江渡狄嶺(読み)エト テキレイ

20世紀日本人名事典 「江渡狄嶺」の解説

江渡 狄嶺
エト テキレイ

明治〜昭和期の思想家



生年
明治13(1880)年11月13日

没年
昭和19(1944)年12月15日

出生地
青森県五戸町

本名
江渡 幸三郎

学歴〔年〕
東京帝大政治学科〔明治38年〕中退

経歴
学生時代トルストイクロポトキン傾倒、「精神窟」を主宰、雑誌「北星」を発刊した。明治44年徳冨蘆花世話で東京千歳村(世田谷区)に“百姓愛道場”を開き農民となり労働生活を実践。大正2年高井戸村に移り、同村農業補修夜学校に入った。12年ごろ安藤昌益の直耕思想学び、家稷農乗学によって農業を理論化した。さらに亦楽会、牛欄寮、場論研究会などによって「ものごとのなしようのありどころ」という“場”の機能的空間論を講じた。昭和18年綜業農制研究会を開いた。著書に「或る百姓の家」「土と心を耕しつつ」「地酒のすがた」「場の研究」、「江渡狄嶺選集」(全2巻)などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「江渡狄嶺」の意味・わかりやすい解説

江渡狄嶺
えとてきれい
(1880―1944)

農民思想家。本名幸三郎。青森県三戸(さんのへ)郡五戸(ごのへ)村(現、五戸町)に生まれる。東京帝国大学法律学科入学、学生結婚をして中退。1911年(明治44)年徳冨蘆花(とくとみろか)の世話で東京・世田谷で農業を始め、自宅を百性愛(ひゃくせいあい)道場と名づけた。2年後上高井戸(かみたかいど)(杉並区)に移り、終生ここで農業を営み、読書と思索に専念した。青年期には聖書、トルストイやクロポトキンに傾倒、中年以後は仏教にひかれ、とくに道元(どうげん)に帰依(きえ)し、各地で『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』などを講義し、また自作の『農乗嘱文(のうじょうしょくぶん)』などを披講(ひこう)した。晩年は「場(ば)」探究に精進した。生涯を通じての求道者・説教者であり、農本思想者の代表の一人であった。

[大西伍一 2016年8月19日]

『『江渡狄嶺選集』上下(1979・家の光協会)』

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百科事典マイペディア 「江渡狄嶺」の意味・わかりやすい解説

江渡狄嶺【えとてきれい】

思想家。本名幸三郎。青森県五戸の人。東大で法律・政治を学び,聖書,トルストイクロポトキン心酔。1910年東京世田谷に百性愛道場を開き,小作農となる。1924年物理と数学ヒントに〈場〉の思想体系をたて,〈百姓はかく考う〉をテーマに郷里や長野で講演。かたわら牛欄寮を開いて寮生を育成。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「江渡狄嶺」の解説

江渡狄嶺 えと-てきれい

1880-1944 明治-昭和時代前期の思想家。
明治13年11月13日生まれ。受洗後の明治44年徳冨蘆花(とくとみ-ろか)らの世話で東京世田谷に百姓愛道場をひらき,のち上高井戸にうつり農業をいとなむ。晩年独自の「場」という思想の研究普及につとめた。昭和19年12月15日死去。65歳。青森県出身。東京帝大中退。本名は幸三郎。著作に「或る百姓の家」など。

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367日誕生日大事典 「江渡狄嶺」の解説

江渡 狄嶺 (えと てきれい)

生年月日:1880年11月13日
明治時代-昭和時代の農民;評論家
1944年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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