を説き,同比率は1977年の32%から95年には16%に低下した。逆に,農業部門比率は9%から25%に増加した。革命後GDPは1991年に1977年水準を回復したけれども,人口は1976年の3370万人から86年には4940万人と増加し,一人当りGDPは1977年(1500ドル)を大幅に下回り,88年には700ドルに終わった。

 大戦直後からの輸出入をみると,1951年には石油輸出が輸出額の61%を占め,乾燥果実とカーペットが続いた(同6.4%,5.8%)。旧体制のピークであった77年には,石油輸出が94%と著しく高まり,これら伝統的輸出品は低下した(同1.3%,0.9%)。革命後の96年に石油輸出は総輸出の75%を占めたが,カーペット(11%),乾燥果実(3.2%)の輸出が増え,1951年の貿易構造に類似することになった。また,70年代央に輸入額は年間144億ドルと1951年の輸入額の48倍となり,機械・輸送機器(43%),鉄鋼(10%)の輸入が多く,資本財は27%,中間財が54%であった。輸入額はさらに革命後80年代末には95億ドルほどに減少したが,90年代初めには240億ドルに急増し,貿易収支は65億ドルの大幅赤字となるなど,振幅が大きい。96年の輸入額は133億ドルであり,資本財は24%,中間財が64%を占め,中間財の増加,消費財の減少が顕著である。輸入先は,1951年にはアメリカ(22%),イギリス(18%),ソ連(11%)であったが,77年にはドイツ(19%),アメリカ(16%),日本(16%)となり,西側諸国との経済関係が強化された。94年にはアメリカの経済封鎖のため,ドイツ(19%),イタリア(9%),日本(8%)が三大輸入国となった。しかし,南ではアラブ首長国連邦からの輸入は6%,北ではアゼルバイジャン共和国からの輸入が3%,また,輸出はそれぞれ4%,1%を占め,トルコへの輸出も4%を占めた。韓国,中国,台湾など,アジア諸国への輸出も増加した。1990年代には,このように国境を挟んだ地域経済圏の重要度が高まり,湾岸地域から西欧・アジア製品を流入させ,また中央アジア諸国との貿易も増えガス・パイプラインのイラン領内通過計画も進められている。

 新政府は,革命後,均衡し自立した経済の達成を目標としており,少なくとも首都テヘランへの人口集中を抑制しようとしている。農村人口は1956年に69%を占めたが,76年には53%に急速に低下し,革命後の86年には46%とさらに低下した。革命後,確かにテヘランの人口増加率は2.89%に抑制されたが,地方都市への人口集中は強まった。農業人口は,1956年に就業人口の56%を占めた。当時は地主階級がもっとも有力な階級であり,農地改革(1962-71)直前の1960年には0.2%の大地主(100ha以上)が耕地の8.7%を所有し,80%以上の農民は小作人あるいは農業労働者であった。地主やその代理人(キャドホダー)は,土地無し農民の中から農業労働者を毎年自由に選択できるなど強い権限を有した。農地改革は大地主の所有を1カ村とし,これを超える部分は小作人,農業労働者に有償で配分された。農地改革は大地主の経済力を弱め,大半の大地主は国王の権力と石油収入に関連して強化された工業企業家に転化することができなかった。他方,有償で土地を配分された農民は石油収入による都市経済に引かれて都市へ流出し,耕作権をもたない農業労働者は配分がうけられず都市に流出せざるを得なかった。革命直後,イスラム的農地改革が唱えられ,86年には農業人口は319万人で就業人口の29%を占め,実数で21万人が増加した。なかでも農業労働者でも地主でもない自営農民が61万人増え,農業従事者の72%(1976年には57%)を占める。小麦生産は77年に550万tであったが,91年以降は1000万tを超える。

