イタリアのベネチアを代表するビザンティン・ロマネスク様式の大聖堂。ベネチア商人によってアレクサンドリアから盗み出されたマルコ(以後ベネチアの守護聖人となる)の遺骸を納めるために830年ころ創建され,976年に内乱による火災で倒壊,978年に再建,さらに,11世紀に時の総督コンタリーニDomenico Contarini(在任1043-70)により現聖堂が建立された(1063-73)。1807年司教座が置かれる。当初の建物は大部分木造であったが,現聖堂は煉瓦造りで,床に大理石,斑岩,メノウを敷き,壁面を大理石の装飾柱と金地モザイクで内装する。コンスタンティノポリス(現,イスタンブール)の聖使徒教会堂(アポストレイオン)を模して計画され,5個の円蓋によってギリシア十字形平面を覆う〈5ドーム式〉である。内径12.8mの中央円蓋は砕石と煉瓦で造られた4本の大きな角柱で支持され,他の4円蓋との間を階上席および歩廊とする。聖堂前のサン・マルコ広場の拡張・整備(12世紀中ごろ)に伴い,13世紀初めにナルテックス(前柱廊)が北側に延長され,同時に2層のオーダーに上下5個ずつのアーチを架した大理石製のロマネスク風西側ファサード(正面),および南接する洗礼堂と宝物室が増築された。宝物室は装丁板,典礼器具などビザンティン金属工芸の秀作を所蔵する。ファサードには15世紀にベネチア・ゴシック風の葱花(そうか)形破風(破風内モザイクは17,18世紀に改作)が加えられ,大聖堂の独特な光彩と陰影はサン・マルコ広場の造形美に決定的役割を果たしてきた。中央入口アーチを飾るレリーフ枠はロマネスク彫刻の逸品として重要である。5個の円蓋は木組みで支持された鍍金鉛板ぶきの長円ドーム(13世紀)で覆われるが,この外殻は,中央ドームで内高より9.7m高く,球根状の頂塔を含めた聖堂の全高は約50mに及ぶ。聖堂内外は東方侵略の戦利品で飾られ,特に正面上部のテラスには,1204年第4回十字軍によってコンスタンティノポリスの馬術競技場跡から運ばれた4騎の古代ギリシア時代の鍍金ブロンズ製馬像が置かれる。堂内の広さ4000m2に達するモザイク壁面は,主として12世紀後半から14世紀中ごろに制作されたが,11世紀末の断片,ティツィアーノの下絵による作品(16世紀)も残る。これらは〈聖霊降臨〉〈昇天〉〈キリスト・エマヌエル〉(聖堂主軸の3円蓋),〈ヨハネ伝〉〈聖遺体の搬入〉(翼廊部),〈旧約伝〉(ナルテックス),〈奇跡〉〈受難〉〈復活〉などの画題を扱い,東方モザイク美術の様式発展と呼応した作品群として美術史上貴重である。主祭壇背後を飾るパラ・ドーロpala d'oro(黄金の障壁の意)は,細工を施した金板に約2000の宝石と137のエマイユ(象嵌色ガラス細工)をはめ込んだけんらんたる装飾パネル(高さ2.12m,幅3.34m)で,光と色彩の効果を聖画像のなかに追求したビザンティン荘厳美術工芸の至宝である。
執筆者:日高 健一郎
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アドリア海の奥に位置するイタリアの水の都ベネチアの、サン・マルコ広場に面して建つ大聖堂。828年にアレクサンドリアからもたらされた使徒聖マルコの遺骸(いがい)を納めている。9世紀にすでに聖堂が建造されたが、現在の聖堂は976年の火災ののち、途中で放棄された第二次聖堂を経て、1063年に着工され、1094年に献堂されたものである。ナルテックス(玄関部)を含めて奥行が76.5メートル、正面玄関部の幅52メートル、翼廊部の幅は62.6メートルの規模をもつギリシア十字形プランのビザンティン建築となっている。聖堂内部は4基の柱を中心に正方形の5区画によって構成され、それぞれに大円蓋(えんがい)屋根(クーポラ)をのせている。ベネチア共和国は東方に向かって開かれた西ヨーロッパの玄関口として東方交易や十字軍遠征を通じて栄えたが、最盛期のベネチアの栄華をこのサン・マルコ大聖堂はよく伝えている。外壁を飾る彫刻群、内部の壁面にみられる黄金の地色のモザイク壁画、宝物室の豪華な聖器具類などによって「黄金の聖堂」とたたえられた。この聖堂は、ベネチアがコンスタンティノポリス(現イスタンブール)を都としたビザンティン帝国といかに緊密な関係にあったかを物語っている。建築家も画家もコンスタンティノポリスから招かれて、ベネチア市民のビザンティン世界に対するあこがれが実現されたわけである。
