ハンガリー出身の画家,造形作家,デザイン教育者。ボルショードに生まれ,ブダペスト大学で法律を学んだのち兵役に服し,負傷後絵画を描き始める。1917年ブダペストで〈マMa(今日)〉グループを結成後,ウィーンを経て20年ベルリンに移り,前衛芸術運動に参加,22年シュトゥルム画廊で個展を開く。同年バウハウスのマイスターとなり,金属工房を担当,翌年からは予備課程をも指導,自らは絵画,立体作品のほかに写真,タイポグラフィー,広告,書物装丁などの分野で構成主義的で機能主義的な作品を制作した。学長グロピウスとともにバウハウス叢書を企画し,自らも《絵画・写真・映画》(1925)と《材料から建築へ》(1929)を著した。28年グロピウスの辞職に伴いバウハウスを去ってベルリンに移住,幅広い活動を続け,30年には《光・空間調整器》や映画《光の遊び,黒・白・灰》を制作。その後アムステルダム(デ・ステイルのメンバーと交わる),ロンドンを経て37年シカゴに渡り〈ニュー・バウハウス〉を設立。経営が軌道にのりかけた46年に白血病で没す。翌年出版された主著《運動の視覚Vision in Motion》は彼の造形理論を集大成したもので,第2次大戦後の美術,デザイン界,とくに教育界に大きな影響を与えた。タイポグラフィー,写真,映画の分野において斬新な実験的作品を制作し,運動と光を採り入れた立体作品はキネティック・アートやライト・アートの先駆となった。
執筆者:宮島 久雄
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ハンガリー生まれのアメリカの画家、彫刻家、デザイナー。バーチバルショド生まれ。モホリ・ナギはドイツ語読みで、ハンガリー語ではモホリ・ナジ。ブダペスト大学で法律を学んだが、第一次世界大戦で負傷したのがきっかけで絵画に転じ、前衛芸術運動、とくにシュプレマティズム、構成主義の洗礼を受けた。1917年ウィーンに出て、翌年ベルリンに移り、22年のシュトゥルム画廊での展示が注目され、同年グロピウスに推されてバウハウスの教授に迎えられた。以後28年のバウハウス閉鎖まで抽象絵画、彫刻、建築、写真など多岐にわたる創造活動と指導を行い、『絵画・写真・映画』(1925)、『材料から建築へ』(1929)を「バウハウス叢書(そうしょ)」として刊行した。バウハウスを去ってからはベルリン、アムステルダム、ロンドンなどで舞台美術、ポスター、映画などを含む創作活動を行い、37年に渡米。38年ロックフェラー財団の援助を得てシカゴにデザイン研究所を設立、デザイン、ディスプレー、写真をはじめ、キネティック・アートの作品などに多彩な仕事を展開、同地に没した。著書に『ニュー・ビジョン』(1946)、『動きにおけるビジョン』(1947)など。
[高見堅志郎]
『大森忠行訳『ザ・ニューヴィジョン――ある芸術家の要約』(1977・ダヴィッド社)』
…19世紀後半以降,機能主義と造形主義の洗礼によってデザイン上の変革が起こり,さらに大量生産・大量消費という社会的条件の変化によって全面的な変質が迫られた。1920年代後半にベル・ゲッデスNorman Bel Geddes(1893‐1958),ティーグWalter Dorwin Teague(1883‐1960)らがインダストリアル・デザイナーとして独立し,37年にはシカゴでL.モホリ・ナギの指導下に〈ニュー・バウハウス〉が設立されデザイン教育の中心となった。第2次大戦後は家具の分野で,ヨーロッパ出身の建築家のほかネルソンGeorge Nelson(1908‐86),C.イームズらが機能主義的造形を生み出した。…
…その後,M.デュシャンの《回転半球》(1925)などがある。キネティック・アートを理論的に体系化したのは,モホリ・ナギである。1950年代後半から,ふたたびキネティック・アートの大きな動きが始まり,とくにJ.ティンゲリーの廃物機械を利用したナンセンスな機械彫刻は,機械技術文明への皮肉といわれている。…
… B.タウトら表現主義の影響をうけながらW.グロピウスが1919年ワイマールに設立したバウハウスは,産業革命以来の生産物のみならず視覚的コミュニケーションにおける上記のような先駆的活動を統合するもので,その教育システムに,デザインの思想が表現されていた。そこでは建築,家具,グラフィック,テキスタイル,演劇,写真など,あらゆる分野が結びつけられ,カンディンスキー,クレー,シュレンマー,モホリ・ナギ,イッテンなど多彩な教授陣を擁し,近代デザイン・建築運動のメッカとなった。バウハウス以外にも,ル・コルビュジエ,ロシアの構成主義,デ・ステイル,未来派など,近代デザインを探求する相互に関連した動きが,ほぼ同時期に見られた。…
… グロピウスの最初のマニフェスト(1919)で明らかにされたように,バウハウスにおいてはあらゆる造形活動は窮極的に建築に統合されるという考え方があったが,J.イッテンの提案した〈予備過程Vorkurs〉がその教育の特色をなすようになった。最初に招いた教授はイッテンのほか,マルクスG.Marcks,ファイニンガーL.Feininger,マイヤーA.Meyerで,ついでムッヘG.Muche,O.シュレンマー,P.クレー,W.カンディンスキー,さらにL.モホリ・ナギ等が招聘(しようへい)された。イッテンは23年にバウハウスを去るが,広い視野で造形の基礎的探究が中心に据えられたのはイッテンの功績である。…
…歴史的には,ドイツのJ.H.シュルツェ(1727)やイギリスのT.ウェッジウッド(1802)などが感光材料を考案する際に行った実験もフォトグラムの方法によっているといえるが,明確な形では,W.H.F.タルボットのレース模様をフォトグラムにした資料(1839)が,現存する最も古いものだろう。この方法を表現手段として利用した作家で著名なのは,M.レイとL.モホリ・ナギで,M.レイはこの方法に自分の名を冠してレイヨグラムRayogramと呼び,多くの作品を残している。モホリ・ナギがフォトグラムを重要視したのは,抽象的な画像において,絵具を使った場合のような筆跡を排除できるからであり,このことによって匿名性を確保できるという構成主義の立場からであった。…
…人工光線をさまざまな手段によってコントロールし,それを直接人間の視覚へ結びつけて表現を行う美術をいう。1920年ころから実験的な作品が作られ,とくにモホリ・ナギの《ライト・スペース・モデュレーター(光・空間調整器)》(1921‐30)は,光の反射,透過,屈折などの性質を機械的にコントロールする装置として有名。ほかに舞台装置,実験映画などでも光の芸術が追求された。…
※「モホリナギ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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