翻訳|Bucharest
ルーマニア南部にある同国の首都。ルーマニア語ではブクレシュティBucureşti。ブカレスト特別市の人口は193万(2005)で国の総人口の約9%を占める。市人口の90%以上はルーマニア人で,他はハンガリー人,ドイツ人,ロシア人,ユダヤ人等である。ブカレストは南カルパチ山脈とドナウ川の間にひろがるルーマニア平原にあって,ドナウ川まで約60km,南カルパチ山脈の山麓まで約100kmの地点に位置する。市の中央にはアルジェシュ川の支流ドゥムボビツァDîmboviţa川が流れ,川幅は大きくないが19世紀まではしばしば氾濫して市民を悩ました。その北側に並行してコレンティナColentina川が流れ,治水工事の結果いまはグリビツァ池,バニャサ池,ヘラストラウ池,フロリャスカ池等の多くの池をつないでいる。これらの池は春から夏にかけて市民の憩いに欠かせぬ場所となり,とくにヘラストラウ池の周囲は美しい大公園となっている。ブカレストは寒暑の差のはげしい大陸性気候で年平均気温は11℃,記録上いままでの最高気温は41.1℃(1945),最低気温は-30.2℃(1942)である。年降水量は500~600mm。1977年に市を襲った大地震(マグニチュード7.2)の震源地はカルパチ山脈の湾曲部(ブランチャ地方)であった。1940年にも大地震があったが,過去に地震を伝える記録が多い。
ブカレストはルーマニアの政治,経済,文化の中心である。立法,行政,司法の各府の最高機関の所在地で,市の目抜きの大通りカレヤ・ビクトリエイには元王宮だった国家評議会の建物があり,それに面して旧共産党本部(現在は諸官庁が入っている)がある。数少ない丘の一つには府主教座の近くに大国民議会議事堂がある。社会主義体制のもとでの中央集権化傾向によって首都の役割は増大し,経済の分野でも首都の工業が国民総生産に占める比重は20%をこえ,最大の工業地域をなしている。部門別にみれば,金属,機械,化学,繊維,衣服,製靴,電子工学等の比率が高く,全体として軽工業の比率が高い。またモスクワ大学の建物を思わせるスクンテイア大印刷所は全国の印刷量の大部分を占めている。ブカレストはまた交通の要衝で,オトペニOtopeniには国際線の,バニャサには国内線の空港があり,7本の鉄道がここから延びている。ここには文化,教育の諸機関も集中している。ルーマニア・アカデミーとその図書館をはじめ,1864年創立のブカレスト大学や建築大学,石油・ガス大学等の各種単科大学がある。19世紀の50年代にルーマニアの民族運動を背景に建てられた国民劇場は戦災にあい,第2次世界大戦後近代的な国立劇場が建てられた。その他の劇場,オペラ劇場の中では伝統的なツァンダリカ人形劇場が異彩を放っている。また博物館には,ルーマニアおよびブカレスト市の博物館,ジョルジュ・エネスク博物館等のほか,ヘラストラウ池畔の村落博物館がルーマニアの諸地方の民家を収集したものとしてすぐれている。近年は歴史記念物の復旧もすすみ,たとえば中世末に建てられた〈マヌクの旅籠〉も往時のままに再建され,観光の名所となっている。オスマン帝国支配とその後のたびたびの戦火によって,市にはなんども被害があったが,中世以来の東方正教会の教会,修道院もかなり現存している。とりわけ有名なものには旧宮廷の教会(15世紀),コルツェア教会(17世紀),スタブロポレオス教会(18世紀。1904年再建),アンティム教会(18世紀)等があり,郊外のモゴショアヤ離宮はいまは歴史博物館になっている。
ブカレストの地にはじめて人間の居住の跡が認められるのは,考古学の発掘によれば,約15万年以前といわれる。ダキア王国とローマ帝国の支配のあと,いわゆる民族移動の時期がつづくが,この地にはほとんど連続して居住地の跡が発見されている。しかもコンスタンティヌス大帝やユスティニアヌス1世治世のころの貨幣をはじめ,13世紀トレビゾンド帝国の貨幣まで出土していることから,この地がビザンティン文化圏とひろく交流していたのは明らかである。現在のブカレストの地に集落が成立したのは,ドゥムボビツァ川の沿岸と,当時はこの地を覆っていた森林の中であるが,河川を通じてドナウ南岸地域と結ばれていた。ルーマニア人の一部は13世紀末から南カルパチ山脈の山麓地方を根城にしてしだいにワラキア国家を形成しはじめ,やがて南方に版図を拡大するが,14世紀にはすでにこの地にも町が形成されていたらしい。伝説によれば羊飼いのブクルBucurがブカレストの創始者といわれ(市名ブクレシュティは〈ブクル一族〉の意味),いまもドゥムボビツァ川の河畔にブクル教会があるが,しかし史実として最初に確認されるのは1459年のワラキア公ブラド串刺公の文書であり,当時ドゥムボビツァの砦が築かれていた。
