目次 性質 製法 用途 生産・取引の概観 銀の象徴的意味 世界の銀の歴史 古代 中世 近代 貨幣としての銀問題 日本の銀の歴史
周期表第ⅠB族に属する金属元素。金,銅に次いで発見されたとされている。
原子記号のAgは,ラテン語のargentumで,〈輝く〉という意味のギリシア語argosに由来する。フランス語のargentはラテン語から,英語(ドイツ語)のsilver(Silber)はアッカド語 の銀sarpuからきたといわれる。日本では古く白金(しろがね)と呼んで五色の金(かね)の一つであった。
性質 面心立方格子の等軸晶系で,格子定数は4.086Å。すべての金属中で最大の電気伝導度,熱伝導度を有する。光の反射率もきわめて高く,赤外領域では98%に達するが,波長依存性が大きく320mmでは約10%に低下する。金属は酸素をよく溶解し,融点の少し上で20倍の体積(標準状態に換算して)の酸素を溶かし込むことができる。銀は貴金属のなかでは反応性が大きく,酸素の存在で硫化水素と,水の存在でオゾンや二酸化硫黄と反応する。温泉地帯で銀製品が黒変したり,また一般家庭でもすぐに光沢を失うのはこのためである。金属は硝酸や熱濃硫酸に溶ける。酸化数1の化合物が最も普通である。フッ化物を除くハロゲン化物,硫化物,酸化物,チオシアン酸塩は代表的な不溶性化合物であり,フッ化物,硝酸塩,過塩素酸塩はきわめて水に溶けやすい。アンモニア,チオ硫酸イオン,シアン化物イオンとは錯イオンをつくりやすく,これらの作用で不溶性化合物を溶かすことができる。酸化数2の化合物としてはAgF2 ,ピリジン錯体[Agpy4 ]2 ⁺,ビピリジン錯体[Ag(bpy)2 ]2 ⁺などがある。
バクテリアその他下等生物に対しては微小濃度でも強い殺菌力を示す。この現象は古くから経験的に知られており,飲料水の腐敗防止に銀製容器が,また負傷者の手当に銀箔が使用されていた。 執筆者:水町 邦彦
製法 銀の鉱物は輝銀鉱Ag2 S,角銀鉱AgClが主であるが,金との合金(エレクトラム electrum)の自然銀としても産出する。しかし銀を採取できる銀鉱石はまれで,金の鉱石または銅,鉛,亜鉛の硫化物鉱石中に含有されるものから,これら金属の製錬の際に副産される。銅の製錬では,銀は粗銅中に濃縮され,さらに銅の電解精製の際に陽極泥(アノードスライム )の中に入り,銅から分離される。また鉛製錬の際にも粗鉛中に入った銀は電解により分離される。亜鉛鉱に随伴される銀は亜鉛の湿式製錬の工程で,不溶解残渣中に入るので,銀回収のための残渣処理を行う。金鉱石中に随伴する銀はシアン化法によって,金とともに回収される。最近では写真の定着時に溶解されるフィルム中の銀も,回収システムの発達により,効率よく回収されている。
用途 電気,熱の最良導体であり,耐酸化性,加工性,機械的性質がすぐれているため,金属材料として広く用いられる。電気接点材料として弱電から強電まで用途が広く,近年はICリードフレーム材の伝導材として金とともに使われるなど,電子材料として脚光を浴びている。銀鑞(ろう),歯科用合金,めっき材料,化学工業用の器材にも使用される。臭化銀の形で写真感光材料 に,硝酸銀は医薬品,分析用試薬などとして用いられる。 →貴金属 →銀鉱物 執筆者:後藤 佐吉
生産・取引の概観 16世紀から17世紀にかけてスペインの探検家がメキシコ,ペルー,ボリビアで銀分の高い大銀鉱床を発見して以来,この地区が現在に至るも世界最大の銀産出地帯である。さらに19世紀半ばアメリカのネバダで大鉱床が発見され,一時アメリカが最大の生産国となった。1992年の世界の生産量(鉱石中の含有量)は1万2730t,このうちメキシコ,アメリカ,ペルー,旧ソ連,オーストラリア,カナダ,チリで80%強を占めている。ポーランド がこれらに次いで多い。
日本の銀供給は1958年までは国内産出分(国内鉱出)でまかなわれ,余剰分は輸出されていたが,工業用需要の伸びが大きく,59年以降純輸入国となった。国内鉱山からの生産は76年の338t以降しだいに減り,現在は金同様に海外輸入鉱石(銅・鉛など)からの副産物との割合は海外5対国内2程度である。海外鉱からの副産物等を含めた総供給量は増加傾向にあり,96年には国内生産2213t(国内鉱山からの生産は1993年に137t),輸入1253tに達した。
