デジタル大辞泉
「グレー」の意味・読み・例文・類語
グレー(gray)
《「グレイ」とも》
1 灰色。ねずみ色。「グレーの背広」
2 白髪交じりの髪。グレーヘア。「ロマンスグレー」
3 どちらでもない中間的な状態や態度。「法律に触れるのかどうか、依然グレーだ」
[類語]灰色・鼠色
グレー(Thomas Gray)
[1716~1771]英国の詩人。ロマン主義の先駆者。「墓畔の哀歌」は「新体詩抄」に訳出され、明治文学に影響を与えた。グレイ。
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グレー
- [ 一 ] ( Sir Edward Grey サー=エドワード━ ) イギリスの政治家。外相。第一次世界大戦前から戦中にかけて、イギリス外交を指導。三国協商を推進し、またドイツのベルギー中立侵犯に対して対独宣戦を行なった。(一八六二‐一九三三)
- [ 二 ] ( Charles Grey チャールズ━ ) イギリスの政治家。一八三〇年首相に就任してホイッグ党内閣を組織し、三二年選挙法改正案の成立に成功した。(一七六四‐一八四五)
- [ 三 ] ( Thomas Gray トマス━ ) イギリスの詩人。古典的な、格調の高い文体で、風景美や憂愁をうたった点でロマン派の先駆者とされる。「墓畔の哀歌」は「新体詩抄」に訳出された。(一七一六‐七一)
グレー
- 〘 名詞 〙 ( [アメリカ] gray [英語] grey )[ 異表記 ] グレイ 灰色。鼠色。〔舶来語便覧(1912)〕
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グレー(Thomas Gray)
ぐれー
Thomas Gray
(1716―1771)
イギリスの詩人。ロンドンに生まれ、イートン校を経てケンブリッジ大学に学ぶ。卒業を待たずに友人ホレス・ウォルポールとヨーロッパ大陸に遊んだ(1738~1741)。帰国後母校の特別研究員となり、古典、中世北欧文学、ケルト文学などの研究に没頭し、晩年には歴史および近代語の教授となる。生来のゆううつ癖から終生母校の学寮で学究生活を送る。残した詩作品も断片まであわせて39編、うち生前発表の作品は13編にすぎない。その詩業は1742年の一連のオード(『イートン校遠望の詩』など)に始まり、有名な『墓畔の哀歌』(1751)で頂点に達する。寒村の貧しい農夫たちの墓畔にたたずんで、人の世の不平等と人生のはかなさとを嘆じたこの詩は、感情の抑制、均整の美を重んずる古典主義の伝統に拠(よ)りながら、田園、墓地、たそがれをモチーフに憂愁を歌う。その詩風は時代の先端を行くものであった。この詩のロマン主義的情調はわが国でもいち早く迎えられ、矢田部良吉(やたべりょうきち)訳で『新体詩抄』にも紹介された。ほかに『金魚鉢で溺死(できし)した愛猫に思う』(1748)と題した短いユーモラスなオード、古典や北欧文学の学殖に基づく長詩『吟唱詩人』『詩の歩み』(ともに1757)などがある。
[上島建吉]
『福原麟太郎著『トマス・グレイ研究抄』(1960・研究社出版)』▽『福原麟太郎訳『墓畔の哀歌』(岩波文庫)』
グレー(Elisha Gray)
ぐれー
Elisha Gray
(1835―1901)
アメリカの発明家。初め鍛冶(かじ)職で、大工や船大工職を習うが、のちにオーバリン・カレッジで物理学を学び、学位を取得後、同カレッジの教授となる。自動調整電信リレー、電信中継器、電信印字機、電信スイッチ、呼出表示装置、テルオートグラフ(書画電送装置)など電信電話に関する多くの発明がある。電話の発明はベルと同日に特許申請したため、長期の特許争いとなり結局敗訴した。1869年グレー・アンド・バートン社を設立、これはのちウェスタン・エレクトリック社に発展。著書に『電気調和電信電話の実験的研究』がある。
[木本忠昭]
グレー(Charles Grey, 2nd Earl Grey)
ぐれー
Charles Grey, 2nd Earl Grey
(1764―1845)