15世紀後半にはトルコ商人が姿を現してブラショブ商人らと交易し,東西貿易の一つの中継地であった。人口も増え,オスマン帝国の支配を逃れバルカン半島から移住してここに定住した者もいた。ブカレストがワラキア公国の恒常的な首都となったのは1659年からであるが,それ以後しだいに都市の様相を呈してくる。公の宮殿が建設され,市場や店舗の数も増えてくる。大貴族の台頭に伴い彼らの邸宅も建ちはじめた。この頃にはイタリア人,ギリシア人,アルメニア人,トルコ人の商人がひんぱんに訪れ,そのため17世紀末から,おもに彼らのための大きな旅籠が建てられはじめた。市の中心部に建てられたのはおおむね2階建てで,1階には店舗や倉庫が立ち並び,逗留客は2階に宿泊し,その部屋数は数十に及んだ。旅籠は取引の場所であるとともに,遠隔地商人の財貨を保管する機能も果たしていたが,それがトルコ語流にハンhanと呼ばれていたことからもわかるように,オリエント的な雰囲気をただよわせていた。大きな旅籠を建てるには資力を必要としたから,ワラキアの大貴族やギリシア商人,アルメニア商人がその所有者であった。ギリシア出身のファナリオットがワラキアを支配した時期(1716-1821)には,近代ヘレニズム文化の一中心地となり,ワラキア公のアカデミーではギリシア語で講義された。
18世紀後半オスマン帝国の商業的独占が崩れはじめると,中部東ヨーロッパからの商人が目だつようになった。いわゆるライプチヒ商人(ルーマニア語でリプスカニ)であり,彼らが多く店を構えた商業街はいまでもリプスカニ通りと呼ばれている。1821年以後再びワラキア人の公が選出されるようになり,ルーマニア人の民族運動が高まるにつれ,ブカレストはその中心的地位を占めるようになった。ワラキアとモルドバの統一によってルーマニア公国の首都となり(1862),1877-78年の露土戦争によって独立をかちえたのちは,ルーマニア王国の首都となった(1881)。都市の近代化もはじまり,道路,下水,街灯等が整備され,国立劇場,アテネウル(現在は演奏会場に使われている),凱旋門等の近代建造物が建ったが,19世紀後半から20世紀初めにはフランスの建築家の設計によるものが多く,〈バルカンの小パリ〉といわれたものである。両次世界大戦ではドイツに占領されたが,1944年8月23日ソ連軍の反攻に呼応しておきたブカレストでの武装蜂起によって戦後の時代がはじまった。
→ワラキア
執筆者:萩原 直
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ルーマニアの首都。羊飼いブクルの名に由来すると伝えられる。考古学の発掘によりワラキア公国以前の集落の存在も確認されているが,ヴラド串刺公統治期の1459年,ワラキアの文書史料に初めて現れる。1659年ワラキア公国の首都となる。オスマン帝国とロシア,中部ヨーロッパの結節点として交易により繁栄。政治的・文化的にも重要な役割を果たした。ワラキア,モルドヴァの統一後は1862年ルーマニア公国の首都。78年独立後は王国の首都となり,インフラ整備とともに近代的な公共建造物も建てられ,「バルカンの小パリ」とも呼ばれた。社会主義期に工業化,都市化が進み,高層住宅群が現れ,人口は200万人を超える。チャウシェスク政権末期の都市改造で修道院など歴史的建造物が失われた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ルーマニアの首都ブクレシュティの英語名。
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