 1956年に工業人口は13.8%であり,その90%は就業者10人未満の中小工場に就業した。大工場(50人以上)は約220,工場(10人以上)は合計で830が存在した。小規模な工場を中心とした伝統的産業構造は,第4次から第5次の5ヵ年計画期(1968-73,73-78年)で大きく変化し,1976年に工業人口は166万人で就業人口の19%を占め,1966-76年に約40万人が増加した。大工場は920に増え,その就業者は25万6000人(平均280人)に及んだ。外国との合併企業も約220社となり,なかでも26社では外国資本が51%以上を占めた。石油精製,化学,自動車など近代産業が発展し,石油精製プラントが建設された。しかし,工業部門ではこの時期に家族従業者も26万人増加し,民間の零細工場も増えていたのである。イラン革命は大型プラント工事を中止させ,外国企業との合併を廃止した。革命直後の西欧諸国との対立,続くイラン・イラク戦争による経済破壊と資金不足は,巨大工場の依存する外国の原材料・備品を不足させ,生産を大幅に低下させた。工業生産指数は77年を100とすれば89年には77に低下し,自動車の生産台数は旧体制の13万台からイラン・イラク戦争末期には2万台強に低下した。94年には5万3000台に増え,一応の回復をみせている。革命直後に大規模工場は国有化され,民間企業はわずかしか存在しない。工場稼働率は1989年に30%であったが,92年には90%に回復した。旧体制下ですでに稼働していた製鉄業,石油精製も拡充し,イランは小規模ながらイラン周辺地域への化学品,鉄製品などの輸出を進めている。
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イランの民族構成は複雑である。これは言語の面に表れており,総人口6223万人(1996)のうち,ペルシア語を話す住民は約半数にしかすぎない。残りはペルシア語以外のイラン系,トルコ系(アゼルバイジャン語人口比20%強など)の種々の方言を用いている。

 言語,宗教,人種,民族,生活形態の相違によって,イランには少数民族問題が存在している。都市では非イスラム教徒のユダヤ教徒,アルメニア人が閉鎖的な集団をつくり,ヤズド,ケルマーンなど高原中央部の都市にはゾロアスター教徒が多い。また,イラン北西部のウルミエ湖地方にはネストリウス派のキリスト教徒であるアッシリア人の村落が多数みられる。南西部のフージスターン平原の住民はアラブ系が主である。

 少数民族問題は,生活形態,社会構造の違いとしても現れており,都市・農村の定住民に対立する遊牧民の問題として出てきている。遊牧民は,19世紀の初めまでは50%を超えていたといわれるが,その後の定住化政策によって現在では16.5%にまで減少している。代表的な遊牧部族としては北西部のシャーセバーン族,カスピ海南東部のトルクメン族,ザーグロス山脈に遊牧するクルドロル族バフティヤーリー族,クーフ・ガルースKūh Garūs,ママッサニーMamassanī,カシュガーイー族,ハムセKhamsehの諸部族,南東部のバルーチ族が挙げられる。各部族の社会集団としての規模は20万~30万人程度であるが,クルドだけは定住化してしまったものも含めて,一説に200万人近い人口を擁するといわれている。

 イランの社会は他の西アジア地域と比べると遊牧の比重が高いが,農業が依然として産業の基幹をなしていることに変りはない。イランの農村(デヘ)は,19世紀の後半に成立したマーレキ・ライヤト制という,地主的土地所有のもとに組みこまれている。地主は都市に住みながら,農業経営と土地の管理をモスタージェル(差配人)とキャドホダー(村長)にまかせてザーレ(小作人)を使役している。小作人は地主から耕作権を与えられ,その見返りに地代を納める。地代の形態は2種類あり,カスピ海南岸の米作地帯では現金納の定額地代で,小作人の地位は比較的高い。これに対して高原地域では現物納の分益地代が支配的で,小作人は地主が開墾した〈飯場〉的な村で働く労働者的な性格が強く,自由度が低く,耕作権も弱い。サハラー制(ホラーサーン地方),ボネ制(テヘラン近郊)にみられるように個人に耕地が割り当てられず,組をつくって共同耕作を強いられているところもある。ファールス地方のマズラエ制の場合,耕作地を割り当てられていても毎年割替えが行われ,小作人と土地との結びつきの弱いところもある。農村には小作人よりも下のまったく耕作権をもたない日雇労働者(コシネシーン)も多数存在する。1963年以降,農地改革が実施に移されたが不徹底に終わった。