聖堂内を飾る黄金の地色に描かれたモザイク壁画は、11世紀後半のものが1106年の火災で失われたのち、ふたたび制作が開始され、12世紀中期以降、13世紀前半、13世紀末、14世紀中ごろと順次年代を追うことができる。それぞれビザンティン本土の中期から末期の美術の直接の反映が認められて興味深い。アプス(後陣)の手前から身廊部を縦に並ぶ3個の円蓋には「エマヌエル」「キリスト昇天」「聖霊降臨」を表す12世紀中ごろのモザイクが、そしてナルテックスの6個の小円蓋には13世紀のモザイクで「創世記」や「出エジプト記」の旧約聖書物語が描かれている。またルネサンス時代のベネチア派の画家たち、15世紀のマンテーニャ、ジョバンニ・ベッリーニ、16世紀のティントレット、ベロネーゼ、ティツィアーノなどのカルトーン(下絵)に基づくモザイクも認められる。内陣の祭壇の背後には、「パラ・ドーロ」とよばれる、10世紀から13世紀の制作になる80枚のエマイユ(七宝)のパネルと宝石で飾られた豪華な祭壇衝立(ついたて)がある。
西正面玄関の外壁面は、ルネサンス期を経て18世紀に至るまで装飾の改案が施されているが、上部アーケードの黄金に輝く4頭の馬は、紀元前4~前3世紀のギリシア彫刻で、1204年の第四次十字軍のコンスタンティノポリス略奪の際にベネチアにもたらされたものである。
[名取四郎]
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ヴェネツィアにあるビザンツ・ロマネスク様式の大聖堂。829年にアレクサンドリアから運ばれた使徒マルコ(ヴェネツィアの守護聖人となる)の遺骨を納めるために,9世紀に建立された。ビザンツ風の円蓋とロマネスク風の正面を持ち,東西文化の交流点であったヴェネツィアを象徴する建物。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…これは絵画または彫刻で飾った一種のついたて(木,金属あるいは石製)で,最初は単純な縦長あるいは横長の長方形であった。有名な〈パラ・ドーロpala d’oro〉(ベネチア,サン・マルコ大聖堂)は10~14世紀に作られた多数のエナメル板をつないでついたてに仕立てたものである。ゴシック時代に入ると,建築様式にのっとって,尖塔や破風などを上にのせて複雑な形状をとるようになり,基部にはプレデラpredella(イタリア語)が付加されることもある(ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの《マエスタ(荘厳の聖母)》(1311)など)。…
…中世の写本画や教会堂装飾では,アダムとイブの創造の場面が描かれることが多い。サン・マルコ大聖堂(ベネチア)のナルテックスのドームのモザイク(1220ころ)では,光の創造からアダムとイブの物語までの一連の場面が見られる。また,ミケランジェロの描いたバチカンのシスティナ礼拝堂天井画(1508‐12)には,白い髪のたくましい神が現れ世界を創造する雄大な場面が繰り広げられている。…
…すなわち大運河の北東には,サン・マルコ,カナレッジョ,カステッロ,南西にはサンタ・クローチェ,サン・ポーロ,ドルソドゥーロ(ジュデッカ島を含む)の区がある。歴史的にみると,町の政治的・経済的中心はサン・マルコ広場周辺にあり,パラッツォ・ドゥカーレ(総督宮),その私設礼拝堂として生まれたサン・マルコ大聖堂,新・旧行政館,図書館,造幣局などの古い公共的建物が集まっている。〈ヨーロッパで最も美しいサロン〉とナポレオンに絶賛されたこの象徴的な広場だけが,古来,イタリア語で広場を指すピアッツァpiazzaの称号を与えられており,現在もここが観光の最大の中心となっている。…
…主として,16世紀から17世紀前半にかけて,ベネチアのサン・マルコ大聖堂を中心に活躍した一群の音楽家のことをいう。 1527年にフランドル出身のウィラールトAdrian Willaert(1490ころ‐1562)がサン・マルコの楽長に就任し,この大聖堂における音楽を豊かにすることに貢献した。…
…9世紀に遺体がアレクサンドリアで発見され,海路ベネチアへ運ばれ,途中数々の奇跡がおこったという伝説の諸場面もよく表される。ベネチアでは,遺骨を納めるため,9世紀にサン・マルコ大聖堂が建てられ(現在の建築は11世紀起工),またベネチアの美術には,同市の守護聖人となったマルコや,市の紋章でもある獅子がよく登場する。祝日は4月25日。…
※「サンマルコ大聖堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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