イギリスの政治家。1786年下院議員になり、以後ホイッグ党のフォックスに従った。1792年に議会改革を主張する「人民の友協会」を創立し、1793年と1797年に議会改革を提案したが、保守的な政界の支持を得られなかった。またフランス革命に干渉し国内の政治運動を弾圧するピット(小)政府に反対を続けた。1806年グレンビル‐フォックスの連立内閣の海相に就任、フォックスの死後は外相に転じた。1807年に下野したのち、上院(貴族院)に移って野党ホイッグ党の指導者として自由主義的な立場から歴代のトーリー党政府に反対した。1830年に首相となり、トーリー党自由主義派をも含めたホイッグ党内閣を組織し、1831年には議会改革を提案した。改革には上院が猛烈に反対したが、民衆の支持も得て反対を克服し、1832年6月に穏健な内容をもった選挙法改正法を成立させた。1834年、アイルランド問題をめぐる閣内の不一致から、首相の座をメルバーンに譲った。
[青木 康]
グレー(Asa Gray)
ぐれー
Asa Gray
(1810―1888)
アメリカの植物分類学者。ニューヨーク州に生まれる。医学校を出たが、早くから植物学に興味をもち、トリーJohn Torrey(1796―1873)の助手として『北米植物誌』Flora of North Americaの作製に協力した。1842年より約30年間ハーバード大学博物学教授。西部開拓地や海外より送られてくる多数の標本を分類整理し、『北部合衆国植物学便覧』Manual of the Botany of the Northern United States、『北アメリカの植物相大観』Synoptical Flora of North Americaなどを著し、ハーバード大学に植物園や標本館を残した。1851年来、ダーウィンと親交を結び、彼の進化説をアメリカで広めるのに貢献したが、グレー自身は進化説と自然神学を調和させようと試みた。進化説をめぐるエッセイを集めた書として『ダーウィニアーナ』Darwiniana(1876)がある。
[檜木田辰彦]
グレー(Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon)
ぐれー
Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon
(1862―1933)
イギリスの政治家。オックスフォード大学に学び、1885年自由党下院議員に選出された。1892~1895年外務政務次官を務めた。南アフリカ戦争(ブーア戦争)に際し、自由党内で戦争を支持する自由帝国主義者の中心人物の一人となった。1905年自由党キャンベル・バナマン内閣の外相に就任、1916年まで外相の地位にあった。その間、フランスとの友好増進、イギリス・ロシア協商の締結などに指導力を発揮した。外務官僚の影響もあって反ドイツ姿勢を強め、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)にあたっては、イギリスの対ドイツ参戦に大きな役割を果たした。外相辞任後は国際連盟協会会長などを務めた。
[木畑洋一]
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グレー
Thomas Gray
生没年:1716-71
イギリスの詩人。ケンブリッジ大学を中途退学して,友人ホレス・ウォルポールとヨーロッパ大陸を旅行(1739-41)したが,このとき2人がアルプスの崇高美に深く感動した事実は,イギリス人の美意識がロマン主義に向かって開かれ始める,一つの出発点であったといえよう。グレーはケンブリッジにもどり,卒業後も古典語・文学の研究に没頭し,かたわら詩作を続けた。古典学者らしい抑制のきいた措辞は,新しく自然に向かって開かれたみずみずしい感性をひそめ,寡作ながら当代を代表する詩人となった。とくに《墓畔の哀歌》(1751)は彫琢(ちようたく)の名詩である。たまたまその自然や人生に対する無常感が日本人の好みにも合って,〈山々かすみいりあひの/鐘は鳴りつつ野の牛は……〉で始まる新体詩訳(1882年,矢田部良吉)も世に問われ,人々に親しまれた。グレーにはほかに《詩の進歩》《詩人》(ともに1757)など,格調高いピンダロス風オードがあり,これによって桂冠詩人に推されたが受けなかった。母校ケンブリッジの歴史・近代語教授として,〈学寮の隠者〉と呼ばれる静かな学究生活を送ったが,その間にも北欧やアイルランドの古詩の研究や翻訳を続け,この面からもロマン主義的な感性の開花にさらに貢献した。散文家としても,死後出版の日記や書簡集が有名であり,18世紀中期の感性のあかしとなっている。
