フランスの画家。サント・ドミンゴのサント・バルブ・ド・サマナに生まれる。3歳のとき、18歳年上の兄のもとに託され、パリに育つ。1830年、11歳のときアングルの門に入り、その卓越した才質を認められ、アングルはローマに伴おうとしたが、経済的事情のためパリにとどまる。1836年のサロンにデビューして成功を収め、1839年には推薦を得てイタリアに留学、師に再会して6か月の滞在後帰国。『エステルの化粧』(1841年。ルーブル美術館)、『姉妹』(1843年。同上)が初期の主作品。1842年ごろから色彩や形態に動きが現れ、主題にロマン派的傾向が強まる。1846年のアルジェリア旅行はそれに拍車をかけ、ドラクロワの影響が強まる。パリ会計検査院の壁画(焼失)などが後期の主要作。ピュビス・ド・シャバンヌ、モロー、とくに後者に強い影響を与え、古典主義、ロマン主義から世紀末象徴主義への橋渡しをした。37歳で没。
[中山公男]
敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...