日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドニゼッティ」の意味・わかりやすい解説
ドニゼッティ
どにぜってぃ
Gaetano Donizetti
(1797―1848)
イタリアの作曲家。ベルガモに生まれ、生地とボローニャの音楽院で学ぶ。オペラ作曲家を志し、20歳ごろ三曲のオペラを書いたが上演できず、失望して軍隊に入る。軍務のかたわら作曲を続け、25歳でオペラ作曲家として認められ、多産な作曲生活に入った。ロッシーニの亜流の二十数曲を発表したのち、1830年にイギリス王ヘンリー8世の妃アン・ブリンの悲劇を題材とする『アンナ・ボレーナ』をミラノで上演して空前の成功を収め、すぐにロンドン、パリ、ウィーンでも上演されて世界的名声を確立。続いて、ロマンチックな感傷の漂う田園喜劇『愛の妙薬』(1832)、歴史劇『ルクレツィア・ボルジア』(1833)、当時流行の狂乱の場をクライマックスとする『ランメルムーアのルチア』(1835)と相次いで傑作を発表、ベッリーニとともにロッシーニ引退後のイタリア・オペラの第一人者となった。
1837年、ナポリ王立音楽院長の席を争って敗れ、翌年『ポリウート』がナポリ当局の上演禁止処分を受けたこともあって、38年からパリに住み、40年にはフランス風の軽快な喜劇『連隊の娘』、壮大な悲恋物語『ラ・ファボリータ(寵姫(ちょうき))』、『ポリウート』を改作した『殉教者』を上演し、パリ楽壇の寵児となった。42年にはウィーンを訪れ『シャモニーのリンダ』を上演、熱狂的な歓迎を受け、宮廷楽長兼作曲家に任命される栄誉を受けた。43年パリでオペラ・ブッファの傑作『ドン・パスクアーレ』を上演したが、このころから健康を害し、45年卒中の発作に襲われ、闘病生活ののち故郷で没した。
まれにみる速筆で知られ、70曲以上のオペラを作曲。注文に応じて書き飛ばした駄作も多いが、前記の諸作は、歌唱技術の極限を駆使しつつ、流麗な旋律美の連続のうちに劇的興奮を盛り上げるベル・カント・オペラの代表的傑作であり、先輩ロッシーニ、後輩ベルディの作品とともに、19世紀イタリア・オペラの名作として今日も絶大な人気を誇っている。
[大久保一]