日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ジャービル・ビン・ハイヤーン
じゃーびるびんはいやーん
Jābir ibn Hayyān
(721/722―?)
8世紀後半のアラビアの錬金術師。人名表記中の「ibn」は「bin」としている資料も多い。薬種商の子。クーファで活躍し、ハールーン・アッラシードの宮廷に仕えたと伝えられるが、実在の人物かどうか疑わしい。少なくとも、ジャービルの著作とされる大量の錬金術文書が、イスラム教シーア派の一派イスマーイール派の宗教結社によって10世紀に編纂(へんさん)されたものであることは明らかである。この文書の錬金術理論はアリストテレスの四元素説を基礎とし、金属の「硫黄(いおう)・水銀」説、惑星の影響による地下の金属の生成、不完全な金属を治療する錬金薬「エリキサ」、諸「性質」の数秘術的平衡などの概念に言及している。
このような理論によって金属変成を可能とする一方、ジャービル文書は実地の化学知識にも詳しく、鉱物の分類、蒸留や昇華による硝酸・酢酸・アルカリ・ろ砂(塩化アンモニウム)などの製法を明快に述べ、金属の精錬、染色、ワニスによる防水防食、ガラス製造などの技術についても記述している。
中世ヨーロッパの代表的な錬金術書『金属貴化秘術全書』Summa perfectionis magisteriiなどの著者とされるゲーベル(ジェーバー)Geberはジャービルの名をかたっているが、これらのラテン語の書物はアラビアの文書の翻訳ではなく、おそらく14世紀初めのスペイン人の手になるものである。ここでは金属変成が真実である根拠が論証され、化学装置や鉱酸の製法、灰吹(はいふき)法による試金などが明確に述べられている。ゲーベル文書には神秘主義や象徴主義の影は薄いが、むしろそれゆえに、以後の錬金術書のよりどころとなったといえよう。
[内田正夫]