 1956-76年の間に,イランでは都市化が急速な勢いで進んだ。とくに66年以降が激しく,75年には都市に居住する人口の比率は全人口の44.3%にまでなった。イランで都市というのは人口5000以上の集落のことをいうが,76年において都市の数は361であった。都市問題で目だつ点は都市間相互の不均衡な発展である。地方の中心都市として,俗に〈四大都市〉といわれるイスファハーン(67万),タブリーズ(67万),マシュハド(60万),シーラーズ(42万)などの大都市があるが(人口はいずれも1976),これと比べて首都テヘランへの人口集中度は異常なまでに高い。76年のテヘランの人口は450万,全人口に占める比率は13.4%であったが,イラン革命の直前は推定で600万人にまで膨張していた。この結果,モスタザフィーンという最下層の住民が,南部地区にスラム街を形成し,この都市問題が79年のイラン革命の遠因になったといわれる。イランの都市は,1920-30年代のレザー・シャー期に近代化されたが,伝統的な都市部分はその後もなお残っている。スーパーマーケット,銀行など新しい商業・金融機関が台頭しているにもかかわらず,バーザールは依然として輸入の1/3,小売業の2/3を抑えて流通部門を掌握している。

 宗教については,1501年のサファビー朝の成立以来,イランはシーア派のうちの十二イマーム派を国教にしている。この派のウラマーがもつ社会的な影響力は他のスンナ派諸国よりもはるかに強い。それはシーア派の高位のウラマーであるアーヤトッラーāyatullāh,モジュタヘドmojtahedの手にイスラム法を解釈,運用する法学者としての権利が認められていて,社会に秩序を与えていく機能をもたされているからである。レザー・シャー期に,民法,刑法等のヨーロッパ的な世俗法が制定されても,イスラムは信仰の面ばかりでなく,伝統的な法体系,社会規範として生きており,このような社会構造がイラン革命に際してホメイニーによって代表されるウラマーを台頭させることになったのである。彼らの力を経済的に裏づけているものは,モスク,マドラサなどの宗教施設に寄進された広大な土地(ワクフ)とバーザール商人などが寄付するザカート(喜捨)である。

 教育は宗教教育と近代的な学校教育に分かれる。ウラマーの養成は村や町にあるコーランの読み書きを主として教えるマクタブ(アラビア語ではクッターブ)に始まり,それが終わるとマドラサでイスラムの諸学問を学び,さらに学を究めたいと望む者は,宗教都市コム,マシュハドなどのマドラサで知徳ある高名なウラマーのもとで研鑽を積む。これに対して近代的な学校教育は1851年のダーロル・フォヌーンDār al-Fonūnの創立に始まった。この学校は高等教育機関で,ヨーロッパ式のカリキュラムで兵学,医学,薬学,ヨーロッパ諸語が教授された。この学校は1935年のテヘラン大学創立までイランの最高学府であった。初等・中等教育は高等教育に比べると遅れ,43年7月に初等教育が義務化され,6年間の中等教育が実施に移された。しかし,56年においても識字率は14.9%であり,これを是正するため63年より〈教育兵団〉が僻村に送られた。65年に学制改革の断行,74年に中学校までの教育費の無償化が行われ,大学も主要都市に置かれ総合大学化が図られた。
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百科事典マイペディア 「イラン」の意味・わかりやすい解説

