ヘンリー2世(その他表記)Henry Ⅱ

改訂新版 世界大百科事典 「ヘンリー2世」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー[2世]
Henry Ⅱ
生没年:1133-89

プランタジネット朝初代のイングランド王。在位1154-89年。父はフランスの有力貴族アンジュー伯ジェフリー,母マティルダはイングランド王でかつノルマンディー公ヘンリー1世の娘で,はじめドイツ皇帝ハインリヒ5世と結婚したが死別した。ヘンリー2世は父方母方から広大な所領を相続し,さらにフランス王ルイ7世の妃であったエレアノールと結婚して彼女の相続するアキテーヌ侯領を合わせ,西のピレネーから南フランスに及ぶ〈アンジュー帝国〉をつくりあげた。ただしイングランドのみが彼の家産で,〈帝国〉の中心部をなす大陸の所領はすべてフランス王の封建家臣として領有した。イングランド王に即位した頃,王国は前王スティーブン時代の王位継承戦のために混乱していたが,彼は祖父ヘンリー1世の集権的統治を範とし,行政・司法・兵制の全般にわたって再建した。内乱時代不法に築いた城塞を解体させ,多くの州長官を更迭する一方,一定の財産を持つ全自由人・市民に武器の携帯を義務づけ,伝統的な州裁判集会へ巡回裁判官を派遣して地方の行政を監視させ,また重罪犯に対する起訴陪審制を定め,そして特に土地などの占有権侵奪回復訴訟を令状によって国王裁判所に集中した。近代イギリスに受け継がれる独自の諸制度の多くは,彼の治世に整えられた。しかし彼は長期間イングランドに滞在することはなく,つねに大陸を巡回して〈帝国〉の防衛に努めた。その財源の多くはイングランドに求められたので,行政・司法の整備と財政とは密接な関係にあった。他方,彼は〈教会の自由〉を堅持するカンタベリー大司教トマス・ベケットと争って教会の主君たる地位を主張したが,ベケット殺害(1170)の事件で厳しい非難を受け,教皇への上訴の自由など教会への譲歩を余儀なくされた。晩年は息子たちと彼らの母の謀反に苦しみ,彼らを支援するフランス王と対立するなかで死亡した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヘンリー2世」の意味・わかりやすい解説

ヘンリー2世
ヘンリーにせい
Henry II

[生]1133. ルマン
[没]1189.7.6. ツール近郊
イギリス,プランタジネット朝初代のイングランド王(在位 1154~89)。別名 Henry of Anjou,Henry Plantagenet,Henry FitzEmpress,Henry Curtmantle。父はアンジュー伯ジョフロア・プランタジュネ,母はイングランド王ヘンリー1世の娘マティルダ。1150年父からノルマンディー公領を受け,1151年父の死に伴いアンジュー伯を継承。1152年アキテーヌ公女エリナーと結婚,ポアトゥ,ギュイエンヌ,ガスコーニュを得,のちにフランス王ルイ7世と戦って領有したブルターニュを合わせて,フランスの西半分を手中に収めた。1153年スティーブン王の死により翌 1154年 21歳で即位,イングランド王となった。財政の整備,巡回裁判所の拡充,陪審制度および傭兵,民兵による国王直属軍の創設など,国内秩序の確立と王権の強化に努め,1171年アイルランド,1172年ウェールズ,1173年スコットランドを征討。対教会策では 1164年にクラレンドン法を制定し教会裁判権の制限を企図してトマス・ベケットと対立,トマス・ベケットを殺害させたことで非難を招いた。12世紀後半の西ヨーロッパの君主として最も有力,英明な人物の一人と評価されるが,晩年はフランス王ルイ7世との戦争や,領土相続権をめぐる王子たちの反乱に直面し,失意のうちに死んだ。

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367日誕生日大事典 「ヘンリー2世」の解説

ヘンリー2世

生年月日:1133年3月5日
イングランド王(在位1154〜89)
1189年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のヘンリー2世の言及

【アイルランド】より

…アイルランド人はバイキングに抗しきれずにいたが,ようやく1014年に,マンスター王ブライアン・ボルーBrian Boruの指揮の下でバイキングをクロンターフの戦で打ち破り,以後,都市に住むバイキングはしだいにアイルランド化していった。
[ノルマンの侵略とイギリスによる征服]
 各地方の諸王の間ではボルーの死後,抗争が絶えず,12世紀には,レンスター王ダーマット・マクマローがイギリス王ヘンリー2世に失地回復のための援助を乞うた。求めに応じて海を渡ったアングロ・ノルマン貴族ストロングボーは現地にとどまってレンスター王を継ぎ,他のアングロ・ノルマン貴族もアイルランドに進出した。…

【イギリス】より

…以後宗教改革期まで,国民国家の台頭による王権と教皇権の対立にもかかわらず,イギリスの教会はカトリック教会の枝として存続した。 1534年ヘンリー8世は離婚問題を契機とする宗教改革で,イギリスの教会をローマより分離し,長年イギリスの社会・宗教生活に大きな役割を果たしてきた修道院を解散した。ヘンリーの死後二転三転した宗教事情は,エリザベス1世登位(1558)後〈教義的にはプロテスタント,礼拝様式ではカトリック〉といわれた英国国教会として定着した。…

【コモン・ロー】より

… 12世紀後半のイギリスでは,アングロ・サクソン時代からの地域共同体の裁判所およびそのつかさどる法や,封建制の発展に伴う農民に対する荘園裁判所あるいは封主封臣関係に基づく封建裁判所およびそのつかさどる法が,一般的な裁判所および法であり,国王の裁判所および王国に共通する法はむしろ例外であった。しかし12世紀後半のヘンリー2世時代に国王裁判所においては,増大した国王権力を背景にして,当時一般的な審理方式であった神判に代わる合理的な陪審による審理等,新訴訟手続や裁判制度の改革が行われた。そのために国王裁判権は,封建裁判権および地域共同体の裁判権を犠牲にして,飛躍的に増大し,その結果,国王裁判所の判決例を基礎に,各種の封建裁判所や地域共同体の裁判所がつかさどる法とは異なり全王国に共通の法が漸次作られてきた。…

【ノルマン朝】より

…次のウィリアム2世(在位1087‐1100)は,長兄のノルマンディー公ロベールと紛争を引き起こし,カンタベリー大司教アンセルムスと対立するなど失政が多かったため,貴族の不満が高まり,狩猟中無名の者の矢に当たって横死した。ついで即位した弟のヘンリー1世(在位1100‐35)は,即位にあたって戴冠憲章を発布して貴族の不満を和らげ,ロベールを破ってノルマンディー公領を併せ,種々の改革を行って国内はよく治まった。しかし彼の息子ウィリアムが1120年不慮の海難で水死したため,ヘンリー1世の死後王位をめぐる闘争が生じた。…

【プランタジネット朝】より

…ヘンリー2世からリチャード2世に至る8代245年に及ぶイングランドの王朝。1154‐1399年。…

※「ヘンリー2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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