デジタル大辞泉 「化粧」の意味・読み・例文・類語
け‐しょう〔‐シヤウ〕【化粧/仮粧】
1
2 物の表面を美しく飾ること。「壁を白いペンキで―する」「雪―」
3 うわべだけのこと。虚飾。
「差いた刀は、―か、
[類語](1)作り・お作り・美容・
け‐わい〔‐はひ〕【化=粧/仮=粧】
「ことに女は―と言うて、我が顔に
主として顔に紅をつけたり、おしろいをつけて装い、自分および他人に美しく見せることをいう。人類の誕生以来のもので、現在では身だしなみとして欠くことのできないものとされる。つまり化粧は、未開社会から始まって文明社会に及ぶものであり、同時に世界共通の事象であり、身分の上下のない普遍的な事柄でもある。ことに晴の儀式や祭礼、耕作などの年中行事のおりには、ひときわあでやかな化粧をして、神の心を和らげ、豊年を祈念する風習は、宮中の盛儀や民間の行事として根強く存在している。
[遠藤 武]
石器時代の土偶をはじめとして、古墳時代の人物埴輪(はにわ)では、左右の頬(ほお)に朱を塗っている。3世紀に書かれた中国の史書『三国志』の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」のなかに、日本人がこのようなことをするのは中国の化粧のようであると記し、『日本書紀』の神話伝説のなかでは、海彦(うみひこ)・山彦(やまひこ)の話にもあるように、顔に朱をつけるのは服従の意味を表すものとしている。歯を黒くするお歯黒の風習も、早くから行われていた。飛鳥(あすか)・奈良時代以降、中国の模倣が急速に広まり、とくに平安時代初期には、天皇も詔勅を出して、あらゆる文化は中国に倣えというほどであった。眉墨(まゆずみ)を引くということも盛んに行われ、中国には十眉風(じっけんふう)というさまざまの眉引が行われていたが、わが国でもいろいろの眉引が行われた。おしろい、紅、澡豆(さくず)(粉末状にした小豆(あずき))という洗い粉がもたらされ、おしろいをつけた上から紅を塗る紅粧(こうしょう)ということもあった。
そればかりかハフニ(鉛製品)あるいはハラヤ(水銀製品)という中国風の白粉(おしろい)が国産されるようになったが、おしろいを顔ばかりでなく胸にまで塗る中国風の化粧法は、ついに江戸時代まで行われなかった。平安時代から眉毛を抜いて、そのあとに眉墨(当時これをこねずみといった)で化粧することが始まった。こねずみは、油煙の中に、ツユクサの花を黒焼きしたものと、金粉とごま油を混ぜて練り上げたものである。当時は、三日月のように、ほのかに見える細い眉を好んだ。紅は頬ばかりでなく、唇(くちびる)にもつけるようになった。お歯黒はしだいに儀式化する傾向が現れ、またおしろいは男性の間にも薄くつけることが行われ始めた。これがまた公家(くげ)社会の特色でもあった。
鎌倉時代の武家社会は、質実剛健を尊び、簡素な姿を旨としたが、やがて公家風をまねるようになり、これとは反対に公家が武家風を取り入れることもあって、南北朝時代には、京と鎌倉の風俗が混合した。武士が威厳を表すために、ひげをたくわえることがはやり、ひげをたくわえない者を片輪面(かたわづら)といって卑しんだところから「かきひげ」や「かけひげ」をする者もあった。公家はつねに決まりのなかに生活していたところから有職(ゆうそく)というしきたりが生まれ、それをつかさどる家柄さえあった。
公家勢力の衰退後、武家が国家の支配権を握ったが、公家に倣い武家の間にも一つの作法ができた。これを故実(こじつ)といい、今川、伊勢(いせ)、小笠原(おがさわら)などの流派ができた。つまり武道における決まりが武家生活のなかにまで行われるようになった。お歯黒の風習は室町時代になると9歳のときの儀礼の一つとなった。一方、眉作りは武家から民間へも移り、おしろいを濃く塗ることが行われ、鼻を高くみせる鼻おしろいをするのは醜いものとされていた。
桃山時代の終わりごろより、額つまり生え際を剃(そ)ることが行われ、おしろいは中国における製法に倣って、銭屋宗安の銭屋おしろい、大坂・堺(さかい)の薬種屋小西清兵衛発案の小西おしろいが売り出された。紅は頬、唇ばかりでなく、爪紅(つまべに)といって爪(つめ)に紅を塗ることが高貴の女性の間で行われるようになった。高貴の女性の間では昔ながらの厚化粧であったが、江戸時代に入って3代将軍家光(いえみつ)のころから、遊女たちの間では厚化粧は卑しいものとされ、薄化粧が流行を始めた。これが一般の女性の間にも行われ、女の身だしなみとして、耳の下、のど、胸まで残らず塗るようになった。
このころになると、頭上に髷(まげ)を置く結髪の風習が行われたために、髪形も複雑化した。それにつれて額のつくり方も、生え際を剃るばかりでなく、大額(おおびたい)、小額、火塔口(かとうぐち)、すりあげなどができた。火塔口は瓦燈口とも書き、後の富士額のことである。眉は太いのは卑しいものとされて、鶯眉(うぐいすまゆ)のような細いものが喜ばれ、子供にはきしたて眉が喜ばれた。元禄(げんろく)時代(1688~1704)には、お歯黒と青黛(せいたい)(眉墨)は、女の元服や婚礼との結び付きで通過儀礼の一つとなった。そればかりでなく、太平の世が続き、生活にゆとりのできた町人たちの間では物見遊山が盛んとなり、このための化粧にかける時間も多くなり、業界では自家製品を広めるために歌舞伎(かぶき)役者の口上、おひろめなどを利用した。
