ロレンス(その他表記)David Herbert Lawrence

デジタル大辞泉 「ロレンス」の意味・読み・例文・類語

ロレンス(David Herbert Lawrence)

ローレンス

ロレンス(Ernest Orland Lawrence)

ローレンス

ロレンス(Thomas Edward Lawrence)

ローレンス

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精選版 日本国語大辞典 「ロレンス」の意味・読み・例文・類語

ロレンス

  1. [ 異表記 ] ローレンス
  2. [ 一 ] ( Ernest Orlando Lawrence アーネスト=オーランド━ ) アメリカの実験物理学者。一九三〇年サイクロトロンを発明し、三九年ノーベル物理学賞受賞。(一九〇一‐五八
  3. [ 二 ] ( David Herbert Richards Lawrence ディビッド=ハーバート=リチャーズ━ ) イギリスの小説家。現代文明社会における性と恋愛をテーマに新しい男女関係の倫理を追求した。主要作品「息子と恋人」「虹」「チャタレイ夫人の恋人」など。(一八八五‐一九三〇
  4. [ 三 ] ( Thomas Edward Lawrence トマス=エドワード━ ) イギリスの軍人・探検家・中東研究家。第一次世界大戦中アラブ人の対トルコ反乱を指揮し、アラビアのロレンスの名で知られた。ヒッタイトの古都カルケミッシュの発掘にも従事。著に「智慧の七柱」「砂漠の反乱」。(一八八八‐一九三五

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改訂新版 世界大百科事典 「ロレンス」の意味・わかりやすい解説

ロレンス
David Herbert Lawrence
生没年:1885-1930

イギリスの小説家。ノッティンガム近郊の炭坑夫の家に生まれる。母は下層中産階級出身で教師の経験があり,夫婦は育ちの違いからよく争い,長・次兄の死後母はロレンスを溺愛した。奨学金により高校を卒業したのち小学校の代用教員を務め,1906年ノッティンガム大学の教員養成科に入学,卒業後はロンドンで小学校教員をしながら文筆に従事,1911年処女作《白孔雀》を出版。この前年母の死によって虚脱状態に陥ったが,12年大学時代の恩師の妻フリーダと激しい恋におち,彼女の故郷ドイツに駆落ちし,次いでイタリアに赴き,ここできわめて自伝的な,自己耽溺的で正直なエゴイスト,ポール・モレルの成長と恋,恋人と母との三角関係を語った《息子と恋人》(1913)を完成。その後も,当時としては露骨な性描写の目だった三代記《虹》(1915),2組の現代的な男女の葛藤を描いた《恋する女たち》(1920),南アメリカを舞台に一種の男性主義を説いた《翼ある蛇》(1926),《チャタレー夫人の恋人》(1928)などで男女の関係を追求し続けた。このほか,この大意識家が無意識の必要性を説く逆説的なエッセー《無意識の幻想》(1922),死の直前に書かれたきわめてキリスト教的な,しかし表面反キリスト教的生命主義の書《アポカリプス》(1931),同じくきわめてキリスト教的な生命主義の小説《死んだ男》(1931),卓越した洞察に満ちた《アメリカ古典文学研究》(1923)などや,《見よ,われらはやりとげた》(1917),《死の船》(1933)などの優れた詩集がある。第1次大戦後はヨーロッパ,南アメリカを転々とし,30年肺結核のためイタリアで客死した。ロレンス文学の核心は,人間と人間の,そして男女の結びつきはいかに可能かという困難で倫理的な問題を,時代の問題であった〈性〉の面からノンコンフォーミスト独特の預言者的姿勢で執拗,激烈に探求している点にある。日本では早くも1920年代から新文学の旗手としての彼の小説の翻訳が続き,30年代にはJ.ジョイスなどとともにしばしば論じられ,戦後には50年,伊藤整による完訳本の出版が摘発されたチャタレー裁判に象徴されるように,性の解放の先駆者として大きくとり上げられた。
執筆者:


ロレンス
Thomas Edward Lawrence
生没年:1888-1935

イギリスの探検家,考古学者,軍人。通称〈アラビアのロレンス〉で有名。オックスフォード大学で考古学を学び,ことに中近東に関心をもち,1910-14年大英博物館の中東遺跡発掘調査に参加。第1次世界大戦勃発後,陸軍情報将校としてカイロに派遣され,ドイツ側に参戦したトルコの後方かく乱を企て,トルコ支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し,その独立運動に挺身した。19年パリ講和会議にも出席したが,アラブに対し戦後の独立承認を約束しながら,これを果たさぬイギリス政府に失望する。21年,W.チャーチル植民相の下にアラブ関係顧問となり,ファイサルを国王とするイラク王国の成立に努力したが,政府のアラブ政策を不満として翌年辞任。その後,変名で戦車隊,空軍に一兵士として勤務,35年除隊,まもなく交通事故で死亡。主著にアラブ独立運動の記録《知恵の七柱》(1926)がある。彼は型破りの性格で波乱の生涯を送ったが,その評価はなお一定しない。彼の不幸と孤独は,アラブの独立に賭けた純粋な理想主義が,イギリス帝国の権力主義的な中東政策によってしだいに裏切られていくところに胚胎していた。なお,彼の半生は1962年,デビッド・リーン監督,ピーター・オトゥール主演《アラビアのロレンス》(作品賞ほか各種アカデミー賞受賞)として映画化された。
執筆者:


ロレンス
Thomas Lawrence
生没年:1769-1830

イギリスの画家。宿屋の息子としてブリストルに生まれ,10歳にもならぬころから鉛筆やパステルで肖像画を描き,ほとんど独学でこの分野の一流画家となった。1791年ローヤル・アカデミーの準会員になったのを皮切りに,92年王室付画家に任命され,94年にはローヤル・アカデミー会員となる。1818年,当時の摂政皇太子(後のジョージ4世)によって大陸に派遣され,対ナポレオン戦争に功績のあった各国君主,軍人の肖像画制作を命ぜられ,それによって画家としての名声はヨーロッパ中に広まった。帰国後の20年,B.ウェストの退職後ローヤル・アカデミー院長に就任。ロレンスは,画家として最高の社会的地位と名声を獲得した。J.レーノルズの名実相伴う後継者であった。軽快で勢いのあるタッチで,衣装や髪などの質感や微妙な明暗,人物の個性的風貌を描き出す妙手でもあった。
執筆者:


ロレンス
Margaret Laurence
生没年:1926-87

イギリス系カナダ人の小説家。平原州マニトバの生れ故郷(作品の中では〈マナワーカ〉となっている)を舞台として,周囲の無理解との苦しくすさまじい闘いへ追い込まれる女主人公を描いた小説《石像の天使》(1964),《神の戯れ》(1966),《占者たち》(1974)などで知られる。ほかに夫の任地ガーナを舞台とした小説《ヨルダンのこちら側》(1960)や短編小説集,エッセー集,児童文学の作品などがあり,その著作活動は多岐にわたる。現代カナダの作家の中では最も高く評価される一人。
執筆者:


ロレンス
Lawrence

アメリカ合衆国マサチューセッツ州北東部のメリマック川に面する工業都市。人口7万(1990)。1655年に定住が始まったが,市制施行は工業都市として発展しはじめた1853年であった。1845年川の水力を利用した紡績工場と労働者用住宅が建設され,毛糸や羊毛製品工業の中心地となった。現在は,繊維・織物,衣類,皮革製品,電気製品,紙製品などが主要工業製品である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ロレンス」の意味・わかりやすい解説

ロレンス

英国の作家。父は炭坑夫で,教育のある母には溺愛された。文名を確立した小説《息子と恋人》(1913年)には母をめぐる思春期の自画像がみられる。ノッティンガム大学の恩師の妻フリーダと駆落(かけおち)結婚をし,欧米を転々としつつ,現代の文明と人間を性の視点から深く掘り下げた。作品に《虹》(1915年),《恋する女たち》(1920年),《アーロンの杖》(1922年),《カンガルー》(1923年),《翼ある蛇》(1926年),《チャタレー夫人の恋人》(1928年),《死んだ男》(1931年)。ほかに評論《無意識の幻想》(1923年),《アポカリプス》(1929年)や詩集など。A.ハクスリー編集の《書簡集》(1932年)がある。
→関連項目伊藤整グルジェフ福田恆存リービスリヒトホーフェン

ロレンス

英国の肖像画家。ブリストル生れ。ローヤル・アカデミーで学び,1790年シャルロッテ王妃の肖像を描いて認められ,1792年レーノルズの跡を継いで王室付の画家となり,1794年ローヤル・アカデミーの会員となった。貴族趣味に合った作風で,メッテルニヒウェリントン,教皇ピウス7世など著名人の肖像が多い。代表作は《シャルロッテ王妃》(1789年―1790年,ロンドン,ナショナル・ギャラリー蔵),《教皇ピウス7世像》(1818年,ウィンザー城,王室コレクション)など。

