アメリカの南北戦争中の北軍最高司令官,第18代大統領。在職1869-77年。オハイオ州に生まれる。1843年ウェスト・ポイント陸軍士官学校を卒業,対メキシコ戦争に際して勇猛さで名をあげた。54年から一時軍隊を離れ,ミズーリ,イリノイ両州で農業,不動産業などに従事した。南北戦争が勃発すると,大佐としてイリノイ歩兵志願兵部隊を指揮,その徹底した戦いぶりで〈無条件降伏のグラント〉というあだ名を得た。まもなく准将となり,ビクスバーグ,チャタヌーガの戦で勝利を収め,リンカン大統領の信頼を獲得,64年3月に連邦軍最高司令官に任命された。優れた戦略家であり,南北戦争の近代的全面戦争としての性格を理解していた彼は,圧倒的な力を集中してあらゆる機会に南軍をたたき,65年4月9日,ついに疲れ切ったR.E.リーとその軍隊をバージニア州アポマトックスで降伏させた。英雄となった彼は,68年大統領選挙で急進派が支配する共和党によって大統領候補に推され,当選した。大統領としては,米英間の漁業紛争および南北戦争中の補償問題をほぼ解決したワシントン条約の締結など,外交面で実績をあげ,内政でも行政改革に着手するなど見るべきものがあったが,南北戦争後の経済発展期にあって,クレディ・モビリエ事件のように,政府と私企業間の不正・腐敗が続出し,無能政治家の名前を歴史に残した。大統領任期終了後の79年,世界旅行の途中,日本を訪れた。
執筆者:井出 義光
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政治算術political arithmeticの創始者。ロンドンで小間物商を営み、毛織物商組合員の特権をもつ富裕な商人であったが、市民革命の際には議会軍の将校として活躍した。その間、W・ペティと知り合い、ベーコンの思想に共鳴する2人は、社会現象も自然現象と同様に数量的観察によって合則性を明らかにしうるものとし、相協力して社会経済の数量的研究を行うこととなった。これが政治算術であり、経済学と統計学との未分化の段階での源流をなすものである。彼の主著『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』Natural and Political Observations Mentioned in a Following Index, and Made upon the Bills of Mortality(1662)は、当時のイギリス人口の急激な変動の諸要因を、埋葬や洗礼に関する資料を基に分析したものであるが、その手法は近代的統計的研究方法や人口学的手法の先駆をなすものとなった。この著によって彼の名声は国の内外に高まり、イギリス王立協会の会員にも推薦されたが、1666年のロンドンの大火で家産を失い、晩年は不遇であったといわれる。
[木村太郎]
『久留間鮫造訳『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』(『統計学古典選集Ⅲ』所収・1941・栗田書店)』▽『松川七郎著『ウィリアム・ペティ』増補版(1967・岩波書店)』
アメリカ合衆国第18代大統領(在任1869~77)。4月27日オハイオ州に生まれる。陸軍士官学校卒業(1843)後、軍隊に勤務、その間にメキシコ戦争に従軍。退役後、農業、不動産業を営み、のちに父親の革製品業を助けた。南北戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、大佐としてイリノイ州義勇歩兵連隊を率いた。戦場での定石を破る強引な戦いで数々の武勲をあげ、1864年北軍総司令官になり、翌年アポマトックスにおいてリー将軍の率いる南軍を降服させて、南北戦争終結の大きな契機をつくった。戦後、陸軍臨時長官に任命された。68年の大統領選挙に共和党から出馬し当選、南部再建政策を、北部産業資本の利害を推進する共和党急進派に近い立場から遂行した。しかし2期目(1873~77)には南部改革の熱意はしだいに衰え、贈賄汚職事件も起こった。引退後、世界一周旅行の途中日本を訪問(1879)、琉球(りゅうきゅう)問題について日中間の調停を試みた。その後破産したが、回顧録を書き、鉄道会社社長に就任し、ふたたび財産を築いた。85年7月23日死去。
[竹中興慈]
アメリカの映画俳優。イギリスのブリストル生まれ。祖父が俳優であったため演劇に興味をもち、渡米してニューヨークの舞台を経て1932年に映画界に入る。初期は平凡な二枚目であったが、しだいにイギリス風の洒脱(しゃだつ)な風格をもつ二枚目大スターとなった。代表作に『コンドル』(1939)、『フィラデルフィア物語』(1940)、『毒薬と老嬢』(1943)、『めぐり逢(あ)い』(1957)、『シャレード』(1963)をはじめ、ヒッチコック監督との『断崖(だんがい)』(1941)、『汚名』(1946)、『泥棒成金』(1955)、『北北西に進路を取れ』(1959)の4作がある。
[畑 暉男]
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(安岡昭男)
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1822.4.27~85.7.23
アメリカの軍人。第18代大統領(共和党,在職1869~77)。1846~48年の米墨(対メキシコ)戦争で活躍。南北戦争の勲功により北軍総司令官に任じられる。68年に軍事的名声を背景として大統領に当選。退任後の79年(明治12)世界一周旅行の途中で日本に立ち寄る。8月10日に浜離宮で明治天皇と会見し,憲法制定・国会開設・条約改正などの問題につき進言。琉球帰属問題でも日清間の調停を試みた。
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1822~85
アメリカの軍人,第18代大統領(在任1869~77)。南北戦争中,指揮官として頭角を現し,1864年合衆国陸軍総司令官となり,戦争を勝利に導いた。その名声により大統領となったが,政治家としては無能で,悪評を被った。
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…リー将軍は62年春北部に侵入したが,9月半ばアンティータムの戦で阻止された。早くから北軍に有利に展開した西部戦線では,北軍はオハイオ川から南下してミシシッピ川流域に入ったが,近代戦の性格を理解するU.S.グラント将軍が西部戦線の指揮をとるに至って戦局は急速に展開し,63年末北軍はテネシー州のチャタヌーガに入った。東部では再び北部に侵入したリー将軍を迎えうって,63年7月1~3日ゲティスバーグ会戦が行われた。…
… イギリスは暖房などの燃料に石炭を使用し,とくに首都ロンドンが大気汚染を起こしやすい地形であったため,早くから公害問題に悩まされていた。17世紀半ばには,有名な統計学の始祖J.グラントは,《死亡表に関する自然的および政治的諸観察》(1662)の中で,ロンドンの死亡率の高い原因を大気汚染に求めている。 産業革命は工場という〈魔法の杖〉で農村を都市に変えたが,当時の労働者の居住環境は地獄的なものであった。…
…
[生命表の歴史]
最も古い生命表はローマ帝国のウルピアヌスDomitius Ulpianusが364年に作成したといわれる年齢別平均余命表である。しかし,近代的な意味で初めて生命表を作ったのは,統計学の一大潮流の一つであるイギリスの政治算術学派の生みの親でもあるJ.グラントであるといわれる。彼は1662年《死亡表に関する自然的および政治的諸観察》を公刊した。…
…いずれも17世紀にそれぞれイギリス,ドイツ,フランスで生まれたものである。統計そのものの作成は古く古代ローマあるいは古代中国にまでさかのぼることができるが,統計的な数字を用いて社会の客観的な認識が可能になることを説いたのがW.ペティであり,出生・死亡について法則性があることを実際に示したのがJ.グラントであった。彼らの方法は政治算術と呼ばれる。…
※「グラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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