セルギー(読み)せるぎー(その他表記)Тихомиров Сергий/Tihomirov Sergiy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「セルギー」の意味・わかりやすい解説

セルギー
せるぎー
Тихомиров Сергий/Tihomirov Sergiy
(1871―1945)

ロシア正教主教ノブゴロド神父の子として生まれる。ペテルブルグ神学大学に学び、ニコライ大主教補佐として1907年(明治40)来日。ニコライの永眠(1912)後、日本ハリストス正教会の第2代首座主教となる。1923年(大正12)の関東大震災で大破したニコライ堂を、ロシア革命後、伝道会社からの送金が絶えていたなかで、苦労して復興した。昭和に入り、軍国主義台頭や、教会内部の問題など苦難のなかで、1940年(昭和15)に隠退し、太平洋戦争終戦の年に没した。名説教家であり、神学者としても知られた。著書に『十二位一体の聖使徒』(1935・パリ・YMCA)がある。

[田口貞夫 2018年2月16日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セルギー」の意味・わかりやすい解説

セルギー
Sergii

[生]1867.1.23. ゴーリキー近郊アルザマス
[没]1944.5.15. モスクワ
ロシア正教会の総主教。俗名イワン・ニコラエビッチ・ストラゴロツキー。セルギーは修道名。ヤムブルク主教,フィンランドのブィボルク大主教などを経て,1917年ニジェゴロドの府主教となった。チホン総主教の死 (1925) 後,その職務を代行,投獄された。 27年信徒あて書簡で反ソ活動の抑制,ソビエト政権の容認を訴え,政府と交渉,忠誠の代償として正教会の公認を求めた。 41年ナチス・ドイツ軍が侵入すると,信徒に祖国防衛,対独抵抗を呼びかけた。 43年スターリンは総主教制の復活を認め,セルギーが選出されたが,翌年没した。晩年分派の克服,他の正教諸教会がイギリスの聖公会と交流することに尽力した。

セルギー
Sergie, Tihomieroff

[生]1871
[没]1945. 東京
日本ハリストス正教会大主教。ロシア人。ペテルブルグ神学大学に学び,1905年主教に叙聖。 07年大主教ニコライの補佐として来日,12年大主教の没後その跡を継ぎ,ロシア革命,関東大震災などにより低下した教勢の維持拡大に努めた。その功により 31年府主教に叙聖されたが,40年非常体制により引退。主著『十二位一体の使徒』 (1935) 。

セルギー
Sergii, Radonezhskii

[生]1315頃.ロストフ
[没]1399.9.25.
ロシアの修道僧,聖人。 1345年頃兄とともにモスクワ公国内のラドネジにトロイツキー修道院を創建,修道院の共同生活の組織化に努め,モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイらの支配層とも結んで,政教両面に大きな影響力をもった。祝日は7月5日および9月 25日。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「セルギー」の解説

セルギー Sergy, Tihomiyerov

1871-1945 ロシアの宣教師。
1871年6月15日生まれ。明治41年(1908)来日,ニコライ大主教を補佐。45年ニコライ没後,大主教をへて,昭和5年日本ハリストス正教会府主教となる。この間,ロシア革命,関東大震災のため打撃をうけた教会の復興に尽力した。昭和20年8月10日死去。74歳。ノブゴロド出身。ペテルブルグ神学大卒。

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