ロレンス

英国の探検家,考古学者。〈アラビアのロレンス〉として知られる。第1次大戦中の1916年―1918年,情報将校としてアラブ独立のために反トルコ軍のゲリラを指導。1921年チャーチル植民相のもとでアラブ関係顧問となるが,英政府の戦後処理に不満をもち辞任,仮名で空軍や戦車隊に勤務。主著《知恵の七柱》(1926年)は,行動的でしかも知性的であったこの近代人の自伝的記録。交通事故死。波乱の生涯を送ったが,その評価は今日なお一定しない。
→関連項目ウーリーオトゥールギネスフサイン

ロレンス

米国の物理学者。1930年カリフォルニア大学教授,1936年より同大学放射線研究所長。1930年サイクロトロンを考案,次々に改良・拡張を加え,これを用いて原子核の人工変換,人工放射能等を研究した。1939年ノーベル物理学賞。第2次大戦中は原子爆弾製造計画の指導的地位にあり,質量分析器の原理を用い大型電磁石によりウラン235の分離を実行した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロレンス」の意味・わかりやすい解説

ロレンス
Lawrence, Thomas Edward

[生]1888.8.15/16. トレマドック
[没]1935.5.19. クラウズヒル
イギリスの考古学者,軍人,作家。「アラビアのロレンス」と呼ばれる。貴族出身で,オックスフォード大学で考古学を修め,1909年シリア,パレスチナに研究旅行し,11~14年ユーフラテス川流域の遺跡発掘に従事。 14年陸軍省の依頼で,調査を名目にシナイ半島を偵察中,第1次世界大戦が始り,オスマン帝国の参戦後,エジプトでアラブ担当情報将校となった。 16年メッカのアミルで会ったフサイン・イブン・アリーを扇動してオスマン帝国に対して反乱を起させ,その息子のファイサル付きの連絡将校として,帝国軍の後方攪乱にあたった。 17年アカバを奇襲占領,のち帝国軍に捕われたが脱走。 18年ダマスカス攻撃に参加後ロンドンに帰り,19年パリ講和会議に出席。 21年植民地省のアラブ問題顧問として,アラブ処遇問題の解決に努めた。 22年辞任し,偽名でイギリス空軍に兵士として入隊したが発覚。 23年 T. E.ショーと改名し,戦車隊に入隊。 25年航空隊に移り,35年3月除隊。その後まもなくオートバイ事故で死亡。主著『知慧の七柱』 Seven Pillars of Wisdom (1926) 。

ロレンス
Lawrence, Ernest Orlando

[生]1901.8.8. サウスダコタ,カントン
[没]1958.8.27. カリフォルニア,パロアルト
アメリカの物理学者。サウスダコタ大学卒業,エール大学で学位を取り,同大学助教授を経て,カリフォルニア大学バークリー校助教授 (1928) ,同教授 (30) ,同大学放射線研究所所長 (36) 。 1930年に粒子加速器の一種であるサイクロトロンを発明し,1930年代のうちに他の粒子加速器をはるかにしのぐ高速粒子をつくりだす大型サイクロトロンを次々と完成し,原子核の研究やローレンシウムなど人工放射性同位元素をつくりだした。バークリーは加速器物理学の世界的な中心となり,門下に多くの弟子を育てた。第2次世界大戦中,「マンハッタン計画」に参加し,ウラン 235の分離に従事。戦後も 184インチ (約 4.67m) のシンクロサイクロトロンを建設,また陽子シンクロトロン (ベバトロン) の完成にも貢献した。カラーテレビのブラウン管の発明でも知られる。 39年ノーベル物理学賞受賞。 57年,アメリカ原子力委員会フェルミ賞受賞。

ロレンス
Lawrence, Gertrude

[生]1898.7.4. イギリス,ロンドン
[没]1952.9.6. ニューヨーク,ニューヨーク
イギリスの女優。本名 Gertrud Alexandra Dagma Lawrence Klasen。幼少の頃からパントマイムを演じ,その後『私生活』Private Lives (1930) ,『レディ・イン・ザ・ダーク』Lady in the Dark (1941) ,『ピグマリオン』Pygmalion (1945) など多くの喜劇やミュージカルに出演。『王様と私』The King and I (1951) はロレンスの発案によってミュージカル化されたもので,その出演中病没した。ジュリー・アンドルーズ主演の映画『スター!』Star! (1968) は,ノエル・P.カワードとの交際を含めてロレンスの多彩な生涯を描いた作品。自伝 "A Star Danced" (1945) がある。