執筆者:川崎 寿彦
グレー
Charles Grey, 2nd Earl Grey
生没年:1764-1845
イギリスの政治家。初代グレー伯の長男としてノーサンバーランドに生まれる。ケンブリッジ大学を卒業して下院議員となり,父親の死後(1807)上院に移った。C.J.フォックスを信奉するホイッグの論客として知られ,カトリック解放と選挙法改正を主張してやまなかった。だが1780年代から19世紀初頭にかけての時期は,フランス革命とナポレオン戦争の影響下にトーリー党が全盛を誇った時代で,そのため閣僚となる機会には恵まれず,わずかに1806-07年に海相・外相を経験したにとどまった。だが30年にいたってようやく革新の世論が盛り上がり,それを背景にホイッグ内閣の首相に就任,選挙法改正法案を議会に提出した。法案は,上院の抵抗にあって難航したが,議会外の大衆運動に助けられて32年に成立,ここに終生の念願を果たした。34年に首相を辞め,以後は郷里のノーサンバーランドに引退した。
執筆者:村岡 健次
グレー
Edward Grey, 1st Viscount of Fallodon
生没年:1862-1933
イギリスの自由党政治家。1885年下院に入り,1905年キャンベル・バナマン内閣の外務大臣となり,第1次世界大戦前および戦中のイギリス外交を指導した。英仏協商(1904)の精神に従い,2度にわたるモロッコ事件ではフランス支持を貫き,ドイツを牽制した。さらに07年英露協商を結んでロシアとの対立要因を除去し,12年英仏海軍協定を締結,対独包囲網の形成に努めた。13年ロンドンの講和会議でバルカン諸国の紛争を調停し,平和条約の締結を促進した。14年第1次世界大戦勃発の危機には,戦争回避のため国際会議の開催を提唱したが実現せず,ドイツがベルギーの中立を侵犯したとき,一転して対独宣戦を主張,開戦後は特にバルカン諸国との関係を好転させ,戦局を有利に導いた。16年アスキス内閣総辞職とともに下野,同年子爵を授けられた。著作に追想録《25年間,1892-1916》(1925)がある。
執筆者:池田 清
グレー
George Grey
生没年:1812-98
イギリス植民地の総督,政治家。1837年オーストラリア北西部を探検,40年未開人の文明化について報告書を提出し,イギリス植民地省の注目を引いた。南オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカで総督を務め,77-79年ニュージーランド首相。各任地で原・先住民の伝統,土地所有権,農業発展に理解と協力を示し,〈二つの文化一つの国〉という今日のニュージーランド国家の礎を築いた。著書《ポリネシアの神話》(1854)はマオリ口承文芸の古典であるが,その採話と翻訳の信憑性について,近年マオリ系民俗学者から疑問も出されている。
執筆者:百々 佑利子
グレー
Zane Grey
生没年:1872-1939
アメリカの西部小説作家。ニューヨークの歯科医だったが,体内にインディアンの血が32分の1混じっていることを自慢にし,自然生活を愛する行動家で,《荒野の遺産》(1910)および《草原の騎士たち》(1912)によって,西部小説の第一人者となった。生涯に89冊出した本のうち56冊が西部小説で,それにより100本以上の映画化作品も生まれた。メロドラマが基調だが,東部人が西部流の生き方を知って真の人間性に目覚めるといった,大自然の浄化力を強調する作品が多い。
執筆者:亀井 俊介
グレー
Asa Gray
生没年:1810-88
アメリカの植物学者。ニューヨーク生れ。はじめ医学を学んだが,のち植物学を研究し,ニューヨークの自然史博物館館長,ハーバード大学教授となる。合衆国の中西部,太平洋岸からもたらされた標本を分類。C.ダーウィン,フッカーJ.D.Hookerらと親交があり,ダーウィンからは発表に先だって自然淘汰による進化の思想を述べた手紙を送られた。東アジアの植物が北アメリカのものと関係あることをも示したが,神学をも受容していた。
執筆者:江上 生子
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グレー
Grey, Charles, 2nd Earl of Grey
[生]1764.3.13. ノーサンバーランド,ファロデン
[没]1845.7.17. ノーサンバーランド,ハウィック
