ドイツの建築家。ハンブルク生れ。はじめ画家として出発し,ミュンヘン・ゼツェッシオン(分離派)に属す。ダルムシュタットの芸術家村に招かれ自邸(1901)を設計,ここにはアール・ヌーボーの影響が見られる。デュッセルドルフ工芸学校の校長時代(1903-07)に造形への思索を深め,建築から工芸まで新時代にふさわしい合理主義的造形理論を探る。AEG社デザイン顧問(1907)となりベルリンに移り,同社の電気器具から工場までデザインを担当。なかでも同社のタービン工場(1909)は,近代建築史上工場建築として高い評価を得た最初の作品として知られる。このころ,事務所にグロピウス,ミース・ファン・デル・ローエがおり,ル・コルビュジエも訪ね来たり彼の影響を受ける。またムテジウスHermann Muthesius(1861-1927)とともにドイツ工作連盟Deutscher Werkbund(1907ミュンヘンで設立)の指導者として建築,工芸の振興に尽くす。大戦後はベルリンとウィーンのアカデミーで教壇に立つかたわら,IG染料会社事務所(1924)のような表現主義的作品から,ベルリンのアレクサンダー広場の事務所ビル(1931)のような,国際様式建築へと作風を変えていった。
執筆者:山口 廣
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ドイツの建築家。ハンブルクに生まれる。初めミュンヘンで画家を志したが、ウィリアム・モリスの影響を受けて、1893年ミュンヘン分離派に参加する。1901年ダルムシュタットの芸術家村で自邸を設計、これを契機に建築へ進み、デュッセルドルフの工芸学校校長(1903~07)、ついで07年からベルリンの電気会社AEG(アーエーゲー)のデザイナーとして活躍した。第一次世界大戦後はウィーン・アカデミーの建築科教授、プロシア芸術アカデミーの建築科教授を歴任した。晩年の作に表現主義的なフランクフルトのヘヒスト染料工場(1929)がある。ベルリンに没。
ベーレンスはAEG時代には、タービン工場に代表される工場建築、社員住宅を設計するほか、同社の製品からポスター、レターヘッドまでをデザインし、古典的で端正な造形を工業的な合理性と結び付けて、近代デザインの可能性を開拓した。とくにAEGタービン工場(1908~09)は、その表現にこそ古典主義美学を受け継いだクラシックな造形がみられるが、基本的構造方式はのちにミース・ファン・デル・ローエやグロピウスによって止揚されることになるデザイン性をすでに内包させている。
[高見堅志郎]
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…しかし最も有名で影響力の大きかったのはフォードの自動車工場のほとんどを設計したカーンAlbert Kahn(1869‐1942)で,短い工期で大規模な工場を建築するシステムを開発し,革命後のソ連に招かれ工場建設を指導した。近代建築史で工場建築が高い評価を得るのは,ベーレンスのAEG社タービン工場(1907)とされるが,弟子グロピウスのファグス靴工場(1911)にいたって近代産業にふさわしい工場建築の典型が定まった。他方,フランスのA.ペレは,パリの衣服工場(1919)のようにアーチやシェルなどコンクリート構法の特性を巧みに生かした工場を設計し広く影響を与えた。…
※「ベーレンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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