日本大百科全書(ニッポニカ) 「サン・マルコ大聖堂」の意味・わかりやすい解説
サン・マルコ大聖堂
さんまるこだいせいどう
Basilica di San Marco
アドリア海の奥に位置するイタリアの水の都ベネチアの、サン・マルコ広場に面して建つ大聖堂。828年にアレクサンドリアからもたらされた使徒聖マルコの遺骸(いがい)を納めている。9世紀にすでに聖堂が建造されたが、現在の聖堂は976年の火災ののち、途中で放棄された第二次聖堂を経て、1063年に着工され、1094年に献堂されたものである。ナルテックス(玄関部)を含めて奥行が76.5メートル、正面玄関部の幅52メートル、翼廊部の幅は62.6メートルの規模をもつギリシア十字形プランのビザンティン建築となっている。聖堂内部は4基の柱を中心に正方形の5区画によって構成され、それぞれに大円蓋(えんがい)屋根(クーポラ)をのせている。ベネチア共和国は東方に向かって開かれた西ヨーロッパの玄関口として東方交易や十字軍遠征を通じて栄えたが、最盛期のベネチアの栄華をこのサン・マルコ大聖堂はよく伝えている。外壁を飾る彫刻群、内部の壁面にみられる黄金の地色のモザイク壁画、宝物室の豪華な聖器具類などによって「黄金の聖堂」とたたえられた。この聖堂は、ベネチアがコンスタンティノポリス(現イスタンブール)を都としたビザンティン帝国といかに緊密な関係にあったかを物語っている。建築家も画家もコンスタンティノポリスから招かれて、ベネチア市民のビザンティン世界に対するあこがれが実現されたわけである。
聖堂内を飾る黄金の地色に描かれたモザイク壁画は、11世紀後半のものが1106年の火災で失われたのち、ふたたび制作が開始され、12世紀中期以降、13世紀前半、13世紀末、14世紀中ごろと順次年代を追うことができる。それぞれビザンティン本土の中期から末期の美術の直接の反映が認められて興味深い。アプス(後陣)の手前から身廊部を縦に並ぶ3個の円蓋には「エマヌエル」「キリスト昇天」「聖霊降臨」を表す12世紀中ごろのモザイクが、そしてナルテックスの6個の小円蓋には13世紀のモザイクで「創世記」や「出エジプト記」の旧約聖書物語が描かれている。またルネサンス時代のベネチア派の画家たち、15世紀のマンテーニャ、ジョバンニ・ベッリーニ、16世紀のティントレット、ベロネーゼ、ティツィアーノなどのカルトーン(下絵)に基づくモザイクも認められる。内陣の祭壇の背後には、「パラ・ドーロ」とよばれる、10世紀から13世紀の制作になる80枚のエマイユ(七宝)のパネルと宝石で飾られた豪華な祭壇衝立(ついたて)がある。
西正面玄関の外壁面は、ルネサンス期を経て18世紀に至るまで装飾の改案が施されているが、上部アーケードの黄金に輝く4頭の馬は、紀元前4~前3世紀のギリシア彫刻で、1204年の第四次十字軍のコンスタンティノポリス略奪の際にベネチアにもたらされたものである。
[名取四郎]