アナボル論争(読み)アナボルロンソウ

デジタル大辞泉 「アナボル論争」の意味・読み・例文・類語

アナボル‐ろんそう〔‐ロンサウ〕【アナボル論争】

大正時代無政府主義者アナルコ‐サンジカリスト)とマルクス主義者(ボルシェビスト)との間で行われた論争。特に、労働運動組織論をめぐり、政党指導を排除する自由連合論をとるアナ派に対し、ボル派は中央集権的組織論を主張。まもなくアナ派は衰退した。

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精選版 日本国語大辞典 「アナボル論争」の意味・読み・例文・類語

アナボル‐ろんそう‥ロンサウ【アナボル論争】

  1. 〘 名詞 〙 大正一〇年(一九二一)前後、労働組合に対する共産党の指導を排除しようとしたアナルコ‐サンジカリズム派と、中央集権的組織を作ろうとしたボルシェビキ派との論争。

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改訂新版 世界大百科事典 「アナボル論争」の意味・わかりやすい解説

アナ・ボル論争 (アナボルろんそう)

第1次世界大戦後,日本の社会運動内部に生まれたアナルコ・サンディカリスムボリシェビズムの2潮流による思想上,運動上の対立。大戦後労働運動が高揚し,そのなかに1920年ころから大杉栄らのアナルコ・サンディカリスムの思想が強い影響力をもつようになった。一方1917年におこったロシア革命の研究が山川均らによってすすめられ,ボリシェビキの影響もみられるようになった。21年4月のロシア共産党第10回大会でアナーキスト排除が決定され,それを機に日本でもアナ派とボル派が対立した。そうしたなかで22年4月の日本労働総同盟総同盟)の労働組合の総連合の提唱決定から同年9月の総連合結成大会に至るまでアナ・ボル両派が抗争した。総連合組織形態をめぐってアナ派は自由連合,ボル派は中央集権を主張したが,結局大会は官憲によって流会させられ総連合運動は失敗に帰した。以後両派の対立・論争は他の社会運動の分野にもおよび,22年創立された全国水平社の運動では24年から25年にかけアナ・ボル両派の主導権争いが展開され,他の無産者運動と比べおくれて組織化されたプロレタリア婦人運動では28年を境にアナ・ボル両派の路線論争がおこなわれた。労働運動におけるアナの影響力は23年9月関東大震災での大杉殺害(甘粕事件)で大きく後退した。他の社会運動の分野でもボル派の影響力がアナ派を圧倒し,指導権を握るにいたった。
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百科事典マイペディア 「アナボル論争」の意味・わかりやすい解説

アナ・ボル論争【アナボルろんそう】

大正期の労働組合の組織論をめぐるアナルコ・サンディカリスムとボリシェビズム(ボリシェビキ)の論争。大逆事件以後の〈冬の時代〉を通じて優勢化した大杉栄らのアナ系に対し,ロシア革命(1917年)の影響で,堺利彦山川均らボル系の影響が増大し,1922年の日本労働組合総連合結成大会にいたる過程で対立が頂点に達した。アナ系は各組合の自由連合を,ボル系は中央集権主義を主張して両者は決裂・流会したが,1923年関東大震災に際しての大杉暗殺(甘粕事件)などによりアナ系は退潮した。
→関連項目アナーキズム

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アナボル論争」の意味・わかりやすい解説

アナ・ボル論争
アナ・ボルろんそう

1921年から 1922年にかけて日本の社会主義派内部で起こったアナルコ・サンディカリズム派 (アナ派) とボルシェビズム派 (ボル派) の思想的,運動論的論争と対立。当初,日本社会主義同盟の結成 (1920) に際しては,幸徳秋水大杉栄らアナルコ・サンディカリズム派が優位に立ち,堺利彦山川均らのマルクス主義派がこれに協力していたが,ロシア革命とソビエト連邦に対する評価の相違から,両派の間で激しい論争と対立が引き起こされた。対立が頂点に達したのは,1922年9月,アナ派系の労働組合同盟会とボル派系の日本労働同盟会による総連合創立大会が開催されたときであった。総連合を中央集権的組織とする (ボル派) か,あるいは自由な連合体とする (アナ派) かをめぐって激突し,警察の解散命令によって創立大会は不成立となった。以後,「赤か黒か」 (ボルかアナか) ,「AかBか」 (アナかボルか) の論争が続いたが,大杉が殺害されたことによってアナ派は致命的打撃を受け,しだいにボル派が社会主義運動の主流を形成するにいたった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アナボル論争」の意味・わかりやすい解説

アナ・ボル論争
あなぼるろんそう

大正後期の労働運動の理論と実践をめぐる社会主義者間の論争。第一次世界大戦末期のロシア革命、米騒動の勃発(ぼっぱつ)、戦後恐慌の発生などの情勢下で、1919年(大正8)ごろから、一時沈滞していた労働組合、社会主義の運動が再生、活発化してきた。初めは大杉栄(さかえ)に代表されるアナルコ・サンジカリスト(アナ派)が運動の大勢を制し、遅れて堺利彦(さかいとしひこ)、山川均(ひとし)らのロシアの多数派=ボリシェビキをとってボル派(マルクス主義)が台頭してきたが、1920年両派が提携して日本社会主義同盟を結成するなど共存した。翌1921年5月社会主義同盟が解散を命ぜられた前後から両派の論争が激化し、労働組合も二分されて対立し、1922年7月日本共産党が創立され、ボル派がやや優勢になった。同年9月労働組合の統一のための日本労働組合総連合の創立大会が開かれたが、傍聴席を占めたアナ派は組織の自由連合案を、ボル派は中央集権案を声援し、両派組合の抗争のうちに大会は解散を命ぜられた。これを頂点としてアナ派は退潮していき、ボル派が勝利を占めた。

[松尾 洋]

『堺利彦稿「日本社会主義運動小史」(『堺利彦全集 第六巻』1970・法律文化社・所収)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「アナボル論争」の解説

アナ・ボル論争
アナ・ボルろんそう

大正期後半の無政府主義者と社会主義者との労働運動の組織論をめぐる論争。前者がアナーキスト,後者がボリシェビキといわれたのが語源。「冬の時代」を通じて前者の大杉栄らが堺利彦ら後者より活発で,影響力もあった。しかし米騒動やロシア革命の紹介によって後者も次第に活発化した。両者合同の日本社会主義同盟が解散し,共産党結成後の1922年(大正11)9月,両派合同の日本労働組合総連合結成が企図されたが,前者の自由連合論と後者の中央集権論とが対立,紛糾のうちに解散させられた。以後ボル派の台頭に対してアナ派は衰退し,とくに関東大震災での大杉の虐殺で混迷,テロリスト化していった。

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世界大百科事典(旧版)内のアナボル論争の言及

【マルクス主義】より

…一方,大杉栄は荒畑寒村とともに雑誌《近代思想》を創刊(1912)し,アナルコ・サンディカリスムの立場から新しい思想的啓蒙を行っていたが,クロポトキンの《相互扶助論》の訳出をはじめ,アナーキズムを広める活動を行った。こうして,1921年前後に両者の対立は〈アナ・ボル論争〉として激化し,労働運動にも大きな影響を与えたが,やがて堺や山川らは国際共産主義運動と結びついて日本共産党を結党し,〈アナ・ボル論争〉もボリシェビズムが勝利して,日本のマルクス主義の基調となった。 これを指導した理論家は山川均であり,彼は労働運動を無産階級の政治闘争へと転換する〈方向転換〉を明確にした。…

※「アナボル論争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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