アメリカの写真家。ニュージャージー州生れ。19世紀の絵画の模倣(ピクトリアリズム)が中心であった写真を脱し,写真独自の道を切り開いて,〈近代写真〉の基礎を築いた人物として知られる。彼はベルリンの工科大学留学中に写真に興味を持ちはじめ,帰国したのちアマチュア写真家の機関誌の編集などに携わっていたが,1902年,写真芸術の確立を目ざして〈フォト・セセッション(写真分離派)〉運動をおこした。これは,どんなに絵画的な写真であろうともそれを,絵画との関係の中でとらえるのではなく,L.ダゲールやW.タルボット,D.O.ヒルなどに始まる写真独自の様式と表現法の中でとらえようとしたのであった。03年には《カメラワーク》という機関誌が出され,05年には〈291〉というギャラリーも生まれた。この〈フォト・セセッション〉運動は,単に写真独自の新しい可能性を見いだそうとしたばかりではなく,そこでは広く近代芸術が抱える諸問題がとりあげられ,その意味でその理論と実践はアメリカ近代芸術の確立に何らかの貢献をなすものでもあった。E.スタイケンやC.ホワイトもこの運動に加わっていたし,画家のG.オキーフもこの運動の中で育てられた。なお,スティーグリッツは,24年にオキーフと結婚している。このようにして写真を一つの独立した芸術として確立しようとしたスティーグリッツは実作においても,《三等船室》(1907)や雲を撮った《エクイバレント(等価物)》(1923)というシリーズなどで,それまでの写真がもちえなかった対象と表現をもたらした。彼が唱えた〈ストレート・フォトグラフィー〉〈スナップショット(スナップ写真)〉という主張にしても,絵画的写真を否定することよりも,それをもつつみながら写真というもののより大きなパースペクティブを主張したものであったと考えることができる。
執筆者:金子 隆一
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アメリカ近代写真の父といわれる写真家。ニュー・ジャージー州出身。青年期に父母の母国ドイツへ留学、ベルリン大学で工学と写真技術を専攻し、その時期にアマチュアとして活動を始めた。当初はヨーロッパの絵画主義的写真に導かれた作品を撮っていたが、のちしだいに写真の特性を生かした独自な写真芸術観を確立してゆく。1890年アメリカに帰り、ニューヨークで写真家活動、編集、出版ならびにギャラリー運営に携わる。とくに同人雑誌『アメリカン・アマチュア・フォトグラファー』の編集(1893~1896)、『カメラ・ノート』(1897~1902)、『カメラ・ワーク』(1903~1917)の編集出版を通じてアメリカ写真界を指導、多大の影響を及ぼした。また1902年には写真芸術の自立を標榜(ひょうぼう)してグループ「フォト・セセッション」を創立し、1905年には同名のギャラリー(のちに「291」と改称)を、1925年には「アメリカン・プレイス」ギャラリーを開設し、ヨーロッパとの芸術交流、写真界・美術界の活性化に努めた。
[平木 収]
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…世紀初頭には二つの革新運動がニューヨークに現れた。一つは1905年,写真家A.スティーグリッツによる〈291〉ギャラリー(ニューヨーク)の開設とそこを中心とした前衛美術の展開(マリンJohn Marin(1870‐1953),デミュスCharles Demuth(1883‐1935),G.オキーフ,ウェーバーMax Weber(1881‐1961)ら)であり,もう一つは08年以降のR.ヘンライを中心とする〈ジ・エイトThe Eight(8人組)〉グループの活動(スローンJohn Sloan(1871‐1951),ラクスGeorge Benjamin Luks(1867‐1933),デービスArthur Bowen Davies(1862‐1928)ら)である。前者は同時代パリのモダニズムを伝える窓口として,またアメリカの近代美術を育成する拠点として機能した。…
… 19世紀末以降,ボラールはセザンヌ,ゴッホ,マティス,マイヨールらの個展を続々と開き,豪華本の石版画集を刊行し,忘れられた過去の画家たちを発掘して,20世紀画商の典型となった。その後もピカソとキュビスムの作家を扱ったカーンワイラー,ベルリンに表現主義の拠点としての画廊と出版社〈嵐Sturm〉をつくり同名の雑誌を刊行したワルデンH.Walden,アメリカ現代美術の出発点となった写真家スティーグリッツの〈291〉画廊(ニューヨーク),第2次大戦中ニューヨークに〈今世紀画廊〉を設けて戦後の抽象表現主義を準備したペギー・グッゲンハイムPeggy Guggenheim(1898‐1979),解放前後のパリでボルス,フォートリエ,デュビュッフェの個展を開いたドルーアンRené Drouin(1905‐ )など,20世紀前半の芸術運動に果たした画商の役割は大きい。 第2次大戦後は美術家と購買層の大衆化に応じて,画商もニューヨークやパリでは300店を超えるようになり,マールバラMarlborough,マーグMaeght,ウィルデンスタインWildenstein,ドニーズ・ルネDenise Renéなど,数ヵ国,数都市に支店をもつ国際的画商も現れる。…
… 19世紀末から20世紀初頭にかけての絵画的な芸術写真(ピクトリアリズム)全盛の時代において,〈芸術的な主題〉を明確に表明することのないスナップショットによる写真は,当時の〈芸術的表現〉を目ざす写真家にはほとんどかえりみられることがなかった。それを意識的,積極的にみずからの写真表現の方法として用いたのはアメリカ近代写真の父といわれるA.スティーグリッツが最初である。彼はしばしば自分の作品に〈スナップショット〉というタイトルをつけているが,当時の一流の写真家であり,指導的な立場にもあったスティーグリッツによるこのような挑戦的な態度の表明は,写真表現の無限な可能性を宣言するものであった。…
…ヘンライのほか,とくにジョン・スローン,ジョージ・ラクスなどが重要である。 しかしアメリカの美術を真に現代的にするのに最も功績があったのは,1905年,五番街291番地に〈291〉画廊を創設,マティスをはじめヨーロッパのモダニズム画家たちを次々にアメリカに紹介,またジョン・マリン,G.オキーフなど,数々のアメリカの現代画家を育てたA.スティーグリッツであろう。彼は《カメラ・ワーク》という美術文芸雑誌も出して,まだ認められていない前衛画家や詩人たちに発表場所を提供した。…
…1902年,A.スティーグリッツによって設立された写真集団。単に〈セセッション〉ともいう。…
※「スティーグリッツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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