イギリスの政治家。グレイとも表記される。初代グレー伯の嫡子。 1786年ホイッグ党の下院議員として政界に進出すると,ピット (小)内閣の反対者として,C.フォックスらと提携し,92年には「人民の友協会」の創設に参画して,以後議会改革運動 (→選挙法改正運動 ) に尽力した。 1806年ピット (小) が死んで W.グレンビルの「挙国実力者内閣」が成立すると,フォックスは外相に,グレーは海相に就任した。同年秋フォックスの死後は,外相兼下院指導者となったが,翌 07年内閣は総辞職し,同年グレーは父の跡を継いで2代伯となり,上院に移った。以後ホイッグ党の最有力指導者となり,30年ウェリントン公のトーリー内閣が崩壊すると,ホイッグ党とカニング派の連立内閣の首相となり,多年の主張であった議会改革に着手し,32年第1次選挙法改正法案を成立させた。 34年アイルランド問題で閣内不一致を招き辞任,政界から引退した。
グレー
Gray, Simon
[生]1936.10.21. ヘイリング島
[没]2008.8.6. ロンドン
イギリスの劇作家。フルネーム Simon James Holliday Gray。作品は込み入った筋書きと,機知に富んだ文学的会話,複雑な性格描写で知られる。ウェストミンスター・スクールを経て,カナダのダルフージー大学,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ。イギリスとカナダの大学で講師として勤める一方,舞台やテレビ向けの風刺小説や笑劇を書いた。1968年に初戯曲,逃亡中の犯罪者が女装して男色宿にまぎれこむ『賢い子供』Wise Childを発表。1971年に中年の大学教授の挫折を描いた『バトリー』Butleyが世界的な評価を得,1974年に映画化された。その後,"Quartermaine's Terms"(1981),"The Common Pursuit"(1984),"The Late Middle Classes"(1999),"Little Nell"(2006)など多くの作品を著した。2005年に大英帝国三等勲功章 CBEを受章。
グレー
Gray, John
[生]1799. イングランド
[没]1883. スコットランド
イギリスのリカード派社会主義者。青年時代に商業に従事した経験とナポレオン戦争後の社会不安下で R.オーウェンの協同組合原理から受けた影響により,資本主義経済体制に批判的となり,主著『人間幸福論』A Lecture on Human Happiness (1825) で労働全収権思想を展開した。さらに労働貨幣論の体系的な主張を行なった。他の著書でもユートピア社会主義的思想を展開し,上記のほか"The Social System" (31) ,"Lectures on the Nature and Use of Money" (48) などがある。晩年は実業に復帰し,著作活動は行わなかった。 (→空想的社会主義 )
グレー
Grey, Sir George
[生]1812.4.12. リスボン
[没]1898.9.19. ロンドン
イギリスの植民地行政官。グレイとも表記される。オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカで総督として活躍。 1829年から 10年間軍務に服し,37~39年西オーストラリアの探検に参加。 41年南オーストラリア総督となり,経済再建と先住民宥和に示した手腕を買われて,ニュージーランドのマオリ族問題解決のため,45年ニュージーランド総督に任命された。硬軟よく使い分けて和解を成立させ,みずからマオリ文化の研究,その口伝を記述し,マオリ族の西洋化を進めた。 54年ケープ植民地の総督となり,先住民との和解を成立させた。しかしイギリス人とボーア人地区の連邦化をはかって反対され,61年再びニュージーランド総督に復帰。 74~94年ニュージーランド議会議員,その間首相に就任 (1877~79) し,イギリスに引退。
グレー
Gray, Thomas
[生]1716.12.26. ロンドン
[没]1771.7.30. ケンブリッジ