イラン

◎正式名称−イラン・イスラム共和国Jumhuri-ye Eslami-ye Iran/Islamic Republic of Iran。◎面積−162万8771km2。◎人口−7515万人(2011)。◎首都−テヘランTeheran(815万人,2011)。◎住民−大部分がイラン人,ほかにクルド人,トルクメン人,バルーチ人など。◎宗教−イスラム(シーア派十二イマーム派が国教)98%。◎言語−ペルシア語(公用語)が大半,ほかにクルド語,アゼルバイジャン語など。◎通貨−イラン・リアルIranian Rial。◎元首−大統領,ロウハニHassan Rouhani(2013年8月就任,任期4年)。◎最高指導者−ハメネイSeyyed Ali Khamenei(1938年生れ,1989年6月就任,1981年―1989年大統領)。◎憲法−1979年12月国民投票で承認,1989年7月改正。◎国会−一院制(定員290,任期4年)(2015)。◎GDP−2229億ドル(2006)。◎1人当りGDP−2767ドル(2005)。◎農林・漁業就業者比率−25.2%(2003)。◎平均寿命−男72.2歳,女76.1歳(2013)。◎乳児死亡率−22‰(2010)。◎識字率−84.3%(2012)。    *    *西アジアのイスラム共和国。旧名ペルシア。中央部から東はイラン高原で,西にザグロス,北にエルブルズ山脈がある。砂漠が多く,乾燥した大陸気候で気温の較差が大きい。国土の10%が可耕地で就業者の25%が農業に従事,牧畜も盛ん。カスピ海のキャビアは特産。石油資源は豊富で精製も行われ,その収入が国の主要財源。繊維・食品・建設・化学工業があり,ペルシア絨緞(じゅうたん)は有名。〔歴史〕 前6世紀のアケメネス朝時代から繁栄し,ササン朝時代にゾロアスター教が国教となった。642年アラブ人の支配下に入り,イスラムが進出した。16世紀初めに成立したサファビー朝はシーア派の十二イマーム派を国教とし,イラン人の国民意識を形成した。18世紀のカージャール朝をへて,1925年からパフラビー朝となる。1941年即位したモハンマド・レザー・パフラビーは1963年から土地改革,選挙法改正,識字運動などの〈白色革命〉を実施し,さらに1973年以後高度成長に力点を置く工業化政策を遂行。〔イラン革命以後〕 イスラム文化への回帰,政治的自由を求めるホメイニーらの反国王運動が高まり,イラン革命に発展した。1979年2月パフラビー朝は崩壊,同年4月に共和制が成立,イラン・イスラム共和国となった。同年12月に国民投票で承認された新憲法で,ホメイニーに最高指導権が与えられ,大統領はその下に従属する。1989年6月ホメイニーが死去,代わってハメネイ大統領が最高指導者に就任した。1997年5月の大統領選挙では〈現実派〉のハタミが圧勝した(2001年6月再選)。ハタミ政権下で2002年に行われた選挙では,改革派が圧勝した。石油資源の開発は20世紀初め英資本によって始められ,アングロ・イラニアン石油会社(ブリティッシュ・ペトロリアム会社)(現BP)が採掘権を独占していたが,1951年―1953年,モサッデクらによる石油国有化運動の結果,国有化された。2005年6月,ハタミ大統領の任期満了に伴う大統領選挙の決選投票で,保守強硬派のテヘラン市長アフマディネジャドが保守穏健派のラフサンジャニ(前大統領)を破って当選,核開発をめぐって米国ブッシュ政権と鋭く対立。2009年1月に発足した米国オバマ政権は対話路線を掲げており,イランの対応が注目された。2009年6月の大統領選挙では,アフマディネジャドに穏健改革派のムサビ(元首相)が対抗し接戦が予想されたが,アフマディネジャドが圧勝。ムサビ支持の若者層を中心とする穏健派は不正選挙として抗議運動を全国で展開したが,結局,アフマディネジャドの再選が確定,アフマディネジャドの政権基盤は必ずしも強固なものではなく,最高指導者ハメネイ師の支持によって混乱が収束した。核開発をエスカレートするイランと欧米との緊張は続き,2010年7月,米国オバマ大統領は,イランの金融・エネルギー部門との取引する企業への制裁を強化する対イラン制裁法案を成立させ,さらに2011年末,国防権限法に,原油の輸入代金支払いなどのためにイラン中央銀行と取引をしている銀行などの金融機関を,米国の金融システムから締め出す内容を盛り込み,イランからの原油輸入禁止の国際包囲網の形成に踏み出した。これに対してイランはホルムズ海峡封鎖を示唆して,対決姿勢を強めたが,アフマディネジャドは封鎖に対しては慎重で,封鎖を主張しているのはさらに保守派のハメネイ派ともいわれた。