日本では1952年に貴金属管理法が金管理法に改まった結果,銀は金に先がけて自由に販売できるようになった。統制撤廃直前の政府買入値は1kg9700円。日本の銀価格は現在,毎月上旬,中旬,下旬ごとに発表される精錬会社建値が基準となっているが,その算出法はロンドン銀市場とアメリカの大手貴金属商であるハンディ・ハーマンHandy & Harman社が発表する建値の平均を為替レート で調整し,金利,輸入諸掛りを加算するというものである。写真フィルム,電子機器メーカーなど大手需要家は,この精錬会社建値を基準に購入している。ただ70年代後半からニューヨーク の先物市場であるコモディティ・エクスチェンジ相場の指標性が一段と強まってきた結果,銀の国際価格の変動は大きくなっている。たとえば79年の1トロイオンス10ドル台から80年初頭は50ドルへ,82年央には5ドルを割るといったぐあいである。国内の値決めも金同様に国際価格をにらんで日々変動する方式に移(きしょ)っていこう。東京金取引所に84年から銀が上場され,1日数回の立会となったため,こうした方向に拍車がかかろう。 執筆者:米良 周
銀の象徴的意味 銀は古くより高貴な工芸品に用いられたほか,貨幣の材料となり,さらに貨幣の代名詞ともなった(銀子(ぎんす),フランス語のアルジャンargentなど)。銀の装身具は魔よけの意味をもち,地域によっては金よりも貴ばれている。中国や日本では銀はつやのある白 または美しい白の意味で用いられ(銀世界,銀髪,銀髯など),ほかに銀沙(白砂)などの表現があり,また俗に銀幕,銀飯などの用法がある。銀はまた月に係る語として,中国では月の別名を銀蟾(ぎんせん),銀兎(ぎんと)(月にヒキガエル ,またはウサギがいるという伝説に基づく),銀盤などといい,月光を受けて輝くものの例に銀波,銀露などの表現がある。絵画において月を銀色で表す例は多い。銀は一般に金と対比され,後者が太陽・男性・天を象徴するのに対して,月・女性・水を象徴するものとされる。古代エジプト神話によれば神の身体は骨が銀,肉が金であったという。キリスト教 では銀は神の智または神の言葉(《詩篇》12:6)を象徴する。 執筆者:柳 宗玄
世界の銀の歴史 古代 銀は古代から財宝,装飾品に用いられ,メソポタミアのウルク文化 (前3400-前3100ころ),エジプトのゲルゼ文化(前3400-前3000ころ)の出土品中に,銀製の装飾品が発見されている。メソポタミアでは金より貴重とされ,バビロニアのハンムラピ王(前18世紀ころ)の時代には蓄蔵と支払に使用されていた。アナトリア におこったヒッタイト は銀を含んだ鉛鉱石からおそらく灰吹精錬法に似た製法で銀を生産していたと思われ,フェニキア人はアナトリアから大量の銀をエジプトへ運んでいた。旧約聖書には,アブラハム がカナンへ来たとき,銀が支払に使用されていたことが記されている。ホメロス(前8世紀)の叙事詩の中には,産地は架空の場所であるが,飲用の銀器がうたわれている。東方文明で蓄蔵と支払に用いられていたのは大きさの異なる延棒で,使用のたびに秤量しなければならなかった。
前700年ころアナトリアのリュディア王国 ではじめて,一定量のエレクトラム(銀と金の天然の合金)を含む鋳貨が造られ,ギリシアの諸都市もこれにならった。前6世紀ころより,アッティカのラウレイオン銀山 の方鉛鉱から造られたアテネのドラクメー貨 は,地中海沿岸の標準貨幣になり,商業や奴隷売買に盛んに使われた。この銀山では数千人の奴隷が働いていたといわれる。ローマの属州の中ではヒスパニア (スペイン)が銀の産地として知られ,のちにはカルパチ山脈 (東欧)やアイフェル丘陵 (ライン地方)でも銀が採掘された。タキトゥス によれば,ゲルマン人は紀元100年ころウィースバーデンとエムス付近で銀を採掘していた。