江戸後期には、江戸と上方(かみがた)では化粧面でも大きな差が生まれ、上方の厚化粧、江戸の薄化粧といわれ、ひいては、ほんのりと薫る白梅を江戸化粧、あでやかに飾る化粧を上方の化粧とした。歌舞伎役者の間から、鼻を高く見せる鼻化粧が行われて、町人の間にも取り入れられた。口紅は、下唇に濃く重ね塗りをして玉虫色に光らせたのを笹色(ささいろ)紅といったが、安価に行うには、唇の下地に墨を塗ってその上に紅をつけた。洗顔にウグイスの糞(ふん)を混ぜて用いることも、このころから始まった化粧法である。化粧下として「江戸の水」「京の水」「花の露」が用いられ、ヘチマの水も広く愛用された。女の身だしなみの本として『都風俗化粧伝』とか『容顔美艶考(ようがんびえんこう)』という冊子も刊行された。
[遠藤 武]
明治時代前期では、江戸時代の化粧をそのまま受け継いだといってよい。1883年(明治16)上流社会の社交場として鹿鳴館(ろくめいかん)が建設され、西欧化の政策がとられたとはいえ、まだおしろい全盛の和風化粧で、そのほかに、紅、眉墨、髪油、洗い粉などが普通に使われていた。中期に入り、せっけんでの洗顔がすこしずつ普及し始め、化粧水、クリーム、香水や、薄化粧用、仕上げ化粧用の粉おしろい、水おしろいなどが発売されると、自然な感じの美しさに関心が向けられ、それまで白1色であったおしろいにも、肌色や黄色などが現れるようになった。水おしろいも盛んに使われた。そして現在の美顔術(フェイシャル・マッサージ)に近いものが、明治末期には行われ始めた。概してこの時代は「おしろい化粧時代」といえよう。
大正に入ると、おしろいにかわって乳白化粧水(化粧液)がつくられ、口紅、頬紅、マニキュア、眉墨など、それまでとは違った洋風の化粧品が開発された。マスカラやアイシャドーを使った化粧もみられたが、都会の一部に限られていた。大正末期には、アイロン技術によるウェーブが輸入されたり、断髪、毛染めなどの影響からであろう。
昭和初期には、資生堂からクリームおしろいが出て、手早く仕上げのできるスピード化粧と評判になった。1930年代のことである。大正から昭和初期にかけて、おしろい時代から脱した「クリーム・化粧水化粧時代」を迎える。このころ、アメリカの美容法も具体的に紹介され、マニキュア、パックなどが試みられるようになった。個性美化粧が唱えられ、化粧法のためのマネキン・ガールが登場した。1937年(昭和12)日中戦争が勃発(ぼっぱつ)、軍事色が強まり、髪形からパーマネント追放、はでな化粧の自粛。41年太平洋戦争突入、服装も国防色といわれる軍服に似た色1色、もんぺ着用、男子生徒・学生ばかりでなく、女学生の軍需工場への動員などの事態を迎えたが、身だしなみとして口紅だけは配給されていたこともあった。
1945年(昭和20)敗戦。アメリカの風潮がそのまま化粧にも表れ、戦前からのバニシングクリームを化粧下に使う化粧法から、コールドクリームを使うようになり、真紅の口紅の化粧とともに「光る化粧」といわれる時期があった。戦後の復興は、それまで抑えられていた化粧から始まったともいえる。そして油性クリームファンデーションの製造、3色のおしろいを使っての立体化粧など、黄みを帯びた肌色からピンク系に移っていき、しだいに頬紅は使われなくなった。1950年代終わりごろには、そうした化粧の変化に、さらに口紅が加わった。濃いめの口紅の色がピンクに、コーヒー色からワイン系、ダークブラウン、ブルーやグリーン、黒に近い色にまで多彩化した。同時に、アイラインを入れるアイメーキャップもすこしずつ行われ始め、60年代からは、マスカラ、アイライナー、アイシャドー、つけまつげ、描きまつげなどと年代を追うにつれ、目の化粧はエスカレートしていった。
一方、おしろいも、いわゆる肌色や、白く塗る、厚く塗るという、いままでの観念から脱皮して、素肌美を生かす、下地を生かすために、透明度の高いパウダーが愛用されるようになった。
こうした化粧への関心の高まりには、なんといってもカラーテレビの普及が大きくかかわっている。テレビを通じてのその年々の化粧のアクセントは、ヘアスタイル、モードなどの流行と相関関係を保ちながら、また個人生活の広がり(レジャーを含む)につれて、多様化しているのが現状である。特徴的には「立体化粧の時代」といえよう。1970年代から80年代にかけては、化粧人口の増大(高年齢化と一方で低年齢化を含め、また一部男性の間にも普及しつつある)が、はっきり示されてきている。
[横田富佐子]
化粧、化粧品の語は、その時代の化粧法を反映してよばれるのが普通である。今日一般に用いられるメイクアップ(メーキャップ)make-upの語は、17世紀初頭、イギリスの詩人リチャード・クラショーが最初に使ったといわれ、当時の女性の念入りな化粧を意味した。フランス語ではマキャージュmaquillageであり、もともとこの語は扮装(ふんそう)を意味する演劇用語であった。これより以前、シェークスピアは、当時の流行語であったペインティングpaintingの語を用いている。当初これも、16世紀にイタリアから伝来した厚化粧をさしたが、16、17世紀を通して鉛白を原料とするおしろいはペイントとよばれ、のちにはおしろいに限らず多彩な顔料で色を塗ることをペインティングとよぶようになった。一方、フランス語のトアレットtoiletteは、1540年ごろイギリスに伝わりトイレットtoiletとなった語で、化粧のほかに装い全般を意味する。またドレッシングdressingの語も広義には化粧の意が含まれる。「化粧は洗い落とせる衣服」ともいわれ、装身としての衣服と化粧は本質的に同一であると考えられる。したがって化粧の始まりはたいへんに古く、各時代はその仕方について特有の型をもっていた。