ロレンス
Lawrence, David Herbert

[生]1885.9.11. ノッティンガムシャー,イーストウッド
[没]1930.3.2. フランス,バンス
イギリスの小説家,詩人。貧しい炭坑労働者の子に生れ,ノッティンガム大学に学んだ。教員生活ののち創作に専念。 1912年恩師ウィークリー教授の妻フリーダと大陸に駆落ちし,正式に結婚したのちもオーストラリア,アメリカ,メキシコと放浪生活をおくった。現代の物質文明を憎悪し,自然な本能としての性愛に帰ることを強調。作品には『息子と恋人』 Sons and Lovers (1913) ,『』 The Rainbow (15) ,『恋する女たち』 Women in Love (20) ,『チャタレー夫人の恋人』 Lady Chatterley's Lover (28) などの長編小説のほか,多くの中編や短編小説,詩集,旅行記,評論集,そして大部な書簡集がある。

ロレンス
Lawrence, Sir Thomas

[生]1769.4.13. ブリストル
[没]1830.1.7. ロンドン
イギリスの肖像画家。宿屋の子で鉛筆やパステルで肖像画を描いていたが,1787年ロンドンに出てロイヤル・アカデミーで学び,J.レイノルズに認められた。肖像画にすぐれ,レイノルズの死後,92年に宮廷画家となり,94年アカデミー会員,1815年異例の若年でナイト爵に叙せられた。 18~20年にヨーロッパ各地を旅行,20年から B.ウェストのあとをうけて 10年間アカデミーの会長をつとめた。繊細かつ優雅な作風で,やわらかい筆致によって各地の宮廷貴族の愛顧を受けた。主要作品『ウェリントン公』 (1815,ウィンザー城王立美術コレクション) ,『法王ピウス7世』 (19,同) ,『リーブン公女』 (20頃,ロンドン,テート・ギャラリー) 。

ロレンス
Laurens, Henry

[生]1724.3.6. サウスカロライナ,チャールストン
[没]1792.12.8. サウスカロライナ,チャールストン近郊
アメリカの政治家。サウスカロライナで貿易業を兼業していたプランター (大農場主) 。 1774年サウスカロライナ保安委員会委員長。 76年サウスカロライナ邦副知事。 77~79年大陸会議代表。 77年 11月~78年 12月同議長。 80年8月資金調達のためオランダに渡る途中,ニューファンドランド沖でイギリスの軍艦に捕われ,ロンドン塔に幽閉された。 82年 12月 C.コーンウォリス将軍と交換に釈放されて帰国。翌 83年6月イギリスとの和平交渉代表団に加わり,仮条約には J.アダムズ,B.フランクリン,J.ジェーとともに署名したが病に倒れ,本条約調印を待たずに帰国。

ロレンス
Lawrence, Paul Roger

[生]1922.4.26. イリノイ,ローシェル
アメリカの経営学者。アルビオン・カレッジ卒業後,ハーバード大学で修士号,博士号取得,引続き同大学ビジネス・スクールで教鞭をとり,1961年教授。彼は J. W.ローシュとともに著わした"Organization and Environment" (1968) のなかで「組織はその属する環境要件に適合するように,その内部構造を分化,統合する」と提唱し,その研究はコンティンジェンシー理論の中核となった。主著は上記のほか"Mayors in Action" (74,コッファーと共著) ,"Matrix" (77,デービスと共著) など。

ロレンス
Laurens, John

[生]1754.10.28. アメリカ,サウスカロライナ,チャールストン
[没]1782.8.2. アメリカ,サウスカロライナ,コンベー
アメリカ独立革命期の軍人。 G.ワシントンの副官としてワシントンの指揮した戦いにはほとんど参加したが,1777年 10月負傷。 80年援助を要請するためフランスへ派遣された。帰国後再び戦争に参加,ヨークタウンの戦いでは戦功を立て,イギリスの降伏条件の交渉にあたった。終戦直前に戦死。

ロレンス
Lawrence

アメリカ合衆国,カンザス州東部の都市。 1854年ニューイングランドからの移民の入植が開始され,カンザスシティーの西方 72kmに奴隷制度反対主義者によって建てられた。奴隷の逃亡を助ける地下組織の拠点となり,たびたび奴隷解放反対論者から攻撃を受けた。 66年カンザス大学が創立され,工業もいくらか行われるが,概して教育,文化の伝統を重んじる大学町である。人口6万 5608 (1990) 。

