朝日日本歴史人物事典 「グラヴァー」の解説
グラヴァー
生年:1838.6.6
幕末明治期に活躍したイギリス人貿易商。スコットランドのフレイザーバラで生まれ,アバディーンのギムナジウムで中等教育を受けたのち,上海を経て,安政6(1859)年9月に長崎に来航した。文久1(1861)年に貿易商として独立,同2年からはグルームと共にグラヴァー商会を設立した。当初は茶再製場を設立して日本茶の輸出に力を入れたが,元治1(1864)年ごろからの国内政局の急速な流動化とともに長崎居留地内の借地権所有地を担保にジャーディン・マセソン商会から資金を借り入れ,幕府や西南雄藩を相手に艦船や武器類の販売など投機的な取引に重心を移行させながら,横浜や上海に支店を開設し,企業規模を拡大した。 こうした取引を通じて特に薩摩藩との関係が深まっていき,薩摩藩留学生の派遣や英公使パークスの鹿児島訪問を実現させるなど反幕府的な政治的立場がしだいに明瞭になった。しかし,明治維新にともなう貿易の混乱と縮小によってグラヴァー商会の経営は悪化したために,高島炭鉱の開発や小菅ドックの建設によって貿易商から企業家への転身をはかり,さらに兵庫・大阪支店の開設や明治政府に対する造幣機械輸入の斡旋によって経営危機を乗り切ろうとしたが失敗,明治3(1870)年8月に倒産した。以上の意味で,グラヴァーの活動は1860年代の日本の歴史的転換の一こまを集約的に体現している。 破産後も三菱の顧問として高島炭鉱の経営に関係し,また現在のキリンビールの前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーの設立にも尽力した。慶応3(1867)年ごろに日本人女性ツルと結婚,ハナと富三郎(倉場富三郎)の2人の子供がいた。明治41年には明治維新での功績を認められて勲2等旭日章を受章,東京麻布富士見町の自邸で慢性腎臓炎のために死去し,長崎市坂本町の国際墓地に葬られた。<参考文献>杉山伸也『明治維新とイギリス商人』
(杉山伸也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報