古代エジプトでは、化粧はすでに階級、性別を超えた普遍的な風習であった。黄土色やオレンジ色の肌色をベースに、緑、黒、灰色のアイラインと、緑、青、黒そして多様な茶色のアイシャドーで目を強調するのが彼らの化粧の特徴である。さらにエジプトでは、爪(つめ)や手のひら、足の裏をヘンナ(指甲花)で赤橙(せきとう)色に染めたり、ときには乳首を金色に塗ることもあった。古代ギリシアでは、東方との交流によって化粧品は著しく発展した。男女ともにブロンドの髪を好み髪粉を振りかけ、ふんだんに香料を使った。また歯みがき粉も発明されている。眉間(みけん)を狭くカーブした長い眉(まゆ)を描くのが好まれ、つけ眉毛を使う女性もいた。エトルリアの女性も眉間を狭くしてアイラインを入れ、頬紅(ほおべに)と口紅を使っている。ローマになると、肌を白くすることが化粧の基本となり、入浴が盛んに行われた。鉛白やチョークのおしろいをはじめ、漂白剤や染毛剤などが中心になり、とりわけ香料は過度に使われた。つけまつげ、つけ眉毛、入れ歯、かつらも重要な化粧の小道具であった。
[平野裕子]
中世の化粧には格別の進展はみられなかったが、ローマの伝統はわずかにビザンティンとイタリアに引き継がれ、むしろイスラムの世界で大きく進展する。アラビアでは顔の白さを保つためにベールをかぶったし、蒸し風呂(ぶろ)、染毛、脱毛、マニキュア、マッサージなどが行われ、洗練された化粧品の使い方も知っていた。有産階級の婦人は美しくなるため、ハンマム(トルコ風の浴場)で時を過ごした。いわば美容院の始まりである。ビザンティンでは、かつらやマスクも使われ、黒く細い眉に頬と唇(くちびる)はバラ色に染めて、その華麗な衣装にふさわしい技巧と様式をつくりあげた。中世を通じても、女性は例外なく白く見られるよう望んでいたらしい。白やピンクの水溶性顔料に、スペインではローズ系の口紅が、ドイツやイギリスではオレンジ系、フランスでは深紅の口紅色が用いられ、ふっくらと厚い唇が好まれた。緑、青、灰色、茶、紫など多彩な色のアイシャドーも用いられ、フランス人は空色、イギリス人は灰色を好んだという。眉は14世紀ごろまでは自然な形であったが、ゴシック期以後、細い眉への賞賛が高まり、額の生え際や眉毛を抜いて細く眉を描いた。
ルネサンス以後15世紀には、北イタリアを中心に古代の化粧法が復活する。象牙(ぞうげ)のように輝く白く広い額、細い眉、小さな唇が好まれ、官能的肉体美がたたえられた。顔ばかりでなく、おしろいや香料は首、胸あるいは全身に使った。スペインでは水浴がよく行われたが、中世以降には入浴はまれになり、香水はますます重視されるようになる。16世紀末になると眉は自然の太さに戻り、付けぼくろ(パッチ、ビューティ・スポットあるいはムーシュ)がつけられるようになった。付けぼくろは、かつての古代ローマでも行われていた風習である。フランスやイギリスではブロンドの髪がもてはやされ、ときにより男性も公然と化粧を行い、香水も女性同様に使用した。17世紀は、付けぼくろとパッチの時代ともいわれている。あらゆる形や大きさに切り抜かれたパッチが顔中に貼(は)り付けられ、その習慣は老人から聖職者の間にまで及んだ。17世紀後半になると、ふっくらした丸顔にかわって卵形の顔が流行し始める。おしろい、口紅、髪粉、付けぼくろ、パッチは、年齢、性別にかかわりなく用いられた。
[平野裕子]
女性の世紀といわれた18世紀は、結髪師や美容師が全盛を誇り、おびただしい化粧品が消費されるにつれて、化粧品の広告が現れてくる。髪形も化粧もますます技巧的になり、とりわけ頬紅の使い方は独特のものであった。冷たく白い頬の上に丸く塗った頬紅、しかも濃い鮮やかな紅から淡い色の紅まで、頬紅は一日中塗られていた。うず高い髪には白い髪粉が振りまかれ、肌をいっそう白く見せるため、付けぼくろのほかに、皮膚の上に淡く青色で血管を描いたりもした。すべての流行は宮廷から市民へ、そしてやがてはあらゆる国々へと広がっていった。しかしこうした基準はフランス革命前後から大きく崩れてくる。18世紀後半の自然主義とイギリス趣味が、過剰な装飾を一夜にして単純なものに変えてしまうからである。化粧の自然への復帰は、おそらくはマリ・アントアネットの個人的な影響によるものと思われる。真っ赤な頬紅は廃れ、どぎつい香料にかわって柔らかい花の香りを流行させた。フランス革命は不潔な厚化粧やかつらを追放し、古代ローマ以来の清潔感をよみがえらせた。
[平野裕子]
