日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂太郎内閣」の意味・わかりやすい解説
桂太郎内閣
かつらたろうないかく
桂太郎を首班として組織された第一次~三次の内閣。
[山本四郎]
第一次
(1901.6.2~1906.1.7 明治34~39)
第四次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣が総辞職し、井上馨(いのうえかおる)が組閣に失敗した後を受けて成立。維新の元勲でない、いわゆる第二流の最初の内閣。閣僚は当時次官級と目された山県有朋(やまがたありとも)系官僚が多く、「小山県内閣」「次官内閣」と冷評されたが、日露戦争を完遂して、第二次世界大戦前では最長期の記録をつくった。最大の課題は、満州(中国東北)占領を策するロシアとの対決、当面は反藩閥官僚色を強める立憲政友会への対応であった。1901~02年(明治34~35)の第16議会は妥協で切り抜け、1902年1月日英同盟を成立させ、海軍の拡張を図って財源を地租増徴に求め政友会と対立、第17議会を解散、結局、政友会と妥協して第18議会を切り抜けた。当時、日露交渉は難航し、また1903年末の第19議会は河野広中(こうのひろなか)衆議院議長の内閣弾劾の奉答文事件で解散。翌1904年2月日露戦争勃発(ぼっぱつ)、第20、第21議会は軍国議会で各政党政派の支持を得、日露戦争を完遂した。戦争末期、日本の国力よりみて戦争継続の困難を察し、アメリカ大統領に講和斡旋(あっせん)を働きかけ、1905年9月ポーツマス条約を締結、朝鮮支配と満州進出の基礎を築いた。この前後、7月桂‐タフト協定によりフィリピンを侵略せぬことを約し、8月日英同盟を改訂し、米英の黙認下に11月第二次日韓協約により韓国を保護国化し、12月の日清(にっしん)協約で清国にポーツマス条約を承認させた。また戦争末期に桂は政友会の原敬(はらたかし)と数次の政権授受交渉を行い、9月5日講和を不満とする東京の騒擾(そうじょう)(日比谷焼打事件)をみて、戦争処理終了後12月21日総辞職した。後継内閣は西園寺公望(さいおんじきんもち)により組織された。
[山本四郎]
第二次
(1908.7.14~1911.8.30 明治41~44)
第一次西園寺内閣が財政策に失敗して倒れた後を受け成立。桂首相は蔵相を兼任し、財政再建にあたったが成功せず、また日露戦争後の支配体制の動揺、思想の変化にかんがみ、1908年10月戊申詔書(ぼしんしょうしょ)発布、ついで地方改良運動をおこした。また政党には一視同仁主義を唱えた(実質は憲政本党改革派抱き込みと立憲政友会との対決)。しかし1910年5月大逆事件が起こり、翌1911年2月南北朝正閏(せいじゅん)問題が政治問題化し、一方、憲政本党(1910年3月又新会(ゆうしんかい)などと合同して立憲国民党を結成)の抱き込みに失敗すると、1911年1月「情意投合」により立憲政友会と妥協、議会を切り抜けた。外交では1910年7月日露協約改訂、8月韓国併合など帝国主義政策を進め、社会政策では1911年5月恩賜財団済生会設立、3月工場法を成立させた。しかし人心はこの内閣に反対し、閣内でも総辞職論がおこり8月総辞職した。後継内閣はふたたび西園寺公望によって組織された。
[山本四郎]
第三次
(1912.12.21~1913.2.20 大正1~2)
第二次西園寺内閣が倒れたあと、後継難から元老はついに内大臣桂太郎を首相に推挙(宮中、府中の別を乱す)、そのため詔勅が出され、また斎藤実(さいとうまこと)海相留任にも詔勅が出された。ここに憲政擁護運動がおこり、桂は政党(後の立憲同志会)を結成して対抗しようとしたが、山県系の反感を買い、また憲政擁護運動が全国に波及し、東京では1913年(大正2)2月10日暴動化したため、翌日総辞職した。後継内閣は山本権兵衛(やまもとごんべえ)によって組織された。
[山本四郎]
『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房)』▽『山本四郎著『初期政友会の研究』(1975・清文堂出版)』▽『坂野潤治著『大正政変』(1982・ミネルヴァ書房)』