ケプロン(読み)けぷろん(英語表記)Horace Capron

デジタル大辞泉 「ケプロン」の意味・読み・例文・類語

ケプロン(Horace Capron)

[1804~1885]米国の農政家。1871年(明治4)日本政府の招きで開拓使顧問として来日。札幌市建設、農学校設立などを献策した。

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精選版 日本国語大辞典 「ケプロン」の意味・読み・例文・類語

ケプロン

  1. ( Horace Capron ホレス━ ) アメリカ合衆国の農政家。連邦農務省長官。明治四年(一八七一)から同八年まで北海道開拓使の顧問として在任道路・鉄道敷設、札幌農学校(現在の北海道大学)の設立などを建言した。(一八〇四‐八五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケプロン」の意味・わかりやすい解説

ケプロン
けぷろん
Horace Capron
(1804―1885)

アメリカの農政家。連邦農務省長官(第2代)、退役陸軍少将。開拓使顧問兼教師頭。1871年(明治4)6月、北海道の開拓使十年計画推進のため、開拓使次官黒田清隆(くろだきよたか)の要請に基づき、大統領グラントの推挙で、開拓使顧問として多くの技師を伴って来日。各種の調査にあたり、開拓方針確立のために尽力し、以後の北海道開発方針の基礎をつくった。3年10か月在日したが、帰国に際して残した「ケプロン報文」は彼の献策の精髄であり、札幌農学校開設などその献策の多くが実施された。岩倉遣外使節同行の津田梅子ら5少女のアメリカ留学生の派遣も彼の建言による。1885年2月22日ワシントンで82年の生涯を閉じた。

[梅溪 昇 2018年8月21日]

『逢坂信忢著『黒田清隆とホーレス・ケプロン』(1962・北海タイムス社)』『原田一典著『お雇い外国人13 開拓』(1975・鹿島出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ケプロン」の意味・わかりやすい解説

ケプロン
Horace Capron
生没年:1804-85

アメリカの農政家。マサチューセッツ州に生まれ南北戦争にも従軍したが,戦後合衆国政府の農務長官となる。1871年(明治4)渡米した開拓次官黒田清隆の求めに応じて北海道開拓事業を助けることを決意し,職を辞して同年7月来日,開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問となった。同伴した御雇外国人を統括し,毎夏みずからも北海道を巡検して,北海道の各種調査や開拓諸事業(道路および鉄道敷設,鉱山採掘など)についての提言を行った。ケプロンら顧問団の意見は,開拓使の初期の方針に反映されたが,アメリカと風土や社会状況の異なる北海道において十分生かされたとはいえない。75年5月に帰国した。
北海道開拓
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケプロン」の意味・わかりやすい解説

ケプロン
Capron, Horace

[生]1804.8.31. マサチューセッツ,アトルバラ
[没]1885.2.22. ワシントンD.C.
アメリカから来日した北海道開拓使顧問。陸軍士官学校卒業。南北戦争で北軍に属し,陸軍少将で退役,U.グラント政権で農務長官に就任した。あたかも北海道開拓事業の推進を急務と考えていた日本政府から,明治3 (1870) 年,アメリカに派遣された開拓使次官黒田清隆が,ケプロンの来日をグラントに要請。この結果,翌年,開拓使顧問として多数のアメリカ人技術者を伴い着任した。北海道の地形や鉱山の綿密な調査,測定,西洋式農業経営の導入,農業教育機関の創設など,総合計画に基づく開発政策を立案,指導し,1875年6月辞任,帰国した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ケプロン」の解説

ケプロン
Horace Capron

1804.8.31~85.2.22

明治初期に招聘されたアメリカの農政家。南北戦争に従軍,グラント大統領の下で農務長官在任中,開拓次官黒田清隆の懇請で開拓使顧問となり,1871年(明治4)トーマス・アンティセルら技術者と来日。年俸1万ドル。北海道を72~74年の間毎年踏査し,移民・開拓・産業復興の基本構想を具申した「ホラシ・ケプロン報文」がある。75年5月辞任し,離日帰国。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ケプロン」の解説

ケプロン Capron, Horace

1804-1885 アメリカの農政家。
1804年8月31日生まれ。グラント政権の農務局長。明治4年(1871)日本政府の要請で来日し,開拓使教師頭取兼顧問となる。北海道の道路,港湾の整備,農業,漁業,鉱工業の振興などについて基本計画をまとめた。8年帰国。1885年2月22日死去。80歳。マサチューセッツ州出身。アメリカ陸軍士官学校卒。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ケプロン」の解説

ケプロン
Horace Capron

1804〜85
アメリカの農政家
合衆国農務局長時代の1871(明治4)年,政府(開拓次官黒田清隆)の招きで北海道開拓使顧問として来日。北海道における都市建設,大農経営の採用,札幌農学校設立などの指導にあたり,北海道開発の基礎を確立した。'75年「ケプロン報文」を残して帰国。

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367日誕生日大事典 「ケプロン」の解説

ケプロン

生年月日:1804年3月31日
アメリカの農政家
1885年没

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世界大百科事典(旧版)内のケプロンの言及

【開拓】より

…歴史家F.J.ターナーは,西部開拓がアメリカの個人主義,経済的平等,立身出世の自由,民主主義を促進したと指摘している。このようなアメリカ開拓の精神と技術は,日本の北海道開拓にあたり,H.ケプロンやW.S.クラークによって伝えられたのである。【岡田 泰男】
[日本]
 日本における耕地の歴史については〈〉〈〉の項目を参照されたい。…

【開拓使】より

…このほか東京出張所があって政府との連絡にあたり,黒田も東京出張所にあって開拓事務を指揮することが多かった。開拓使はアメリカからH.ケプロン以下の顧問団を招き,その助言を得て,1872年から10年間毎年100万円の政府支出に管内税収を加えて開拓事業を進めた。W.S.クラークを招いて設立した札幌農学校や官園(東京,函館,札幌の農事試験場)によって開拓技術者の養成と洋式農法の導入をはかり,函館から森,室蘭から札幌に至る新道の建設や小樽,札幌,幌内炭坑を結ぶ幌内鉄道の建設などの交通手段を整備し,ビール,製糖,製麻などの農産加工工場や木工,鉄工,製網など生産や生活にかかわる諸工場や各種の鉱山など多くの官営事業を営んだ。…

※「ケプロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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