19世紀になって、香水は依然として愛用されていたが、衛生面がより重視されるようになり、匂(にお)いをつけたせっけんが流行する。一方、ナポレオン3世はオーデコロンを流行させた。「顔に色を塗る」けばけばしい化粧はもはや流行おくれとなり、後の1950年代まで、「顔を彩る」化粧は演劇や映画の世界に限られ、顔を彩った女(ペインテッド・ウーマン)ということばは、あまり一般的ではない女性の代名詞にさえなった。19世紀後半のビクトリア王朝時代になると、青白い顔色に、潤んだ大きな目、自然に流した清楚(せいそ)な髪といったロマンチックな化粧が行われ、可憐(かれん)な細腰の、センチメンタルな淑女らしさが好まれた。
しかし19世紀末から20世紀にかけては、自然科学の発達とともに、化粧品の製造技術も著しい進歩をみせる。女性の社会的解放が叫ばれ、スポーツが流行し、衣服が単純化されてゆくのも、それと並行してであった。化粧品は大衆化し、量産され、衣服の簡潔さに伴って新しい型の化粧が現れた。やせるためのさまざまな美容法、棒口紅(リップスティック)から生まれた鮮やかに描かれた唇の流行、海水着の出現による日焼けした肌の流行、そして1930年以来のマニキュア、ペディキュアの流行などである。第二次世界大戦は、あらゆる階層にわたって働く女性を大幅に増やし、化粧品はますます大衆化され、簡便な化粧法が好まれるようになった。だが今日、技術的な面での改良がすべて終わったわけではなく、ほかの科学技術の目覚ましい進歩に比べて、本質的な面でどれだけの進展をみたかは疑問である。しかも化粧、化粧品の害についてはいまだに論議が絶えない。今日の化粧の特色は、肌を保護する新しいタイプの化粧品の開発にあるといえよう。精密な肌の分析の結果、多様な肌の性質にあわせて、より安全な、よりパーソナルな化粧品が、個々のニーズに応じて製造されている。
昔も今も流行が人々に夢を与えることに変わりはないが、衣服にしても化粧にしても、生身の人間自体に大きな変化は期待できないと同様に、それは人間の心の反映としての装飾をどのように変化させたり満足させたりするかに尽きるともいえよう。
[平野裕子]
化粧を、人類が生得的に有している身体部位になんらかの手を加えることと広く解するならば、むしろ化粧を行わない人類社会は有史以来存在しないといいうる。その発生が、いつの時代に求められるかの確証はないが、人類にとって化粧と似た機能をもつと思われる装身具の発生が、旧石器時代のオーリニャック期に認められ、第三、第四氷河期のころにはすでに存在していたと推定されることから、化粧も遅くとも中石器時代の終わりごろ、農業や牧畜がおこり、人類の生活が安定するころから顕著に発達してきたものと推定される。その当初の目的は、南アメリカのパタゴニア地方に住んでいたオナ人などが身体に厚く獣脂を塗り付けて酷寒をしのいだり、また古代エジプトで発達したアイシャドーの起源が毒虫や眼病から目を守るためだったとされるように実用的なものであった。同時に、人間が本能的に有している美的欲求の充足のためや性的魅力の増進の目的も無視できない。さらに、一種の信仰上の護符、呪術(じゅじゅつ)的もしくは宗教的行為として、病難や危害を防止したり、招福のための機能もほとんど同時に発生したと思われる。また、化粧は集団のなかの個人を際だたせるとともに、個人がどの集団に属するかを示すいわば両義的な機能をもつ。アフリカ大陸に限らず、その人に施されたいれずみによって出身部族が示される例のきわめて多いことがその一例である。その示す集団は出身部族だけでなく、階級、性別、既婚と未婚の別、職業などが含まれる。日本における鉄漿(かね)(お歯黒)や前髪がその例である。そのほかには、異国的なものや異質なものへのあこがれの実現という面もある。アンゴラに住むセケル・サン人の女性が、近隣の強大なバントゥー系の部族の髪形をまねすることと、東洋の女性が髪を脱色することとは、同一線上の行為であるともいいうる。さらに、祭りや戦闘に際しての化粧は、その集団や個人が異常な事態を迎えたことを示す機能をもつ。なお、以上のような化粧の多様な機能は単独で存在するばかりでなく、多くは混じり合って存在することが多いのはいうまでもない。
未開社会の化粧は、文化人類学でいう身体変工が多いのが特徴である。身体変工とは広義の身体装飾の一つであるが、身体に外科的な方法で施術するもので、具体的にはアフリカのツチ人にみられる頭部圧迫、南アメリカのスヤ人などの円盤による口唇伸張、ビルマ(ミャンマー)のパダウン人の首輪による頸部(けいぶ)伸張などがある。ただし、現代の文明社会でも、耳朶(じだ)の穿孔(せんこう)やいれずみは珍しいことではなく、また纏足(てんそく)も中華民国成立後も存在していた。したがって、もっとも特徴的なことは、アフリカのマサイ人や南アメリカのカマユラ人に典型的にみられるように、女性よりもむしろ男性がきらびやかに化粧することであろう。女性が男性よりもより化粧に興味を示す現代社会は、長い人類史のなかでむしろ例外であると推測することもできる。また他の特徴としては、アフリカのバンダ人において、子供の死亡した母は、死を意味する色である白を標示するため、顔に白粘土を塗る例が示すように、化粧に宗教的もしくは呪術的要素を色濃く残すことである。
