ドイツの建築家。後にアメリカに移住。ベルリンに生まれ,ミュンヘンとベルリンで建築を学ぶ。ベーレンスの事務所に勤めた後独立,マイヤーAdolf Meyer(1881-1929)と共同で設計したファグス靴工場(1911)で認められ,やはりマイヤーの協力を得てドイツ工作連盟博覧会にモデル工場(1914)を発表,若くして指導的建築家となる。第1次大戦で兵役に服したが,敗戦後はいち早くベルリンにてB.タウトらと芸術労働評議会を結成,建築を中心とした前衛的な造形芸術運動をおこす。他方ワイマール大公国から要請のあったのを機に,1919年全く新しい教育施設〈バウハウス〉を設立し校長に就任。工芸から建築までのあらゆる造形芸術の再構成のための徹底した教育実践を試みる。25年バウハウスはワイマール政府に追われデッサウに移るが,引き続き校長にとどまる。彼の設計になるバウハウス校舎,教授住宅(ともに1926)は典型的な国際様式建築として知られる。28年突然校長を辞任,ベルリンに去る。ベルリンのジーメンスシュタット,ティーアガルテンの住宅団地(ともに1930)など主に集合住宅の設計を手がける。ナチス政権が樹立されると34年ロンドンに逃れ,フライEdwin Maxwell Fryと共同してインピントン・ビレッジ・スクール(1936)などの作品を残す。37年,ハーバード大学に招かれて渡米,教授に就任する。教育の仕事とともに,M.ブロイアーと事務所を持つ。自邸(1938),アルミニウム・シティ(1943)などはこの時代の作品。45年フレッチャーNorman Fletcher,ハークネスJohn Harknessら7人の若い建築家たちとTAC(The Architects' Collaborative,建築家共同設計体)を結成,平等な立場でのチームワークによる共同設計こそ現代建築に必要との自論を実践に移す。以後没年まで仕事を共にする(TACは現在も彼の遺志のまま活動している)。この期の作品は多いが,ハーバード大学院センター(1949),マコーミック・ビル(1953)などが知られる。グロピウスは建築家として巨匠の一人に数えられるが,教育者および組織者として優れた才能を持ち,バウハウスや乾式組立構法での実践は高く評価される。著書は《バウハウスの理念と組織》(1923),《国際建築》(1925),《生活空間の創造》(1955,邦訳1958),《デモクラシーのアポロン》(1968,邦訳1972)など15点におよぶ。
執筆者:山口 廣
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ドイツの建築家。ベルリンに生まれる。ミュンヘン工科大学とベルリン・シャルロッテンブルク工科大学で建築を学ぶ。1907年ベルリンのペーター・ベーレンスの事務所に入り、10年に独立した。協同者アドルフ・マイヤーとともに、ファグス靴工場(1911)、続いてケルンのドイツ工作連盟展のモデル工場および事務所(1914)を完成して、のちに彼自身が主唱した「国際建築」様式の建築デザインに先鞭(せんべん)をつけた。
1919年、ワイマールに新形式のデザイン学校「バウハウス」を設立して校長に就任し、20世紀の建築、デザイン、造型教育にまったく新しい地平を開拓した。同校は25年デッサウに移転し、新校舎もグロピウスが設計した。28年、校長を辞任してベルリンへ帰り、そこで現代都市における新しい居住施設としての中高層スラブ状集合住宅の設計、およびその合理的配置計画の研究と実施に没頭した。
1933年ナチス政権の成立により、34年イギリスへ渡り、その地にいくつかの作品を残して強い影響を与え、さらに37年アメリカへ亡命してハーバード大学建築学科の教授となった。ここでバウハウス以来の教育理念をさらに展開すると同時に、若い建築家たちと設計集団「T・A・C」を結成して、ハーバード大学大学院センター(1950)をはじめ数多くの作品を完成させ、またP・ブルスキと協同でニューヨークにパンナム・ビル(1957)を建てた。ボストンに没。
工業化する20世紀の社会において、彼は特別の予見力と実行力によって、必要とされる新しい理念を他に先駆けて打ち立て、その実現のための原理的な方法を具体的に提示してみせた。この点において、彼は優れた啓蒙(けいもう)者であり、また生来の教育者であったともいえよう。
[長谷川堯]
『グロピウス著、蔵田周忠・戸川敬一訳『生活空間の創造』(1960・彰国社)』▽『グロピウス著、桐敷真次郎訳『デモクラシーのアポロン――建築家の文化的責任』(1972・彰国社)』
