モンゴルの政治家。北東部ツェツェンハン・アイマクに生まれる。遊牧民の家に育ち、13歳で寺に入れられてラマとなるが、17歳のとき脱走、ウランバートルに行き、ロシア語を学ぶ。1914年シベリアのイルクーツクの中学に入ったが、1917年のロシア十月革命で大きな影響を受け、1918年帰国、秘密の革命組織をつくり、1921年スフバートルと合流して人民革命党を結成。1924年革命軍総司令官となり、同年モンゴル人民共和国樹立。1936年内相となり、政敵を粛清。1938~1952年首相を務め、陸相、内相も兼任。1940年いわゆるチョイバルサン憲法を制定、社会主義建設に向かう。1939年のノモンハン事件と第二次世界大戦末期には日本軍と戦う。1952年モスクワで病死するまで党書記長、軍司令官の地位にあり「モンゴルのスターリン」とよばれた。死後の1962年個人崇拝を批判される。
[高市恵之助]
モンゴルの革命家,軍人,政治家。貧しい牧民の子に生まれる。ラマ僧院に入れられるが,1912年ウルガ(現在のウランバートル)に出て,やがてロシア語を修得。1914-17年,イルクーツクに学ぶ。このとき体験したロシア革命に強い影響をうける。19年中国によりモンゴル自治が撤廃されると,民族解放運動に参加。20年モンゴル人民党結成に加わり,モンゴル革命(1921)を指導した。革命後は,軍・党(人民革命党)・政府の要職を歴任し,一貫して親ソビエトの社会主義化路線を推進した。やがて指導権を確立し,39年首相に就任(以後,没年まで),ハルハ川戦争(ノモンハン事件,1939),対日参戦(1945)をソ連の援助のもとで指揮した。〈モンゴルのスターリン〉とも呼ばれ,その個人崇拝,独裁的傾向は,彼の死後批判された。しかし社会主義モンゴルの基礎を築いた功績は,今日でも評価されている。著作は多いが,《報告・論稿集》全4巻(1951-53)も刊行されている。
執筆者:中見 立夫
モンゴル東部の工業都市。ドルノド(東)・アイマク(行政単位,日本の県に相当)の中心。人口8万(1996)。革命前はサン・ベイセと呼ばれたが,革命後バヤン・トメンと変わり,さらに1941年この地方出身の革命家チョイバルサンにちなみ改称した。ケルレン川にのぞみ,付近で石炭,蛍石が採掘されるので工業都市として発展。食品コンビナート,建設原材料,羊毛などの工場がある。また中国国境に近いので,軍事的にも重要な拠点である。
執筆者:中見 立夫
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1895~1952
モンゴル人民共和国の政治家,軍人。牧民の子として生まれ,ラマ(高僧)となった。ロシア留学後独立運動に参加,1921年の人民党創設に加わり人民革命の指導者の一人となった。23年に全軍司令官。36年のゲンデン首相解任後粛清を指導,39年から首相,元帥,外相。39年にはノモンハン事件(ハルハ河戦争)で日本軍を撃退した。52年,モスクワで病死。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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