アメリカの農政家。連邦農務省長官(第2代)、退役陸軍少将。開拓使顧問兼教師頭。1871年(明治4)6月、北海道の開拓使十年計画推進のため、開拓使次官黒田清隆(くろだきよたか)の要請に基づき、大統領グラントの推挙で、開拓使顧問として多くの技師を伴って来日。各種の調査にあたり、開拓方針確立のために尽力し、以後の北海道開発方針の基礎をつくった。3年10か月在日したが、帰国に際して残した「ケプロン報文」は彼の献策の精髄であり、札幌農学校開設などその献策の多くが実施された。岩倉遣外使節に同行の津田梅子ら5少女のアメリカ留学生の派遣も彼の建言による。1885年2月22日ワシントンで82年の生涯を閉じた。
[梅溪 昇 2018年8月21日]
『逢坂信忢著『黒田清隆とホーレス・ケプロン』(1962・北海タイムス社)』▽『原田一典著『お雇い外国人13 開拓』(1975・鹿島出版会)』
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1804.8.31~85.2.22
明治初期に招聘されたアメリカの農政家。南北戦争に従軍,グラント大統領の下で農務長官在任中,開拓次官黒田清隆の懇請で開拓使顧問となり,1871年(明治4)トーマス・アンティセルら技術者と来日。年俸1万ドル。北海道を72~74年の間毎年踏査し,移民・開拓・産業復興の基本構想を具申した「ホラシ・ケプロン報文」がある。75年5月辞任し,離日帰国。
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…歴史家F.J.ターナーは,西部開拓がアメリカの個人主義,経済的平等,立身出世の自由,民主主義を促進したと指摘している。このようなアメリカ開拓の精神と技術は,日本の北海道開拓にあたり,H.ケプロンやW.S.クラークによって伝えられたのである。【岡田 泰男】
[日本]
日本における耕地の歴史については〈田〉〈畑〉の項目を参照されたい。…
…このほか東京出張所があって政府との連絡にあたり,黒田も東京出張所にあって開拓事務を指揮することが多かった。開拓使はアメリカからH.ケプロン以下の顧問団を招き,その助言を得て,1872年から10年間毎年100万円の政府支出に管内税収を加えて開拓事業を進めた。W.S.クラークを招いて設立した札幌農学校や官園(東京,函館,札幌の農事試験場)によって開拓技術者の養成と洋式農法の導入をはかり,函館から森,室蘭から札幌に至る新道の建設や小樽,札幌,幌内炭坑を結ぶ幌内鉄道の建設などの交通手段を整備し,ビール,製糖,製麻などの農産加工工場や木工,鉄工,製網など生産や生活にかかわる諸工場や各種の鉱山など多くの官営事業を営んだ。…
※「ケプロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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