坪内逍遙(読み)つぼうちしょうよう

精選版 日本国語大辞典 「坪内逍遙」の意味・読み・例文・類語

つぼうち‐しょうよう【坪内逍遙】

  1. 小説家劇作家評論家、英文学者。本名勇蔵、のち雄蔵。美濃(岐阜県)生まれ。東京大学在学中より翻訳、評論などの活動を行なっていたが、明治一六年(一八八三)卒業とともに東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となった。同一八~一九年「小説神髄」を発表、小説改良を提唱。同二四年には「早稲田文学」を創刊。鴎外との間の没理想論争は有名。その後はもっぱら演劇改良運動に打ち込み、シェークスピアの研究にも力を尽くした。一方、教育者としての発言も多い。著作「当世書生気質」「桐一葉」「新曲浦島」など。安政六~昭和一〇年(一八五九‐一九三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「坪内逍遙」の意味・わかりやすい解説

坪内逍遙
つぼうちしょうよう
(1859―1935)

小説家、劇作家、評論家、翻訳家。安政(あんせい)6年5月22日、美濃(みの)国加茂郡太田村(岐阜県美濃加茂市)に父平之進、母ミチの五男、末子(第10子)として生まれる。本名勇蔵、のち雄蔵。号は春のやおぼろ(春廼屋朧)、逍遙遊人、柿叟(しそう)。幼少時、母に伴われて名古屋の歌舞伎(かぶき)興業をみ、近世戯作(げさく)を耽読(たんどく)した。名古屋県英語学校に学び、シェークスピアを知った。1876年(明治9)県選抜生として上京、東京開成学校(翌年東京大学となる)に入学、大学予備門から本科に進み、高田早苗(さなえ)を知り、その導きで西欧文学に目を開いた。講師ホートンの試験に失敗、その反省から文学研究方法、批評方法の探究を続けながら、東京大学政治経済科を卒業、東京専門学校(現早稲田(わせだ)大学)講師となった。1885年から翌年にかけて『一読三歎当世書生気質(かたぎ)』『小説神髄(しんずい)』を上梓(じょうし)、近代小説、近代小説論の実例を示した。加藤センとの結婚による内的動因もあり、「人情」の内部に視点を据えた『新磨妹と背かゞみ』(1886)、『松の内』(1888)、インテリ夫妻の心理的背反を追った『細君』(1889)などの創作が続いた。一方、逍遙の政治小説は『啓蒙攪眠清治湯(せいじゅ)の講釈』(1882)に始まり、『内地雑居未来の夢』『諷誡京わらんべ』(1886)を経て、作品規模の拡大に応じた小説の力学を開拓し、『外務大臣』(1888)に至った。

 東京専門学校の文科新設に伴い、『早稲田文学』を創刊(1891)した。帰納の批評を主張して、演繹(えんえき)を持し、『しがらみ草紙』に拠(よ)る森鴎外(おうがい)との間に、「理想」の意味や、理想の表象としてのイデア的世界観をめぐり、いわゆる「没理想論争」を展開した。すでに高田半峰(早苗)らと末松謙澄(けんちょう)らの歌舞伎改良論を批判してきた逍遙は『わが邦(くに)の史劇』(『早稲田文学』1893~94)に、シェークスピアを援用して歌舞伎の長短を論じ、新史劇への道を示した。史劇『桐一葉(きりひとは)』(1894~95)は歌舞伎改良史上最初の成功作となった。『牧の方』(1896~97)、『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』(1897)発表後の高山樗牛(ちょぎゅう)との歴史劇論争、歴史画論争を通して、「史」意識は逍遙の内部に深く下りた。さらに早稲田中学の教頭として倫理教育に打ち込み、名著『通俗倫理談』(1903)を著し、小学校用『国語読本』を編纂(へんさん)し傑作と評されたが、教育者逍遙の関心は文化西欧化の現状を超え、深く民族文化の基層にも届いた。演劇革新論の第二弾『新楽劇論』(1904)が「楽劇」の立体空間を強調するのも、民族芸能・伝統演劇の交響を期待してのことで、『新曲浦島』(1904)、『新曲赫映姫(かぐやひめ)』(1905)の構想にもそれは表れた。

 日露戦争が終わり、島村抱月(ほうげつ)が帰国し、1906年(明治39)『早稲田文学』が復活する。文芸協会が発足し、近代劇の基盤づくりを考えて本格的なシェークスピア翻訳に着手、1909年『ハムレット』(沙翁(さおう)傑作集第一編)を刊行。演劇研究所を設立し、新劇俳優養成を進め、1911年文芸協会第3回公演『ハムレット』に成功したが、抱月の人生観、演劇観とのずれに、抱月の松井須磨子との恋愛問題が絡み、文芸協会会長を辞し、協会を解散した。『役(えん)の行者』にはこの時期の逍遙の深い孤独の投影がある。1915年(大正4)早大教授を辞し、熱海(あたみ)(静岡県)定住が実現した。『名残(なごり)の星月夜』(1917)に続く逍遙史劇史の最後『義時の最期』(1918)は、彼の精神史の暗部をうかがわせる。昭和10年2月28日永眠。住居の双柿舎に近い熱海市海蔵寺境内に葬られた。この年5月、2年前より刊行中の『新修シェークスピヤ全集』全40巻が完結した。『逍遙選集』17巻(1926~27)がある。