2013年6月の大統領選で穏健派のロウハニが,保守派,保守強硬派候補を破り,得票率も50%を超え,大統領に就任した。〔核開発問題など〕 ロウハニは就任直後から,核開発問題で経済制裁を続ける欧米諸国との関係打開に乗り出し,2013年9月,イラン革命以降初めて,アメリカ大統領オバマと電話で会談,核開発問題で従来の強硬方針を転換する姿勢を打ち出した。2013年11月ジュネーブでイランと欧米など6ヵ国で交渉が行われた。交渉は,(1)濃縮度5%を超えるウラン製造をやめること(2)核爆弾製造に道を開く製造済み濃縮度20%のウランについてはそれ以上濃縮できないように処理を加える(3)ウラン濃縮用の遠心分離機の新たな設置をやめる(4)イラン西部のアラクの重水炉の建設中止(5)ウラン濃縮施設への国際原子力機関(IAEA)の査察強化を受け入れることで合意した。さらにフランスの強い要求でイランは核兵器の原料となるプルトニウム製造が可能となるアラクの重水炉建設の中止も受け入れた。欧米諸国は見返りとして今後6ヵ月の制裁緩和と新たな制裁は科さないことに同意したが,イラン産原油輸出,金融制裁は維持するとした。イランが合意を守らない場合は制裁をもとにもどす,としている。ロウハニの譲歩姿勢の背景には,長引く〈制裁〉で停滞する経済に国内で民衆の強い不満があり〈制裁解除〉を求める世論が多数を占めていること,最高指導者ハメネイが強硬姿勢からの一定の譲歩を認めていることがある。しかし欧米6ヵ国との交渉では,イランの〈ウラン濃縮活動の権利〉を明記するかどうかで最後まで対立が続き,結局この条項は明記されず,イランが譲歩するかたちとなった。イラン側は平和利用のための〈ウラン濃縮の権利〉は正式に承認されたとして〈5%濃縮〉は続ける構えである。欧米側は,合意は暫定的なもので最終的に権利を認めることまでは約束していないと主張した。欧米側が低濃度ウランを容認するかわりに〈抜き打ち査察〉を可能とするIAEAの追加議定書にイランを加盟させることができるかについても今後の交渉課題となり,明確な工程表のない交渉は難航も予想されている。欧米側を主導するアメリカは議会にイランに対する根強い不信感があり,国内の〈イスラエルロビー〉の活動も活発化している。アメリカをはじめ西欧諸国のイラン包囲網の鍵を握るイスラエルは,ロウハニ大統領によるイランの譲歩姿勢を受け入れておらず,イスラエル単独でのイラン先制攻撃も辞さない姿勢を崩していない。イスラエルは合意達成による制裁緩和に強硬に反対しており,さらにイランの核開発計画を脅威ととらえるスンニ派のサウジアラビアが,イスラエルと秘密裏に接触し懸念を共有している。2015年4月,スイスで協議を続けていた米欧など6ヵ国とイランが,最終解決への道筋を示す〈枠組み〉に合意したと発表。米国が発表した〈枠組み〉の要点によると,合意はイランの核開発能力を長期間制限することが柱で,イランは,〈ウラン濃縮に使う遠心分離器を今後10年,現在の3分の1の6104基に減らす〉〈国内に保有する低濃縮ウランを15年間にわたり現在の約10トンから300キロに減らす〉〈核兵器製造に使える高濃縮ウランはつくらない〉となっている。さらにイランは,国際原子力機関(IAEA)の査察も受け入れる。米側は〈IAEAの査察官はイランの全ての施設に定期的にアクセスできる〉としており,IAEAはウラン濃縮が疑われる施設への査察も要請できるようになる。IAEAがイランの合意順守を確認すれば,イランの主産業である原油輸出などに打撃を与えた米欧の対イラン制裁は,すべて停止される。ただし,米側の文書には〈イランが合意を破ったら,制裁はもとに戻される〉とも明記された。しかし今回の〈枠組み〉合意には,余剰となる低濃縮ウランの処分方法や対イラン制裁解除の詳細など,詰め切れていない部分も少なくなく,最終合意までどのような交渉がなされるか世界が注目している。 2015年のイエメン内戦で,アラビア半島地域での影響力拡大を狙うイランは反政府派のシーア派フーシ派武装勢力を支援,サウジアラビアを中心とするスンニ派の周辺国有志連合がフーシ派に対して空爆を開始したことに強く反発,事態は大国イラン対サウジアラビアという構図に進展しており,イエメン内戦は中東地域全体を巻き込む新たな戦乱に発展する懸念が出てきている。 なお2003年女性人権活動家シリン・エバディがノーベル平和賞を受賞したが,2009年,同氏のノーベル賞メダルは当局に押収されたといわれる。
→関連項目パサルガダエロウハニ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イラン」の意味・わかりやすい解説