化粧の行われる人体の部位は、大きく分けて皮膚(顔、首、頭、四肢、胸、腰)や粘膜(唇、外性器)、毛髪(頭髪、ひげ、陰毛、眉(まゆ)、まつげ)、歯と爪(つめ)などである。その方法としては、彩色(白、黒、赤、青、黄、紫、褐色の各種顔料、金銀粉、雲母(うんも)粉、貝粉)を施したり、光沢(果汁、羊毛、油脂、油粘土、滑石粉)をつけたりする。化粧の色に関しては、それぞれの色が象徴的な意味をもつことが多い。前述のように、白はおおむね死を意味する。アフリカのヌガンゲラ人の少年は、通過儀礼の一つである成人式の際、顔や体を白く塗るが、これは、少年と成人の境にあって仮死的状況を示すものと理解されている。そのほか、赤が生を表し、邪悪を排するとされるのもその一例である。
[武見李子]
化粧は顔などに紅(べに)や白い粉をつけて装い飾ることをいうが、鉄漿(かね)つけ(歯を黒く染めること)、眉(まゆ)かきなどを施して面様を変えることも化粧であった。日本では仮装、仮相とも書くように、常態とは異なる装いをすることであった。古語では「けはひ」といい、異常な雰囲気を醸し出すことが化粧であった。日常と異なる顔かたちをすることは、すなわち神霊ののりうつっていることを表しており、また仮面をかぶっているのと同じ効果をもつものである。
化粧の呪術(じゅじゅつ)的要素は、人類文化史の初めから存在していたといっても過言ではない。今日でも祭儀に顔面や身体に赤土や白土を塗って、日常と異なる状態を示す民族もいる。中国でも美しく化粧していると、神女のようだと表現しているが、日本でも神祭りにかかわる女性はかならず化粧し、普通の女性とは区別されていた。現在でも、祭りに男子が女装して、紅や白い粉を塗る例は各地にみられる。青森県の岩木山の旧暦8月1日の例祭には、毎年14、15歳の少年が、白衣に幣束を持って参拝したあと、下山のあとに顔に紅や白い粉を塗り、仮装をして思うさま乱舞するという。これは成年式の神事に参加することを意味し、化粧がそれまでの少年ではない、新しい大人の出現を示し、神霊の加護のあることを表現するものである。また5月の田植どきに、早乙女(さおとめ)がかならず化粧して参加するのも、化粧が単に美しいということだけではなく、田植という農耕儀礼にあたって、もっとも神聖な行事に参加する聖なる乙女を意味するものであった。各地に化粧(けはい)田、化粧坂などという地名があり、遊行巫女(ゆぎょうみこ)にまつわる伝説を伝えている所が多い。これも、化粧が本来だれでもできたことではなく、神を祀(まつ)る者が、神を祀るときにだけ許されたものゆえに、こと珍しく地名となって伝承されてきたのである。
改まった機会にのみ行われた化粧が、これを美しいと感じ、常の日にも再現したいという願望から、しだいに日常化したのが、今日の女性の化粧である。
化粧道具を神事に用いることも各地にあり、これは化粧が本来は神降臨の現れの一つであったことを示すものである。
化粧には赤色、白色が多いが、赤は呪力をもつ色として珍重され、身体に施すことによって身を守ると考えられた。化粧の一般化は、とりもなおさず、これを身につけた女性の霊力の普遍化、すなわち女性の社会的地位の変遷を表すものである。
[鎌田久子]
『リチャード・コーソン著、石山彰監修、ポーラ文化研究所訳・刊『メークアップの歴史――西洋化粧文化の流れ』(1982)』▽『ジャック・パンセ、イヴィンヌ・デランドル著、青山典子訳『美容の歴史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『春山行夫著『おしゃれの文化史』(1976・平凡社)』▽『久下司著『化粧』(1970・法政大学出版局)』▽『Maggie AngeloglouA history of make-up (1970, Studio Vista, London)』
主として顔およびその周辺の皮膚に色彩を施したり,光沢を付加したりする装身行為をさすが,広義にはボディ・ペインティングなどの身体装飾,抜歯や入墨などの身体変工を含めた装身行為をさす。また最近では,〈美容〉という言葉を化粧と同義に用いることもあるが,これは化粧だけでなく,化粧の予備行為を含んでいる。
化粧は本来,人間にとって最も普遍的,かつ原初的な装身行為であり,未開社会においてはひじょうに重要な文化要素の一つである。衣服を身につけない裸族や,衣服にほとんど関心を払わない民族においても,祭りには顔や体に色を塗るし,また日々食べるものにも事欠く極端に貧しい社会でも,人々は化粧に時間を費やす。彼らにおいては,化粧は性別や未婚・既婚の別,社会的地位,階層,集団への帰属などを表示する一種のサイン,記号としての機能をもつ。化粧にはさまざまな機能があるが,その普遍性を最もよく説明するのは,人間が本能的にもつ美に対する希求,すなわち美的本能であろう。しかし現存する未開社会では,化粧は美的本能の発露としての面ももちろん有してはいるが,先述のように社会的機能としての面がむしろ強く,さらにそこには呪術的・宗教的意図もこめられている。化粧はまたきわめて実用的な機能をもつ。ほとんどの未開社会は獣脂から作った独自の〈コールドクリーム〉をもっており,男女ともにヒサゴやココナッツの殻を利用したクリーム入れを常備していることが多い。南太平洋ではココヤシから作ったローションが広く普及している。クリームやローションは,毒虫よけの薬用植物や金属の粉末を含み,単なる日焼け防止にとどまらず,害虫,寒気,強風から皮膚を保護する,衣服と同様の機能をもつ。