イギリスの詩人。イートン校,ケンブリッジ大学に学び,1742年以後は同大学の学寮に居住して隠者的な生活をおくり,のち歴史および近代語の教授に任じられた。瞑想詩『墓畔の哀歌』 Elegy Written in a Country Churchyard (1751) は非常な人気を博し,最も広く知られた英詩の一つとなった。 57年桂冠詩人に推されたが辞退。ほかに『遠くイートン校を望む歌』 Ode on a Distant Prospect of Eton College (47) ,『詩歌の進歩』 The Progress of Poesy (57) ,『詩仙』 The Bard (57) ,北欧文学の翻訳など。作品の数は多くないが洗練された端正な詩風は古典主義時代後期の代表者にふさわしい。
グレー
Gray, Asa
[生]1810.11.18. ニューヨーク,ソークォイト
[没]1888.1.30. マサチューセッツ,ケンブリッジ
アメリカの植物分類学者,植物地理学者。 1831年フェアフィールド医学校で学位取得。北アメリカの植物を採集,分類し,それをもとにして書いた分類手引書"Gray's Manual" (1848) は当時広く利用された。ハーバード大学自然史教授 (42) 。 65年,それまでに採集した植物の標本と,数千巻に及ぶ蔵書とを大学に寄贈。これが基礎となって,ハーバード大学に植物学科が新設された。彼はまた植物の地理的分布に関する研究も行い,その成果を C.ダーウィンが『種の起原』執筆のための資料として使っている。グレーはアメリカにおける有力なダーウィン支持者で,ダーウィンの学説を支持する論文集"Darwiniana"を出版した (76) 。
グレー
Grey, Lady Jane
[生]1537.10. レスターシャー,ブラッドゲイト
[没]1554.2.12. ロンドン
イギリス,チューダー朝のイングランド女王 (在位 1553.7.9~17.) 。ヘンリー7世の曾孫。少女時代から才色兼備をもって知られた。 1553年5月ノーサンバーランド (公)のたくらみで,彼の息子ギルドフォード・ダッドリーと結婚させられ,同年7月エドワード6世の死にあたり公の陰謀で王位についたが,9日間で廃位され,のち T.ワイアットの反乱との関係を疑われ,夫とともに処刑された。
グレー
Grey, Henry George, 3rd Earl of Grey
[生]1802.12.28. ノーサンバーランド,ハウィック
[没]1894.10.9. ノーサンバーランド,ハウィック
イギリスの政治家。2代伯チャールズ・グレーの長男。 1826~45年ホイッグ党の下院議員として,議会改革,自由貿易を支持。 30年植民次官となったが,33年西インド植民地の奴隷即時解放が支持されず辞任。 34年内務次官,35~39年陸相。 45年上院に移り,46~52年植民地相兼陸相として,特に帝国内のカナダ,オーストラリア,ニュージーランドなど白人植民地の自治の向上に貢献した。 52年以後閣僚となることはなかったが,政界に独自の地位を占め,自由党政府の政策をきびしく批判した。特に W.グラッドストンのアイルランド自治政策に強く反対した。
グレー
Grey, Zane
[生]1875.1.31. オハイオ,ゼーンズビル
[没]1939.10.23. カリフォルニア,アルタデナ
アメリカの小説家。ニューヨークで歯科医をしていたが,処女作『ベティー・ゼーン』 Betty Zane (1904) を自費出版して以来著作に専心,『辺境魂』 The Spirit of the Border (05) で好評を博したのち,『緋衣の騎士たち』 Riders of the Purple Sage (12) で名声を確立。西部物の大衆小説作家として 60編あまりの作品を書いたが,なかでも『最後の平原児』 The Last of the Plainsmen (08) は最高傑作とされている。
グレー
Grey of Fallodon, Edward
[生]1862.4.25. ロンドン
[没]1933.9.7. エンブルトン近郊
イギリスの政治家。 1885年自由党下院議員として政界入り。 1905年 H.キャンベル=バナマン自由党内閣の外相となり,第1次世界大戦前および大戦中のイギリス外交を指導。ドイツの勢力増大に対抗してフランス,ロシア,日本などと提携,英露協商や英仏海軍協定の締結に尽力した。バルカン問題の解決やオーストリア,セルビア間の紛争調停に努めたが,ドイツのベルギー中立侵犯を機に対独宣戦し,戦時外交を指導した。 16年 H.アスキス内閣総辞職とともに下野し,子爵を授けられ,23~24年上院の野党を指導した。