イラン
Iran

正式名称 イラン=イスラム共和国 Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān。
面積 163万5518km2
人口 8500万5000(2021推計)。
首都 テヘラン

西南アジアの国。古くはペルシアの名で知られた。南はペルシア湾オマーン湾に面し,北はカスピ海を挟んでアゼルバイジャンアルメニアと接し,東は砂漠地方を介してアフガニスタンパキスタンと接し,西は山地を介してトルコイラクと接する。国土のほとんどがイラン高原上にあり,「砂漠と高原の国」である。温帯冬雨気候のカスピ海沿岸と,湿潤なペルシア湾岸地帯を除いて,夏が長く高温で,極端に乾燥した大陸性気候を示し,北風が卓越する。国民はペルシア人が約 35%を占めるが,トルコ系やアラブ系の混血民族である。公用語はペルシア語であるが,アラビア語の単語,文章構造を取り入れ,アラビア文字を採用している。イスラム教が国教。クルド人のほか,多種の少数民族が居住している。農業と遊牧と絨毯生産が伝統的な主産業であるが,1908年に南西部で石油が発見されて,国の産業構造を変えた。1953年以降,数次の経済開発計画を経て,工業化が進められている。1979年,イラン革命により,1925年に創始されたパフラビー朝が倒れ,イラン=イスラム共和国が成立した。以後イスラム化が急進したが,1980~88年のイラン=イラク戦争で経済が疲弊した。(→イラン史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イラン」の解説

イラン
Īrān

西アジアのイラン高原を中心とする地域。前8世紀末にメディアが建国され,ついで前6世紀にアケメネス朝が興り,西アジアの広大な地域を支配したが,前4世紀アレクサンドロス大王に滅ぼされ,セレウコス朝パルティアが前3世紀から約500年間支配した。3世紀からのサーサーン朝期にはゾロアスター教が国教とされ,強勢と高度の文明を誇ったが,7世紀中葉アラブ・ムスリムの征服により崩壊。イラン系の人々はアラブの統治を受けた約2世紀の間にイスラームを受容し,イスラーム文化の発達に多大な貢献をした。9世紀半ば以降サッファール朝サーマーン朝ブワイフ朝などのイラン系国家が成立するようになったが,10世紀末からトルコ系のガズナ朝セルジューク朝の支配下に置かれ,13世紀にはモンゴルの侵入とイル・ハン国の成立をみた。14世紀後半から15世紀には同じくモンゴル系のティムール帝国に支配された。16世紀初頭成立のサファヴィー朝は比較的安定した王朝で,十二イマーム派の国教化など重要な施策を行ったが,18世紀前半に崩壊。アフシャール朝ザンド朝の支配ののち,18世紀末からトゥルクメン系のカージャール朝が統治したが,この間,英露帝国主義の好餌とされた。1925年に成立したパフラヴィー朝は急激な近代化・西洋化を進めたが,79年のイラン革命によって倒れ,イラン・イスラーム共和国が創設された。なお,国名は1935年,ペルシアからイランに改められた。

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普及版 字通 「イラン」の読み・字形・画数・意味

瀾】いらん

さざ波と大波。晋・成公綏〔隷書体〕俯して之れを察すれば、凜として風の水を(あ)げ、瀾のすが(ごと)し。

字通「」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内のイランの言及

【ペルシア】より

…おもに欧米で用いられてきたイランの別称。もともとはアケメネス朝が拠ったイラン南西部の一地方名パールサPārsa(現代ペルシア語ではアラビア語化されたファールスFārsとして残っている)に由来するが,アケメネス朝のイラン高原統一によってイラン全体を含む概念に拡大された。…

※「イラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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