[中村 完]

『『明治文学全集16 坪内逍遙集』(1969・筑摩書房)』『逍遙協会編『逍遙選集』復刻版・12巻・別巻5(1977~78・第一書房)』『河竹繁俊著『人間坪内逍遙――近代劇壇側面史』(1959・新樹社)』『本間久雄著『坪内逍遙――人とその芸術』(1959・松柏社)』『尾崎宏次著『坪内逍遙』(1965・未来社)』『稲垣達郎他著『座談会・坪内逍遙研究』(1976・昭和女子大学)』『中村完編『坪内逍遙・二葉亭四迷』(1979・有精堂出版)』『『稲垣達郎学芸論集 坪内逍遙(1)(2)』(1982・筑摩書房)』『『坪内逍遙事典』(1986・平凡社)』


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20世紀日本人名事典 「坪内逍遙」の解説

坪内 逍遙
ツボウチ ショウヨウ

明治・大正期の小説家,評論家,劇作家,翻訳家,教育家 早稲田大学教授。



生年
安政6年5月22日(1859年)

没年
昭和10(1935)年2月28日

出生地
美濃国加茂郡太田村(岐阜県美濃加茂市)

本名
坪内 雄蔵(ツボウチ ユウゾウ)

別名
幼名=勇蔵

学歴〔年〕
東京大学文学部政治経済学科〔明治16年〕卒

学位〔年〕
文学博士

経歴
代官手代の三男に生まれる。明治16年東京専門学校(現・早稲田大学)の講師となる。18年から19年にかけて小説「当世書生気質」、小説論「小説神髄」を刊行し、小説改良の呼びかけとなり、近代日本文学の指導者となる。23年専門学校に文学科(文学部)を創設し、24年「早稲田文学」を創刊。24年から25年にかけて、森鷗外との間に“没理想論争”をおこす。この間、従来のシェークスピア研究・翻訳を続け、さらに近松研究も加わり、27〜28年史劇「桐一葉」、30年「沓手鳥孤城落月」を発表。37年頃からは新劇革新運動に参加。42年島村抱月が主導して結成された文芸協会の会長となり、俳優の養成や沙翁(シェークスピア)劇などを上演、大正2年には解散。4年早稲田大学教授を辞職し、以後文筆に専念した。小説、演劇、評論と文学・演劇面での著書は多く、また倫理学の本もある。15年〜昭和2年「逍遙選集」(自選 全15巻)、明治42年〜昭和3年「沙翁全集」(全40巻)を刊行。一方、大正13年頃から和歌や俳句に親しむようになり、没後に「歌・俳集」(昭和30年)が刊行された。昭和3年古希を記念して早大構内に坪内博士記念演劇博物館が設立された。平成6年生誕地の岐阜県美濃加茂市によって坪内逍遙大賞が創設された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「坪内逍遙」の意味・わかりやすい解説

坪内逍遙
つぼうちしょうよう

[生]安政6(1859).5.22. 美濃,太田
[没]1935.2.28. 熱海
小説家,劇作家,翻訳家,教育者。本名,勇蔵,のち雄蔵。別号,春のやおぼろ。1883年東京大学政治経済科卒業とともに東京専門学校(現早稲田大学)講師。1884年シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』を全訳刊行。1885~86年小説『当世書生気質』『小説神髄』を発表して近代文学の成立に波紋を投じた。以後,創作,翻訳,教育などに活躍。特に演劇革新運動に没頭し,『桐一葉』(1894~95),『牧の方』(1896)などの戯曲を発表する一方,1906年に文芸協会を創立。1915年,早稲田大学教授を辞して熱海で『役(えん)の行者』(1917),『名残の星月夜』(1917)などの脚本執筆のかたわら,1928年には『シェークスピヤ全集』40巻の翻訳を完成させた。文学近代化の先導,演劇革新,国劇向上,文学者育成などに果たした功績は大きい。

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旺文社日本史事典 三訂版 「坪内逍遙」の解説

坪内逍遙
つぼうちしょうよう

1859〜1935
明治〜昭和初期の小説家・劇作家・評論家・教育家
本名は勇蔵(のち雄蔵)。別号は「春のやおぼろ」。美濃(岐阜県)の生まれ。東大卒業後,東京専門学校(現早稲田大学)の講師となる。『小説神髄』(1885),『当世書生気質』によって写実主義文学を開拓し,'91年『早稲田文学』を創刊。のち演劇改良を志し,『桐一葉』などの劇曲を発表。1906年には島村抱月とともに文芸協会を設立して新劇運動にも尽力した。またシェークスピアの作品の全訳をめざし,'28年に完成した。

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367日誕生日大事典 「坪内逍遙」の解説

坪内 逍遙 (つぼうち しょうよう)

生年月日:1859年5月22日
明治時代;大正時代の小説家;劇作家。早稲田大学講師
1935年没

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