日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャアダーエフ」の意味・わかりやすい解説
チャアダーエフ
ちゃあだーえふ
Пётр Яковлевич Чаадаев/Pyotr Yakovlevich Chaadaev
(1794―1856)
ロシアの思想家。『哲学書簡』の作者。有名な歴史家シチェルバートフMikhail Mikhailovich Shcherbatov(1733―1790)公の孫としてモスクワに生まれる。幼くして両親と死別し、母方の伯母に育てられた。1808~1811年モスクワ大学に学び、卒業するやただちに祖国戦争(ナポレオン戦争)に参加し、1816年帰還後、デカブリストの「福祉同盟」と「北方結社」に加入したが、積極的活動はしなかった。1821年春、突如軍籍を退き、哲学の勉強に没頭した。1823年7月から1826年6月まで西ヨーロッパ各地を歴遊し、カールスバート(チェコのカルロビ・バリ)では尊敬する哲学者シェリングを訪問した。デカブリストの蜂起(ほうき)のあとに帰国したため、厳しい取調べを受けただけに終わったが、少なからぬ友人が蜂起に参加したため処刑されたり、シベリア苦役となった。
1829年から1831年にかけて、8編からなる『哲学書簡』をフランス語で書き上げたが、この第1編がロシア語訳されて、1836年雑誌『テレスコープ』の第15号に掲載された。チャアダーエフはこの論文で、ロシアの全歴史と未来を痛烈に否定したところから、この論文の評価をめぐってロシアの言論界は二分し、やがてスラブ派と西欧派が生まれることになる。一方この論文を読んだ皇帝ニコライ1世は、チャアダーエフに対し公式に「狂人」の宣告を下した。これ以後、彼はいっさいの執筆を禁止されたが、1836年冬から翌1837年春にかけて、ひそかに『狂人の弁明』なる論文を書き、そのなかで、ロシアがヨーロッパよりも遅れて歴史に登場したのは、ヨーロッパの過ちを繰り返さずにすむ恵まれた条件であると主張した。また「一八四八年の革命」のときには秘密裏に人民に蜂起を呼びかけるアピールを書いたり、クリミア戦争のときには偏狭な愛国心を批判したりした。
[外川継男]