グレー
Gray, Stephen
[生]1666. カンタベリー
[没]1736.2.15. ロンドン
イギリスの物理学者。 J.フラムスティードの指導を受け,水滴を対物レンズに用いた独自の顕微鏡に関する理論を手始めに,いくつかの論文をロイヤル・ソサエティの機関誌『フィロソフィカル・トランザクション』に発表して学界入りした。後半生はほとんど電気の実験研究に没頭。特に,電気伝導を明らかにしたこと,それに伴って導体と絶縁体の区別を確立したこと,さらに誘電分極現象の研究などが重要である。ロイヤル・ソサエティ会員 (1732) 。
グレー
Grey, Beryl
[生]1927.6.11. ハイゲート
イギリスのバレリーナ。本姓 Groom。 1942年サドラーズ・ウェルズ・バレエ団 (のちのロイヤル・バレエ団) のソリストになり,『白鳥の湖』『ジゼル』『眠れる森の美女』などを踊った。ゲスト・アーティストとしてストックホルムの王立バレエ団,レニングラード・バレエ団,ボリショイ・バレエ団などで踊り,57年ロイヤル・バレエ団を脱退。 68~79年ロンドン・フェスティバル・バレエ団の芸術監督をつとめた。
グレー
Gray, Robert
[生]1755.5.10. ロードアイランド,ティバートン
[没]1806. アメリカ東海岸沖
アメリカの船長,探検家。 1787~90年アメリカ人として最初の世界周航に成功。 92年5月,オレゴン地方のコロンビア川を探検し,アメリカにこの地方の領有権主張の根拠を与えた。
グレー
Gray, Horace
[生]1828.3.24. ボストン
[没]1902.9.15.
アメリカの裁判官。 1864~73年マサチューセッツ州最高裁判所判事。 73~81年同首席判事。 82~1902年連邦最高裁判所判事。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
グレー(チャールズ)
Charles Grey, 2nd Earl Grey
1764~1845
イギリスの政治家。1786年下院に入り,ホイッグ党員としてフォックスと行動をともにした。93年議会改革を議会に提案したが,ピット(小)にはばまれた。1806年挙国一致内閣に入閣して海相,06~07年外相。07年父のあとを継いで貴族院に入り,30年ウェリントン内閣崩壊後首相(在任1830~34)となる。多年の主張であった議会改革にとりかかり,翌年議会を解散,32年いったん総辞職後,新貴族創出の国王大権発動を要請して貴族院を威嚇し,選挙法改正を達成した。
グレー(エドワード)
Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon
1862~1933
イギリスの政治家。自由党員で,1905~16年の長きにわたって外相として英露協商の締結,バルカン戦争解決の調停役など,第一次世界大戦前から開戦直後に活躍。外相辞任後,子爵に叙された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
グレー
英国の政治家。1786年下院議員となり,C.J.フォックスとともにピット(小)内閣反対の活動で名をあげた。1792年〈人民の友〉協会の創立に加わり,議会改革運動を推進。1806年挙国一致内閣の海相,外相となる。1807年襲爵(第2代グレー伯)して貴族院に移り,1830年組閣,貴族院の反対を押し切って1832年宿願の選挙法改正を達成した。
→関連項目メルバーン
グレー
米国の植物学者。フェアフィールド医学校卒業後,植物学の研究を行い,師のJ.トレーと共著で《北米植物誌》を出す。後にハーバード大学教授。C.ダーウィンと親交があり,その進化論の支持者の一人で,L.アガシーとこれをめぐって論争した。
グレー
英国の政治家。自由党に属し,外相(1905年―1916年)としてアルヘシラス会議でフランスを支持,英露協商を締結,バルカン戦争の調停など第1次大戦前後の外交面で指導的役割を演じた。1916年アスキス内閣総辞職により下野。子爵を授けられ,貴族院の野党の指導者をつとめた。
グレー