中世 中世には中部ドイツが最大の銀の産地になった。ハルツ地方のゴスラール は,968年にラムメルスベルク銀山 が開発されると一躍繁栄に向かい,皇帝ハインリヒ2世(在位1102-24)はここへ宮廷を移した。現在では,1968年に採掘1000年を記念して鉱山会社から寄贈された鉱夫の人形と市の鐘が市民や観光客の目を楽しませている。ザクセン・マイセン地方でも10世紀ころから銀が採掘されていたが,フライベルク Freibergは1168年に発見された銀山が開発されると,12世紀以降ドイツ第1の鉱業都市になった。ここの鉱山の慣行を集成した〈フライベルク鉱業法 〉は14世紀に制定され,ドイツの鉱業法の基礎になったばかりでなく,ヨーロッパ中に広まった。ドイツの銀山が空前の繁栄期を迎えたのは15世紀後半から16世紀にかけてである。ボヘミア(ヨアヒムスタール),ザクセン・マイセン(フライベルク,シュネーベルク,アンナベルク),チロル(シュワーツ)の諸地方が銀生産の三大中心で,当時の産額は19世紀半ばまで凌駕されなかった。領内に銀山をもつ諸侯や関係する都市は繁栄をきわめ,東方の奢侈品の対価として,大量の銀がベネチアなどイタリアの港を経由して東方へ流出した。銀生産の発達につれて,都市では教会や上流階級のために金銀細工師の手で銀の装飾品が作られた。J.アマンの木版画にH.ザックスの詩を添えて1568年に出版された《身分と手職の本》(邦訳《西洋職人づくし》)には,金銀細工師(…印章やら印つき指環,宝石をちりばめた高価な掛飾も小ものも,くさり,首飾,また腕輪も,杯やら壺の類も,ときには銀器も銀皿もつくる…),金銀箔師(金や銀を箔にのばすのがわしのしごと,画家やら型付け師,そのほか,どんな絵しごとにも使える箔つくりじゃ…),貨幣師(…刻印正しく精巧なグルデン,クローン,ターレル,パッツェン,半パッツェン,クロイツェル,ペニッヒ,よき昔のトゥール銀貨と,…良い通貨をわしは鋳出す)が載っている。南ドイツのアウクスブルクは,金属工芸の中心として外国にも知られていたが,1650年皇帝フェルナンド3世からオスマン・トルコ宮廷への贈物とスウェーデン女王の銀器が,この町の銀細工師の手で製作された。技術習得のために外国からアウクスブルクへ来住する金銀細工師もいたという。
中世初めカール大帝(在位768-814)のときに,1リブラ(ポンド)=20ソリドゥス(シリング)=240デナリ(ペンス)の銀本位の幣制が成立し,ビザンティン帝国やイスラムの金貨に対して,デナリウスdenarius銀貨と半デナリウス銀貨が造られた。12~13世紀に大型のグロッシェンGroschen銀貨がイタリアで造られ,ドイツの銀産額が増大した15世紀末以来,ターラーTaler貨(ヨアヒムスタール製)が造られた。これは16世紀以降各国で造られて世界貨幣となった。
近代 アメリカ大陸の世界史への登場は,銀の歴史に新しい時代を開いた。1545年にペルーのポトシ(現,ボリビア領),1546-48年にメキシコのサカテカス,グアナフアトで豊かな銀山が発見され,1560年ころからインディオを強制労働させて本格的に採掘された。水銀アマルガム精錬法もこのころ導入され,銀の生産増大に貢献した。その産額は最盛時には年約45万kgに達して(ドイツの10倍余)世界総産額の80%をこえ,中南米が銀の一大産地となった。この大量の銀はスペインの船団によって本国へ運ばれた。4,5月に本国を出帆してメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)に向かうフロータと,8月に出帆してカリブ海沿岸(ティエラ・フィルメ)に向かうガレオネスの2船団,60~100隻くらいが就航していた。両船団ともアメリカで冬を越し,翌年春ハバナに集結して帰航した。1660年までの約160年間に,ヨーロッパの銀保有量のおよそ3倍に当たる1600万kgの銀がスペインのセビリャ港に到着した。その40%くらいは王室の取り分であったといわれるが,これらの銀の大半は輸入品の支払や借金の返済のために国外へ流出した。17世紀初めまでにヨーロッパでは物価が2~6倍ほど上昇した(価格革命 )が,大量のアメリカ銀の流入もその原因の一つである。スペインのペソpeso銀貨(スペイン・ドル,メキシコ・ドルと呼ばれる)の鋳造額は,とくにメキシコに鋳造局が設立(1535)されると飛躍的に増加した。これは南北アメリカとヨーロッパで広く流通したばかりでなく,大幅な輸入超過の対アジア貿易の支払手段として大量にアジア諸国へ流出した(洋銀 )。たとえばマニラのスペイン商館から明末・清初の中国へ200万~300万ドルのスペイン・ドルが流出している。イギリス東インド会社のインド貿易もヨーロッパからの銀貨流出のルートであり,のちに開かれる同社の中国貿易もスペイン・ドルで茶を買い付ける形をとっていた。このように,最初は貿易通貨としてアジア諸国に大量に流入していたスペイン・ドルは,やがて国内で流通するようになり,アジア諸国における近代的貨幣制度の確立を促進する役割を果たした。