ロレンス
Lawrence

アメリカ合衆国,マサチューセッツ州の北東にある都市。ボストンの北西約 40km,メリマック川をはさんで位置する。 1655年に入植。メリマック川の水力を利用して古くから紡績工業が発達し,北岸は特に人口が集中し多くの工場が立地。毛糸,羊毛の生産は世界的に有名で,そのほかゴム製品,テレビ部品,石鹸なども産する。州立保健局の実験所,裁判所などがある。人口7万 207 (1990) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ロレンス」の解説

ロレンス(トマス)
Thomas Edward Lawrence

1888〜1935
イギリスの考古学者・軍人
第一次世界大戦でイギリス政府からカイロに派遣され,「アラブ人の対トルコ反乱を指導し,アラブ独立運動を助勢した」との伝説が,アメリカ人ジャーナリストによってつくられた。そのため「アラビアのロレンス」像が形成されたが,現在,欧米諸国の研究およびアラブ人の証言でこれは否定されている。戦闘行動にも多少かかわったものの,連絡員としての活動が中心だったにすぎない。大戦後,「三重外交」の解決を策したチャーチルのもとで,それに協力し,その後発生するパレスチナ問題の原因をつくり出すことにもかかわったのが実像である。

ロレンス(デヴィッド)
David Herbert Lawrence

1885〜1930
イギリスの小説家
フロイトの精神分析学の影響を受け,性の問題を追求。主著『息子と恋人たち』(1913),『チャタレー夫人の恋人』(1928)など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロレンス」の意味・わかりやすい解説

ロレンス(Sir Thomas Lawrence)
ろれんす

ローレンス


ロレンス(David Herbert Richards Lawrence)
ろれんす

ローレンス


ロレンス(Thomas Edward Lawrence)
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ローレンス


ロレンス(Ernest Orlando Lawrence)
ろれんす

ローレンス

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世界大百科事典(旧版)内のロレンスの言及

【イギリス文学】より

…W.スコット,ディケンズ,サッカレー,ブロンテ姉妹,ジョージ・エリオット,T.ハーディなどの作品がそれを実証してくれる。 20世紀の小説家たち,例えば,ジョイス,バージニア・ウルフ,D.H.ロレンスなどは,19世紀の小説の巨峰に反逆し,それを乗り越えるべく新しいタイプの小説を発表した。例えば,それまでタブーとされていた性の問題を導入したり,人間心理の内面をさぐるため〈意識の流れ〉という文体上の実験を試みたりした。…

【サルデーニャ[州]】より

…また,文盲の羊飼いの子として生まれ言語学者にまで成長を遂げた,新進の作家レッダGavino Ledda(1938‐ )は《父――パードレ・パドローネ》(1975),《鎌の言葉》(1977)を著して,この島と住民がなおも複雑な問題をはらんで生活している現実を明るみに出した。他方,サルデーニャ島を内側からではなく,外から光を当てて分析し文学化した作品のうち最も重要なものに,D.H.ロレンス《海とサルデーニャ》(1921)とE.ビットリーニ《幼年期としてのサルデーニャ》(1952)がある。【河島 英昭】。…

【チャタレー夫人の恋人】より

…イギリスの小説家D.H.ロレンスの小説。1928年刊。…

【息子と恋人】より

…イギリスの小説家D.H.ロレンスの初期の代表作。1913年刊。…

【ゲリラ】より

… 帝国主義の時代に入り,ゲリラの戦略・戦術はさらに発展する。ボーア戦争(1899‐1902)でボーア人がゲリラ戦でイギリス軍に対抗したことは知られているが,第1次大戦からロシア革命にいたる時期には,アラブの民族主義ゲリラを組織しトルコ軍と対峙してイギリス軍を助けたT.E.ロレンス(《知恵の七柱》にその経験を概括),および都市労働者やインテリゲンチャを組織してプロレタリア革命におけるパルチザン戦法を生みだしたレーニン(《プロレタリア革命の軍事綱領》など)が登場し,ゲリラの戦略・戦術が体系化される。こうした経験をへて,第2次大戦においては抗独レジスタンス運動(フランスにおけるマキなど),抗日戦争などでゲリラ戦が広範に展開された。…

※「ロレンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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