英国の詩人。離俗の学究生活を送り,ケンブリッジ大学の教授なども務めた。彼を有名にしたエレジー《墓畔の哀歌》(1751年)は,日本でも明治時代の《新体詩抄》に訳された。ほかに《詩の進歩》(1757年)など。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
グレー
Charles Grey, 2nd Earl Grey
1764〜1845
イギリスの政治家
ホイッグ党に属し,1806年海相,ついで外相をつとめ,1830〜34年首相。上院の反対をおさえて腐敗選挙区を廃止し,都市中産層に参政権を与えるという第1次選挙法改正に成功した。1833年には一般工場法も成立した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
グレー
生年月日:1862年4月25日
イギリスの政治家
1933年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のグレーの言及
【植物相】より
…進化論が確立されるにつれて,これらの分布現象は現在の環境条件で決定づけられているだけでなく,地球の歴史をも反映しているものと主張された。東アジア地域の植物群と北アメリカ東岸地域の植物群との比較は,アメリカのA.グレーによって1859年に最初に報告され,東アジアと陸つづきのヨーロッパや,距離的には近い北アメリカ西部よりはずっと類似した植物群が存在していることが明らかにされた。この現象は,氷河期以前に北半球に広く分布していた植物群が,東アジアと北アメリカ東岸に生き残ったと説明された。…
【イギリス文学】より
…しかし結局は自然に向けての詠嘆と抒情に流れたのも,長い日本の詩歌の伝統からすれば当然のなりゆきであったろう。T.グレーの《墓畔の哀歌》(1751)は,自然のなかの哀愁,人生の無常性についての瞑想など,もともと日本人ごのみの要素を含むのだが,それが〈山々かすみいりあひの/鐘は鳴りつつ野の牛は……〉(1882,矢田部良吉)という七五調に移しかえられて愛誦されたのは,示唆的なことである。さらに大正期の好みは,いっそう純粋に個人的なフランス象徴派にはっきり傾斜していった。…
【廃墟】より
…他方,同じ時期に中世へのあこがれを表明する[ゴシック・リバイバル]が興り,その影響下に成立した[ゴシック・ロマンス]ではスイス山中の古城などが好んで舞台に用いられた。また孤絶の美学を荒れ果てた墓地にもとめるT.グレーらの墓畔詩人もここから生まれた。さらにC.D.フリードリヒをはじめとするロマン主義の画家たちは自然の荒々しい力の隠喩を廃墟に認め,自我をもつ存在(個人)の内面的葛藤を際立たせる神聖な画題としてこれを描いた。…
【レーク・ディストリクト】より
…イングランド最大の湖ウィンダミアや最高峰スコーフェル山Scafell Pike(978m)を含む山・谷・湖の織りなす美しい自然の展開は,点在する史跡や廃墟とともに,多くの観光客,登山家,文学愛好者をひきよせている。文学的にも,いち早くT.グレー《湖水地方旅の日記》(1769)などで紹介され,19世紀にはワーズワース,コールリジ,サウジーらの〈[湖畔詩人]〉の詩的源泉となり,《抒情歌謡集》(初版1798)を生むもととなった。キーツ,シェリー,M.アーノルド,ラスキンもこの風土に魅せられた文人で,影響が作品に表れている。…
【ニュージーランド】より
…【堀 武昭】
【文化】
[文学]
ニュージーランド文学の古典は先住民マオリの口承文芸で,創世神話,カヌーによる大航海譚,部族伝説,系譜,祝詞,呪文,詠唱歌,ことわざが伝えられている。19世紀半ばに[G.グレー]総督はマオリ族長の手書きの原稿をもとに《父祖の勲》(マオリ語。1854)と《ポリネシア神話》(英語。…
【マオリ戦争】より
…1860年から72年にかけてニュージーランド北島で,先住民マオリ族と入植者が戦った土地戦争。1840年締結の[ワイタンギ条約]によってニュージーランドはイギリスの植民地となったが,植民地政府の土地政策は入植者とマオリ双方に失望をもたらした。入植者は土地購入権をもつのが政府であるため常に土地の不足を訴え,マオリは政府の買上価格の低さに不満をもった。グレイ総督は農業の振興や伝道活動をマオリ対策にとりいれたが土地の測量などをめぐり殺戮や小競合いが繰り返されるようになった。…
※「グレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」