銀は燭台や食器にも利用された。高位者の遺産目録には中世から散見されるが,銀の燭台はルネサンス末期から,とくに宮廷・サロン文化の全盛の17~18世紀に,室内装飾を兼ねて上流階級に愛好された。あるイギリス人旅行者は1608年,イタリアには食事の際に鉄製,ときには銀製の小さい熊手(フォークのこと)を使うという〈他のキリスト教国の知らない風習がある〉と報告している。食器の使用が普及するのも17世紀以降で,銀の食器はロココ文化や19世紀のブルジョア文化の時代にステータス・シンボルとして愛好された。 執筆者:諸田 實
貨幣としての銀問題 銀は古くから金に次ぐ貨幣素材として重視されてきたが,古くはむしろ実際の取引はもっぱら銀貨によって行われていた。取引が大量となるにつれ価値のより大きい金が実際取引の手段として鋳造されるに至ったのである。しかし金銀比価が一定不変であるかぎりは,金によっても銀によっても取引当事者にとって損益はないが,両者の市場比価が変動すれば事情は異なる。しかも両者の生産条件,生産量,需給事情は等しくないから実際問題として市場比価は一定しない。金銀複本位制度 は法律をもって両者の一定比価での自由兌換(だかん)を認め,これによって市場比価を公定比価に一致させようとした制度で,19世紀の後半までは多数諸国が複本位制を採用することによって金銀比価はほぼ一定に維持され,銀はたんなる補助貨幣としてでなく,本位貨幣 の地位を維持しえたのである。
しかしこのころより銀産出高の増加は著しく,かつ1873年ドイツの金本位制度 採用以後,銀価の低落はさらに顕著となり,複本位制の維持がいよいよ困難となるや,銀本位制の維持を利益とする諸国,および銀本位制の廃止によって致命的打撃を受けるアメリカの銀産業者などの銀本位制擁護運動は激しくなった。銀問題はかかる内容をもって生起したものであり,アメリカ,フランス,中国においてとくに深刻であった。1876年アメリカ議会に設置された銀委員会は,銀価の低落は銀貨の鋳造減少によるもので供給増加によるものでないこと,金のみを貨幣とする制度は貨幣の過少によって恐慌を必然化することなどの理由をあげて,国際的に複本位制の維持に努めるべき旨を答申した。ラテン貨幣同盟の主体であり,長く複本位制をとり,国内に多量の銀を有するフランスも,1878年,81年両度のパリでの国際貨幣会議,さらにヨーロッパ以外のインド,メキシコの代表をも加えた92年のブリュッセル会議を主催して各国に呼びかけたが,複本位制維持の意図は無効に終わった。
各国の金本位制への移行により,アメリカは銀価低落防止の目的で銀買上げ政策を実施した。銀本位制を採用しつづけた東洋諸国も銀価下落の影響を受け,なかでも中国から銀が激しくアメリカに流出したのが問題化し,ここに中国もまた1933年ついに両を廃して元を採用し,35年元を金に結びつけ,イギリスの借款を得て金為替本位制に移ることを余儀なくされるに至った。 →貨幣 執筆者:新庄 博
日本の銀の歴史 《日本書紀》674年(天武3)対馬島貢銀の記載が文献上の産銀の初見である。対馬の銀坑は長崎県対馬市の旧厳原町樫根の地といわれるが,ここが古代から中世までほとんど唯一の銀山である。金が中世末まで日本の重要な輸出物であったのに対し,銀の産出は乏しく中国より輸入された。平安末以後,記録に南挺,南鐐などとみえるのは,輸入の中国銀で1個50両(1875g)ほどの銀錠が普通であった。16世紀中ごろから急に金銀山が開発され,とくに産銀の増加が著しくなった。その先駆をなしたのは石見銀山 で,1533年(天文2)山元で新製錬法に成功した。古代の銀製錬は鉛,硫黄その他の物質を徹底的に酸化して銀を残留させる酸化製錬法であったが,新製錬法は大陸系で,銀鉱に鉛を加え貴鉛をつくり灰吹法で銀を採る法で,近世を通じ全国に流布した。42年但馬国生野銀山 が開かれ,前後して山陰,山陽,北陸,つづいて奥羽の諸銀山が採掘された。とくに佐渡の相川鉱山は17世紀前半期に国内で最高の産銀をみた。