未開社会の化粧と文明社会のそれとを比較したとき,最も大きく異なる点は,まず第1に未開社会では男のほうが装飾的な化粧を施すことであり,男だけが化粧する社会さえ見られる。化粧を施すことは性的魅力の増大におおいに役だつ。したがって,男らしさが尊ばれる未開社会では,化粧は性的なシンボルとして重要視され,とくに牧畜民の戦士社会では男の化粧が発達した。アフリカの部族のなかでも最も好戦的で勇猛果敢とされるマサイ族の若き戦士たちが化粧した姿の美しさはその典型である。化粧は祭りや儀礼の特定の機会に行われるのが普通であるが,南太平洋では日常的に男が化粧する例が多く見られる。いくつかの母系制社会では,化粧をして相手の気をひかねばならないのは男のほうである。いずれにしても,化粧は男女の性差をさまざまなレベルで峻別する伝統的な社会で,両性の性を保護,もしくは保障する機能を果たしているといえよう。さらに未開社会の化粧と文明社会のそれとが異なるもう一つの点は,化粧が古来,祭儀や演劇など特定の行事と密接な関連をもってきたことからも明らかなように,未開社会の化粧は呪術的・宗教的要素を大きく含んでいることである。祭儀に参加するのは男であり,女は俗なる存在として聖なる祭儀の場から締め出される場合が多い。したがって祭儀における男の化粧は,女の化粧に比べてはるかに強い呪術的・宗教的意味と機能を有しているといえる。
先史時代には約20種の顔料があったことがわかっているが,これらは現存の未開社会の化粧用顔料と正確に対応している。未開社会における色彩への嗜好を見ると,赤,白,黒の3色を圧倒的に好み,ついで植物性の青,緑が続く。各民族とも色ごとに象徴的な意味をもたせてある。たとえば白は死者の色,死の色としておおむね位置づけられている。白は数ある通過儀礼のなかで最大の儀礼である成年式に,最も効果的に使用される。年若い候補者たちはまず儀礼的に死ななければならない。そして厳しい精神的,肉体的試練を経て,おとなとして再生するのであるが,多くの成年式において,少年たちは顔や体を白く塗られ,擬制的死者として,またおとなでも少年でもない不安定な境界性が表示される。種々の試練を通過し,晴れて公におとなへの仲間入りを認められると,白い彩色を落とし,生を象徴し,生き生きとした喜びを表す赤や黄で全身をいろどる。少年からおとなへの移行が,死の色〈白〉から生の極彩色〈赤〉〈黄〉へと色彩の変化によってドラマティックに演出されるのである。このほか,たとえばインドネシアでは壮年の男性が顔を白く塗り,紅をさしている光景を見かけるが,彼らはたいてい呪術師や司祭で,白く塗ることによってみずからの聖なる性格を強調しているのである。赤あるいは黄は生を表す歓喜にみちた色であると同時に,邪悪を排し幸を招来する色である。ヨーロッパ旧石器時代のマドレーヌ期の岩壁画にも,赤色を塗った人物像が発見されているが,これも狩猟の成功と除災を目的としたものと考えられる。日本では,古墳時代の埴輪(はにわ)の両ほおや額,あごなどに赤を用いて左右対称の文様を彩色しているが,《日本書紀》には火須勢理(ほすせり)命が弟の火遠里(ほおり)命に恭順の意を表すために赤色の土を顔やたなごころに塗ったとあり,赤には恭順服従の意味があったらしい。
執筆者:鍵谷 明子
化粧は仮粧とも書き,〈けしやう(けしよう)〉〈けさう(けそう)〉〈けはひ(けわい)〉などと呼んだが,時代によって意味する範囲が多少異なっていた。平安初期以後の文学作品に見られる〈けしやう〉〈けさう〉は,紅,白粉(おしろい),鉄漿(かね)をつけることから身づくろいまでを含む広い意味をもっていた。また〈心けさう〉という使われ方にもうかがわれるように,精神的な分野にまで及んでいた。鎌倉時代になると〈けはひ〉が〈けさう〉〈けしやう〉に代わる言葉として意味を広げたが,江戸時代にはいると,紅,白粉を塗ることのみを〈けしやう〉とし,その他の身だしなみに類することは〈けしやう〉に入れていない(《女鏡秘伝書》1650)。その後〈けしやう〉はしだいに範囲を広げ,《女重宝記》(1692)によると,紅,白粉のほか,髪や額,眉の手入れまで含めるようになった。江戸末期の《都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)》(1813)では,書名のように〈けわい〉を身だしなみのすべてを含めた総括名称とし,〈けしやう〉は白粉,紅,眉,鉄漿など,いわゆる現代のメーキャップをさすようになった。明治以降は〈けはひ〉は〈美容〉に取って代わられ,懐旧的な表現や気取った表現をする場合に限り〈けしよう〉と区別して使われるようになった。
