コロムビア映画会社(読み)コロムビアえいが(英語表記)Columbia Pictures Corporation

改訂新版 世界大百科事典 「コロムビア映画会社」の意味・わかりやすい解説

コロムビア映画[会社] (コロムビアえいが)
Columbia Pictures Corporation

アメリカの映画会社。ユニバーサル映画のプロデューサーであったジャック・コーンハリー・コーンの兄弟および同社の総支配人であったジョゼフ・ブラントが,1919年,3人の姓の頭文字を組み合わせてCBCという映画会社を設立したが,その拙速主義をからかった業界のあだ名CBコンビーフ)&C(キャベツ)会社〉に反発して,24年に〈コロムビア〉と改称した。当初,ハリウッドのビッグ・ファイブ(パラマウント,20世紀フォックス,MGM,ワーナー・ブラザース,RKO)に対するリトル・スリー,すなわちユニバーサル,コロムビア,ユナイテッド・アーチスツの1社にすぎなかったが,32年から58年(死去)まで社長と製作本部長を兼ねたハリー・コーンの自他ともに認める独裁的な経営・製作方針によって経営が安定した。とくに30年代はアカデミー賞主要5部門(作品,主演男優,主演女優,監督,脚本)を独占した《或る夜の出来事》(1934)をはじめ,《オペラ・ハット》(1936),《我が家の楽園》(1938),《スミス都へ行く》(1939)等々,フランク・キャプラ監督の人情喜劇のヒットによって,発展。40年代はもっぱら〈赤毛リタ〉と呼ばれてGIの人気ピンナップ・ガールであったリタ・ヘイワース主演の映画(《血と砂》1941,《カバーガール》1944,《ギルダ》1946,等々)とB級映画(《幽霊紐育を歩く》1941,《ジョルスン物語》1946,等々)を売って成功。1948年5月,新しい独占禁止法によって各映画会社は興行部門を切り離されて打撃を受けたが,逆に,劇場網をもたないコロムビアは危機をまぬがれた。また,50年代に映画がテレビの脅威にさらされるや,いちはやくテレビとの共存を考慮,51年には子会社スクリーン・ジェムズを設立して,古い映画をテレビに流し,その利益で他社にさきがけてテレビ映画の製作を始めた。同時に,独立製作者を積極的に支援して《地上より永遠に》(1953),《戦場にかける橋》(1957)などを製作,ハリー・コーンの後継者エイブ・シュナイダー(1958-63年,社長兼製作本部長を兼任)が《アラビアロレンス》(1962),《わが命つきるとも》(1966)などを製作して次々にアカデミー作品賞を獲得,〈一流会社〉の地位を固めた。その後,映画界が不況に見舞われる中で,68年には映画部門(コロムビア・ピクチャーズ)とテレビ部門(コロムビア・ジェムズ)をはじめ他の小会社も合体して,社名も〈コロムビア・ピクチャーズ・インダストリーズ〉に変更した。70年代に入ってから業績は急激に衰退していったものの,SFスペクタクル《未知との遭遇》(1977)やアカデミー作品賞の《クレイマー,クレイマー》(1979)などの大ヒットによって復活のきざしを見せた。しかし,これらの作品の企画,製作に加わっていたシェリー・ランシングが80年には20世紀フォックスに引き抜かれ(彼女はハリウッド史上初のメジャー会社の女社長として迎えられ,1982年まで就任),不況時に強力なコングロマリットに吸収された映画会社の例にもれず,82年の初め,本格的に娯楽産業へ進出したコカ・コーラ社に買収されたが,89年に日本のソニー社が買収し,ソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントと改称された。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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