中世の日本の金銀比価はほぼ1対5~6,中国では12,13世紀に1対13ほど,14世紀末~16世紀初めに1対5~6,朝鮮では15~16世紀に1対10ほどである。16世紀中ごろより増産のため日本の金銀価格は下落し,とくに銀価は安く,同世紀後期では金銀比価はほぼ1対10となり,金銀貿易に転換が起こった。朝鮮からは15世紀中はきびしい取締りを犯して銀が輸入されたが,1538年ごろより日本より多量の銀輸出が始まる。このころから中国船の来航貿易が発展するが,彼らの最大の目標は日本銀にあった。次いでポルトガルの日本貿易がおこるが,これは日本銀と中国商品の仲介貿易をおもな内容とした。のちのオランダの貿易を含めてヨーロッパ人の日本貿易は日本の銀を輸出し,中国や南方各地の物資を日本へ輸入する点に中心があった。中国では16世紀後半から17世紀にかけ金銀比価は1対7~8であったが,1640年(寛永17)ころには1対13となり日本とほぼ同様となった。金は16世紀後期から次世紀前半まで,生糸,絹織物に次ぐ中国よりの重要輸入物であった。同期間に東南アジア各地では日本に対し金輸出・銀輸入は中国のそれ以上に有利であった。16世紀以来の日本の外国貿易の拡大発展は銀の画期的量産がこれを可能としたというべく,輸出の多い年はおそらく200tを前後したであろう。鎖国後も中国・オランダ船による巨額の銀流出が続き,しかも17世紀中ごろには金銀とも産出が減少する。1668年(寛文8)銀輸出を禁止し,まもなく中国へのみこれを解除した。オランダ船の小判輸出はこのころ増加するが,銀はやはり重要な輸出物であり,85年(貞享2)貿易銀高の制限と銅輸出の増大により金銀の流出は抑制できた。しかしこの後も朝鮮へはかなりの量の銀輸出が続いた。
16世紀以来秤量貨幣として銀流通が発達した。古代には銀の秤量は令に定められ,唐制の大称の斤・両・銖が行われたが,鎌倉時代から1両=4匁3分の法がみられる。銀1枚は10両=43匁である。銀の貨幣的流通が盛んになると貫匁法を一般に用いたが,1枚=43匁はのちまで慣用された。16世紀後期に都市には金銀の両替,吹替,秤量などを営業とする金屋(かねや),銀屋,天秤屋が現れ,各自の極印を打って保証した定位の判金,極印銀をも鋳造した。徳川氏は1601年(慶長6)大黒常是の極印銀を採用して彼を銀座 の吹人に任用した。慶長の丁銀,豆板銀がこれである。当時は諸藩,諸地域で鋳造された極印銀も多く,灰吹銀とともに通用していて,その範囲や量は判金,玉金などより広くまたはるかに多い。これら諸領域の金銀貨が幕府の貨幣に統一されるのは17世紀末である。95年(元禄8)以後銀貨の改鋳もしばしば行われたが,みな秤量貨幣である。1765年(明和2)に五匁銀を造り,12枚をもって金1両にあて用いさせたが,これは銀貨の計数貨幣の初めであり,そののち一分銀,二朱銀,一朱銀など数種が発行された。
明治政府は生野銀山などを官行とし,また採鉱・製錬法にも西洋の新技術を導入したが,産銀高では明治期は近世初期の盛時にはとうてい及ばなかった。明治初期に銀山では佐渡,生野,神岡,半田(福島県伊達郡桑折町),院内,倉谷(金沢市)が,明治末期に椿(秋田県山本郡八峰町),小坂,生野,佐渡,神岡があった。大正以後は佐渡,鯛生(たいお)(大分県日田市),山ヶ野(鹿児島県霧島市),串木野などが金銀山として重要である。19世紀後半に金本位制が世界を支配するに至るまで,銀は無制限法貨として世界各国に流通した。日本も1897年の貨幣法制定までは事実上銀本位制の支配下にあった。銀は日本でも古くより像器などに利用されたが,近代では補助貨幣として鋳造されるほか,電鍍,各種装飾品の製造および合金の材料として用い,また食器具製造などのため需要も増加した。工業用需要の増加が大きく1959年以降純輸入国になっていることは既述のとおりである。 執筆者:小葉田 淳