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…しかし最も有名で影響力の大きかったのはフォードの自動車工場のほとんどを設計したカーンAlbert Kahn(1869‐1942)で,短い工期で大規模な工場を建築するシステムを開発し,革命後のソ連に招かれ工場建設を指導した。近代建築史で工場建築が高い評価を得るのは,ベーレンスのAEG社タービン工場(1907)とされるが,弟子グロピウスのファグス靴工場(1911)にいたって近代産業にふさわしい工場建築の典型が定まった。他方,フランスのA.ペレは,パリの衣服工場(1919)のようにアーチやシェルなどコンクリート構法の特性を巧みに生かした工場を設計し広く影響を与えた。…
…ドイツでは,アール・ヌーボーとゼツェッシオンの流れはまじりあって,〈ユーゲントシュティール〉や〈工作連盟Werkbund〉の活動となる。〈工作連盟〉の主幹であったP.ベーレンスの門下であるW.グロピウスは〈バウハウス〉を創設し,多くの輝かしい才能を育てて,今日の室内装飾に決定的な影響をあたえた。またル・コルビュジエを中心とする〈エスプリ・ヌーボー〉の運動や,ファン・ドゥースブルフの〈デ・スティル〉の運動は,この新しい室内装飾の方向をおしすすめた。…
…C.A.ペリーの近隣住区理論(1929)は住宅地のまとまりの大きさと段階構成の考え方を示したものであり,日照と隣棟間隔の問題を扱ったL.ヒルベルザイマーの日照論の研究(1936)とともに,以後の集団住宅地の計画に大きな影響を与えた。また,ダメルシュトックにおけるW.グロピウスの住宅競技設計当選案(1929)は,個の均質性と平等性の主張のもとに平行配置を提案したものであり,従来の街区構成に慣れた目には新鮮な驚きを与えた。 日本でも同潤会の改組に伴って設立(1941)された住宅営団は,これらの近代合理主義計画理論を基礎に住宅地計画の基準を整備していった。…
…1908)などを経て,第1次大戦後のドイツにバウハウスが設立されたとき,である。 B.タウトら表現主義の影響をうけながらW.グロピウスが1919年ワイマールに設立したバウハウスは,産業革命以来の生産物のみならず視覚的コミュニケーションにおける上記のような先駆的活動を統合するもので,その教育システムに,デザインの思想が表現されていた。そこでは建築,家具,グラフィック,テキスタイル,演劇,写真など,あらゆる分野が結びつけられ,カンディンスキー,クレー,シュレンマー,モホリ・ナギ,イッテンなど多彩な教授陣を擁し,近代デザイン・建築運動のメッカとなった。…
…
[ワイマール時代]
バウハウスがワイマールに誕生する一般的な背景には,20世紀のはじめ以来のドイツの建築,工業デザインの発展がある。創設者W.グロピウスはこの新しい傾向のなかでももっとも際だった存在で,ファグス靴工場(1911),ケルンのドイツ工作連盟博覧会(1914)の建築で,新しい建築言語を確立していた。現実的には,ワイマール工芸学校の校長であったH.バン・デ・ベルデが第1次大戦の勃発によって敵国人になったため,後事をグロピウスに託そうとしたことからはじまる。…
…その後のエッフェル塔をはじめとする鉄骨造建築も,その多くは同様の構法でつくられたものである。 一方,住宅の分野では1923年ドイツのバウハウスで,W.グロピウスの指導のもとに試作されたTrockenmontagebauと呼ばれるものがある。これは現場において水を用いないで組み立てる方法であり,しっくいやモルタルのような液状材料を使わないことから日本では乾式構造の名で呼ばれ,少数ではあるが若手の建築家に影響を与えた(1935ころ)。…
…革命的高揚期のユートピア的傾向から,鉄とガラスとコンクリートの機能主義的なインターナショナル・スタイルを確立して,今日の世界を支配する近代主義建築のモデルを生み出すまで,アバンギャルドと勤労者大衆のためにという社会主義イデオロギーとの結合は,ワイマール文化の両義性を目に見えるものとして提示してくれた点で,大きな意味をもつ。グロピウスやB.タウトの目ざした勤労者のための集合住宅は,日本の団地が今日果たしている役割を考えれば,原型としての意味は測りがたいほど大きい。しかし同時にこの〈住むための機械〉が,結局資本主義的合理性の徹底であったことの限界は,今日その解放的意味を逆転させる空虚さを露呈している。…
※「グロピウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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