バウハウス(読み)ばうはうす(英語表記)Bauhaus

翻訳|Bauhaus

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バウハウス」の意味・わかりやすい解説

バウハウス
ばうはうす
Bauhaus

1919年、建築家ワルター・グロピウスが構想してワイマールに設立した学校。同地にあった美術学校と工芸学校を合併し、新時代へ向けての工芸、デザイン、建築の刷新を図ろうとしたものである。以後、1933年にナチス政権によって閉鎖に追い込まれるまで、近代デザインや近代建築の諸問題が検討され、豊かな実りをあげた。工業生産のなかでのデザイン、機能主義に立脚した建築などへの方向づけがバウハウスを拠点にして示されたことが大きくあげられるが、バウハウスの理念はかならずしもこうした意味での近代主義に偏っていたのではなく、今日もなおそこに立ち返らなければならないデザインの基本的な活力をあわせもっている。

 デザインや建築を総合的に把握しようとしたグロピウスの教育方針に基づいて、イッテンファイニンガークレーシュレンマー、カンディンスキーらの芸術家がバウハウスにかかわったことが大きな特色としてあげられる。彼らは側面からではあったが、バウハウスのデザイン理念を肉づけするために貢献した。開校当初は手業による工芸学校的な要素が強かったが、しだいに本来の軌道に入り、1923年には「芸術と技術――新しい統一」というテーマでバウハウスの成果を世に問うことになった。同年に定められた教育課程によれば、学生はまず予備課程において半年の基礎的な造形訓練を受け、木工、木石彫、金属、陶器壁画、ガラス絵、織物、印刷の各工房へ進む。ここで学生は芸術家(形態教師とよばれた)から造形の理念を学び、一方で技術者(工作教師)から、より実際的な技術を修得するというシステムがとられた。各工房で3年の課程を経たのち、すべてを統括する建築課程へ進むことになる。この年、多才な造形家モホリナギがバウハウスに迎えられ、教師の陣容もいっそう整えられた。しかし不運にもこのころワイマールに経済不調があって国立バウハウスの経済的基礎が崩れ、1925年には反動的な政府の圧迫から閉鎖のやむなきに至り、デッサウ市の招きで市立バウハウスとして再編された。

 デッサウのバウハウスではワイマール期の卒業生アルベルス、バイヤー、ブロイヤーらが新たに教員スタッフに加わり、それぞれの工房も飛躍的に充実した。この時期、新しい生産方式に基づいたデザインのあり方が追求され、また工房の作業は産業界と実際に連携して成果があった。グロピウス設計によるバウハウスの校舎(1926)は、工業時代特有の構造と機能美の統一によって、デッサウ期のバウハウスの精神を象徴的に語り出している。1925年からはバウハウス叢書(そうしょ)の刊行が始まり、幅広いデザイン思考の形成に寄与した。ここにはオランダの「デ・ステイル」派やロシアのマレービチの著作も含められ、バウハウスがもっていた国際的なつながりを知ることができる。1928年、いちおうの役割を果たしたグロピウスが退陣し、ハンネス・マイヤーが校長となった。マイヤーは、バウハウスのなかにあった形式主義的な一面を批判し、民衆への奉仕がデザイン本来の仕事であることを強調して新しい道筋を切り開こうとしたが、デッサウ市との対立で1930年にバウハウスを離れた。その後バウハウスはミース・ファン・デル・ローエに引き継がれ、1932年にナチスの弾圧でベルリンに地を移したのち、この私立バウハウスも1933年には完全に閉鎖された。

 しかし、バウハウスの精神は亡命した教師、卒業生によって継承された。とくにグロピウスとブロイヤーが教えたハーバード大学建築学部、モホリ・ナギが設立したシカゴのニュー・バウハウス(インスティテュート・オブ・デザインを経てイリノイ工科大学デザイン学部に合併)など、アメリカのデザイン教育に及ぼした影響は著しい。またドイツではバウハウスの卒業生マックス・ビルによって1955年にウルム造形大学が開かれ、新たに再出発した。

 日本のデザイン界も水谷武彦(1898―1969)、山脇巌(いわお)(1898―1987)・道子(1910―2000)夫妻の留学以来、バウハウスから多くを吸収して今日に至っている。さらに、デッサウの校舎も復原され、ベルリンのバウハウス資料館ともども、バウハウス再評価がいつの時代にも必要であることにこたえようとしている。なお、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)として、「ワイマール、デッサウおよびベルナウのバウハウスとその関連遺産群」が登録されている。

[高見堅志郎]

『利光功著『バウハウス――歴史と理念』(1970・美術出版社)』『杉本俊多著『バウハウス――その建築造形理念』(1979・鹿島出版会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バウハウス」の意味・わかりやすい解説

バウハウス
Bauhaus

絵画,彫刻,建築,工芸教育に革新的な方法を用いたドイツの総合的造形学校。 1919年に建築家 W.グロピウスによってワイマールに創設された。純粋芸術と工芸技術との総合的発展を目的とし,ドイツ,オーストリアから多くの学生が集まったが,ワイマール市民がその革新性に批判的であったため,1925年にデッサウに,さらに 1932年にベルリンに移転したものの,1933年ナチスにより廃校になった。おもな指導者はグロピウスをはじめ建築家ミース・ファン・デル・ローエ,画家 W.カンディンスキー,P.クレー,L.モホイ=ナジ,L.ファイニンガー,彫刻家,デザイナーの G.マルクス,O.シュレンマーなど。学生は半年間の準備コースを終えて,約3年間各専門の実地教育を受けた。廃校後はモホイ=ナジがシカゴにニュー・バウハウス (デザイン研究所) を創設,グロピウス,ミース・ファン・デル・ローエらも渡米し,アメリカでバウハウスの理念を発展させた。ワイマールとデッサウに残るバウハウスの作品群は,1996年世界遺産の文化遺産に登録。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報