人類の化粧の起源は旧石器時代にさかのぼるといわれているが,日本でも縄文時代前期の福井県鳥浜貝塚から赤色漆塗りの木櫛(きぐし)が出土しており,当時すでに髪を梳(す)くという広義の化粧が行われていたことが確認されている。また《魏志倭人伝》には〈男子は大小と無く,皆黥面(げいめん)文身す〉〈朱丹を以って其の身体に塗る,中国の粉を用うるが如きなり〉〈女王を去る四千余里,又裸国,黒歯国有り〉などとあり,弥生時代に呪術や部族の識別,階層の表示などと関連した原初的な化粧が行われていたことを物語っている。さらに《日本書紀》の記述や古墳時代の埴輪の顔面彩色から,赤色顔料を顔に塗る風習があったことがわかる。原初的な化粧から美意識にもとづく化粧への発展をみたのは,6世紀後半以降,大陸・半島文化の輸入とともに紅,白粉,沢(たく)(脂綿(あぶらわた))などの化粧品を知ってからのことであろう。高松塚古墳の壁画や正倉院の《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》,薬師寺の《吉祥天女画像》などに見られる大陸風の化粧が,宮廷を中心とした限られた上層階級に流行したものと想像される。平安時代も遣唐使廃止後の10世紀後半になると,髪形,化粧,服装などすべての風俗が,動的な大陸風なものから静的な,いわゆる平安朝風俗へと変化していった。髪はそれまでの結髪から垂髪に移り,化粧は白粉を塗って白く仕上げ,紅(粉(ていふん))はあまりつけず,まゆを抜いて額の上方に黛(まゆずみ)でまゆ作りをし,男女ともに鉄漿をつけた。
江戸時代の初期のころは,《女鏡秘伝書》によれば,白粉は塗りたてず素顔に近い薄化粧をするようにすすめ,白粉を塗る部位については,耳の下,のど,胸にまで及んでいる。また紅も,《女用訓蒙図彙(おんなようきんもうずい)》によれば唇,ほお,つめに塗るが,やはり薄くつけることを上品としている。江戸初期の化粧は主として上方から,それも官女,遊女,水茶屋の女,役者などから発達し,普及したが,その過程で地域,階級,職業,年齢,既婚・未婚などの区別と流行が生まれた。なかでも歌舞伎は流行に大きな役割を果たし,役者は髪形,化粧,衣装などにたえず新奇をこらし,また化粧品の製造販売にまで関係した。とくに延宝(1673-81)末に引退した上村吉弥は京都四条通りに白粉店を開き,吉弥白粉を発売したのが当たり,これにならって元禄(1688-1704)初めごろから中村数馬,谷島主水(たにしまもんど),2世瀬川菊之丞ら数多くの役者が香具見世,油見世を開店した。八文字屋自笑の《役者全書》によると,江戸で安永年間(1772-81)に役者経営の化粧品店は18軒にのぼった。また化粧した美人の魅力や化粧品,化粧道具などについては浮世絵が,化粧品の作り方や化粧法などについては《都風俗化粧伝》や《容顔美艶考》などが,当時のマス・コミュニケーションの役割を果たしていた。しかし実際に化粧の流行を教え広めたのは女髪結で,1795年(寛政7)以来たびたびの禁令にもめげず増え続け,1853年(嘉永6)には江戸市中1400余人に達していた。1982年末の東京の美容院数1万4767軒と対比すると,人口比にしてほぼ一致する。また《守貞漫稿》によれば,文化・文政(1804-30)ごろは炊婢にいたるまで白粉を塗っていたが,嘉永年間(1848-54)には三都(京都,大坂,江戸)ともに素顔が増えてきた,それでも京坂は江戸よりも濃い化粧であると,その違いを述べている。
日本固有の化粧として伝えられてきた御歯黒(鉄漿)は,古代から男女ともに成年式などの通過儀礼と関連して行われてきた。したがって時代,地域,階層によって鉄漿付けの年齢はさまざまであったが,江戸時代に入ると,しだいに結婚と同時に歯を染めるようになり,また出産を契機にまゆをそった。しかし江戸末期になるとこの慣習もしだいに乱れ,結婚していなくとも歯を染める者もいれば,また結婚をしていても白い歯のままの者もいた。1870年(明治3)の〈太政官布告〉によって御歯黒をする者は少しずつ減っていくが,しかしそれも欧化政策を促進する貴族や外交官,高級官員などの家族で,洋髪,洋服で,舶来化粧品を使うことのできた階層に限られていた。一方では即座にできる御歯黒用の新製品が急速に売上げを伸ばすような現象も見られた。
一般大衆の化粧が少しずつ変化を見せてきたのは日露戦争後で,軍需景気で繁盛した花柳界の影響を受けて,一般婦人の髪形や服装,化粧もしだいにはでになった。昭和初年の,いわゆる〈モガ・モボ〉の時代を迎え,洋風化粧はいっそう華やかさを増したが,日中戦争勃発とともに戦時色が強まり,化粧は衰退した。第2次世界大戦後,主としてアメリカの雑誌や映画の影響を受けて,化粧は口紅から復活した。さらに1955年ごろからファンデーション(メーキャップ化粧品の一種)が登場して以来,さまざまな化粧品の普及とともに,アイメーキャップやマニキュア,ヘアカラーというように世界共通の化粧法が生まれ,発展している。
前7世紀代の《詩経》や,前3世紀ごろの《礼記》に〈蛾眉〉の形容が見られるのが化粧の古い記録といえよう。また長沙馬王堆一号漢墓出土の奩(れん)に収められた櫛,笄(こうがい),白粉筥,口脂筥などに2世紀ごろの中国の化粧の発達を知ることができる。黛でまゆを描くことは前漢から記録にあるが,後漢に入るとまゆを青黛(せいたい)で青く描くようになり,さらに額の生えぎわに黄粉を塗る〈額黄(がくおう)〉,眉間に赤く丸を描く〈的(てき)〉,唇は〈朱脣〉や〈黒脣〉が行われていた。これらはインドから伝わった仏教の影響で,仏粧(ぶつしよう)とよばれていたが,多彩な色づかいは五行思想が加味されたものといわれている。後漢末期にはまゆを細く曲折して描き,目の下の白粉を涙ではげたように薄く塗る〈愁眉啼粧〉がはやった。仏粧は唐代に入ってからさらに中国の特徴的な化粧として完成した。〈的〉は紅で眉間にさまざまな紋様を描く〈花鈿(かでん)・花子(かし)〉に発達し,また唇の両側に黒点や緑点を描く〈靨鈿(ようでん)・粧靨(しようよう)〉がうまれた。さらに女子俑(よう)に見られるように両ほおに紅で華やかな草花模様を描くようになった。まゆも唐の玄宗皇帝が画工に命じて描かせた《十眉図》に見られるように,鴛鴦眉(八字眉),小山眉(遠山眉),五嶽眉,三峯眉,垂珠眉,月稜眉(却月眉),分稍眉,涵烟眉,払雲眉(横烟眉),倒暈眉の10種類であった。唐の末期には〈血曇粧〉といって目の縁を赤紫に彩った化粧がはやった。しかし唐の滅亡とともにこれらの華やかな化粧は姿を消していった。17世紀,清代に入ると,未婚の女性はいっさい顔の手入れをしなくなり,結婚するときに初めて剃刀で顔をそる〈薙面(ていめん)〉か,絹糸にねじりをかけて顔の毛を抜く〈絞面(こうめん)〉によって額を方形に,まゆを梯形に形づくり,薄化粧をした。1900年前後にはまゆの上に七つの〈的〉を施した〈七星俏〉という化粧のはやったこともあったが,一般には〈眉心俏〉といって眉間に赤い丸や細長い1本の線を引く程度で,これは1920年代まで見られたという。
エジプトの第1王朝(前2950-前2700?)の墓から脂肪に香りをつけた化粧膏と化粧道具が発見され,第18王朝(前1552-前1306)にはコール(まぶたを染める黒い粉)とそれを塗る道具が発見されている。古代エジプトでは,炎熱から肌を守るために膏脂を塗り,眼病の予防と強い太陽光線から目を守るために目のまわりにコールや緑色の顔料を塗った。また,ミイラ造りに防腐の目的で使っていた香料の芳香性を日常生活に利用するなど,実用的な化粧が行われていた。しかしクレオパトラの時代(前51-前30)になると,彼女がまゆとまつげに墨を塗り,上まぶたには暗青色を,下まぶたにはナイルグリーンを使っていたと伝えられるように,色彩に重点をおいた化粧が発達した。エジプトの化粧文化はギリシア,ローマに伝わり,発展をみた。ギリシアでは,エジプトとほぼ同じ化粧法が行われたが,上流階級の婦人のあいだでは,ほおや手ばかりでなく,乳首にまで赤い色を塗り,紅粉で臀部(でんぶ)をうすく彩る風習があった。ローマでは,ギリシアの影響を受けて男女間におしゃれが流行した。ローマ皇帝ネロの妻ポッパエア・サビナは肌を白く美しくするために,毎朝ロバの乳の風呂に入り,夜はパンとロバの乳でつくったパックをして皮膚の手入れをした。そのためつねに500頭のロバを飼い,旅行するときも50頭のロバを連れていったという。昼間は鉛白や胡粉の白粉をぬり,コールとよばれる黒い粉で目を縁どり,ヘンナ(熱帯樹の葉でつくった赤味がかったオレンジ色の染料)や辰砂で唇やほおを彩っていた。ルネサンスを迎えると,化粧はいちだんと発達し,スイスの医学者パラケルススは,医学と錬金術をまぜあわせた膨大な医書のなかで化粧品の製法を数多く発表した。イタリアで発達した紅,白粉,まゆ墨,アイラインを使う化粧法をフランスに伝えたのは,アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスであり,イギリスに伝えたのはエリザベス1世であった。16世紀にベネチアで始まったつけぼくろはパリに伝えられて流行し,フランスではムーシュmouche(蠅),イギリスではパッチpatch(つぎはぎ)とよばれた。白粉や紅は濃厚になり,男性も華美な服を着て化粧をするようになった。フランス革命以後は,自由主義,ロマン主義の影響をうけて濃厚な化粧はすたれ,19世紀には青白いまでの顔が清楚な美しさとしてはやった。また1866年に亜鉛華の白粉が発明され,この発明がそれまでの化粧法を変えるのにおおいに役だった。20世紀にはいって南ヨーロッパ風の口紅とマニキュアが復活し,一般女性の社会進出が顕著になった第1次世界大戦後は日焼けした小麦色の肌が健康美としてもてはやされるようになった。そして化粧品科学の進歩,映画・雑誌などのマス・メディアの発達とあいまって,化粧法も大衆化し,世界共通のものとなっていった。
→化粧品 →美容
執筆者:高橋 雅夫
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…なお,近世の虹梁は,側面に渦や若葉と呼ばれる文様を彫り込んだり,根元に彫刻をつけるなど,装飾化が著しい。 天井を張らないとき(化粧屋根裏という)は,和様では虹梁の上に蟇股を並べ,さらに虹梁と蟇股を置く二重虹梁蟇股と呼ばれる方式によるか,あるいは虹梁上に合掌を組んで母屋桁(もやげた)と棟木(むなぎ)を支え,その上に垂木を並べる。垂木を支える桁のうち,いちばん上にあるものを棟木,中間にあるものを母屋桁(あるいは母屋),いちばん外側にあるものを丸桁(がぎよう)(あるいは桁)という。…
…しかし,舞台照明技術の貧弱なところでは,メーキャップもまた高度なものは要求されなかった。いわゆる近代のドーラン化粧(油脂性のねりおしろい)の発明以前は,粉を水に溶かして使う化粧が普通で,乾きが遅く,演技中に汗で流れるなどの欠点があった。しかもこれは皮膚をいため,鉛が混入している場合は危険でもあった。…
※「化粧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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