チョイバルサン(読み)ちょいばるさん(英語表記)Khorlogiin Choibalsan

デジタル大辞泉 「チョイバルサン」の意味・読み・例文・類語

チョイバルサン(Choibalsan/Чойбалсан)

モンゴル東部の都市。ドルノド県の県都。中国との国境に近く、ケルレン川沿いに位置する。モンゴル人民革命以前はサンベイス、1941年までバヤントゥメンと呼ばれ、以降、第4代大統領ホルローギーン=チョイバルサンにちなんで現名称になった。ノモンハン事件ハルハ河戦争)の激戦地に近く、戦勝の記念碑やソ連軍指揮官ゲオルギー=ジューコフ元帥ゆかりの家(現在は博物館)などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チョイバルサン」の意味・わかりやすい解説

チョイバルサン(Khorlogiin Choibalsan)
ちょいばるさん
Khorlogiin Choibalsan
(1895―1952)

モンゴルの政治家。北東部ツェツェンハン・アイマクに生まれる。遊牧民の家に育ち、13歳で寺に入れられてラマとなるが、17歳のとき脱走、ウランバートルに行き、ロシア語を学ぶ。1914年シベリアイルクーツクの中学に入ったが、1917年のロシア十月革命で大きな影響を受け、1918年帰国、秘密の革命組織をつくり、1921年スフバートルと合流して人民革命党を結成。1924年革命軍総司令官となり、同年モンゴル人民共和国樹立。1936年内相となり、政敵を粛清。1938~1952年首相を務め、陸相、内相も兼任。1940年いわゆるチョイバルサン憲法を制定、社会主義建設に向かう。1939年のノモンハン事件と第二次世界大戦末期には日本軍と戦う。1952年モスクワで病死するまで党書記長、軍司令官の地位にあり「モンゴルのスターリン」とよばれた。死後の1962年個人崇拝を批判される。

[高市恵之助]


チョイバルサン(モンゴル)
ちょいばるさん
Choibalsan

モンゴル東部、ドルノド県の県都。ケルレン川北岸に位置し、中国国境に近い。人口4万1714(2000)。1921年の革命までサン・ベイスSan Beise、41年までバヤン・トゥメンBayan Tumenと称したが、現在は同地方出身の政治家チョイバルサンの名がつけられている。1940年以来、エレンツァブを経由してシベリア鉄道に通じる鉄道の起点である。同国東部の軍事、交通、経済、文化の中心地であり、建築材料、自動車修理、製粉、食肉コンビナート、洗毛工場などがある。

[吉田順一]

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改訂新版 世界大百科事典 「チョイバルサン」の意味・わかりやすい解説

チョイバルサン
Khorlogijn Chojbalsan
生没年:1895-1952

モンゴルの革命家,軍人,政治家。貧しい牧民の子に生まれる。ラマ僧院に入れられるが,1912年ウルガ(現在のウランバートル)に出て,やがてロシア語を修得。1914-17年,イルクーツクに学ぶ。このとき体験したロシア革命に強い影響をうける。19年中国によりモンゴル自治が撤廃されると,民族解放運動に参加。20年モンゴル人民党結成に加わり,モンゴル革命(1921)を指導した。革命後は,軍・党(人民革命党)・政府の要職を歴任し,一貫して親ソビエトの社会主義化路線を推進した。やがて指導権を確立し,39年首相に就任(以後,没年まで),ハルハ川戦争(ノモンハン事件,1939),対日参戦(1945)をソ連の援助のもとで指揮した。〈モンゴルのスターリン〉とも呼ばれ,その個人崇拝,独裁的傾向は,彼の死後批判された。しかし社会主義モンゴルの基礎を築いた功績は,今日でも評価されている。著作は多いが,《報告・論稿集》全4巻(1951-53)も刊行されている。
執筆者:


チョイバルサン
Chojbalsan

モンゴル東部の工業都市。ドルノド(東)・アイマク(行政単位,日本の県に相当)の中心。人口8万(1996)。革命前はサン・ベイセと呼ばれたが,革命後バヤン・トメンと変わり,さらに1941年この地方出身の革命家チョイバルサンにちなみ改称した。ケルレン川にのぞみ,付近で石炭,蛍石が採掘されるので工業都市として発展。食品コンビナート,建設原材料,羊毛などの工場がある。また中国国境に近いので,軍事的にも重要な拠点である。
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百科事典マイペディア 「チョイバルサン」の意味・わかりやすい解説

チョイバルサン

モンゴルの革命家,政治家。貧しい遊牧民の子に生まれる。幼時,ラマ僧院に入れられるが,1912年ウルガ(ウランバートル),さらにイルクーツクに出て勉学,そこでロシア革命に出会い,強く影響される。1919年民族解放運動に加わり,1920年モンゴル人民党の結成に参加,1921年のモンゴル革命で指導的役割を果たす。軍・人民革命党・政府の要職を占め,親ソ連の社会主義化を推進,地理的位置からも日本帝国主義の脅威からソ連を防衛する衛星国としてスターリンの積極的な後押しがあったといわれ,1939年には首相に就任して没年までその地位にあった。1939年のハルハ川戦争(ノモンハン事件),1945年の対日参戦を指揮,個人崇拝と独裁的傾向を強め〈モンゴルのスターリン〉と呼ばれたが,死後批判された。
→関連項目スヘバートルチョイバルサン

チョイバルサン

モンゴル東部の都市。旧名はサン・ベイセ。革命後の東部地方の政治・経済・文化の中心で,シベリアへ連絡する鉄道が通る。付近はサン・ベイセ馬の産地として有名。市名は首相であったチョイバルサンにちなむ。約4万人。
→関連項目モンゴル

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チョイバルサン」の意味・わかりやすい解説

チョイバルサン
Choybalsan

モンゴル東部,ドルノド州の州都。東部モンゴル高原にあり,ヘルレン川にのぞむ。東部モンゴルの政治,経済,文化の中心となっている。ウラーンバートルと航空路,自動車道で結ばれるほか,シベリア鉄道から支線が延びている。 1822年にチベット仏教寺院を中心に建設され,アチトベイシンフレー Ačit bejsijn xüreeと呼ばれたが,1931年バヤントゥメン Bajan tümenと改称,さらに 41年には革命 20周年を期に革命の英雄チョイバルサンにちなんで現在名となった。人口3万 8600 (1991) 。

チョイバルサン
Chojbalsan, Khorlogijn

[生]1895.2.8.
[没]1952.1.26. モスクワ
モンゴルの政治家。 1920年スヘバートルとともにモンゴル人民革命党の結成に参加。外モンゴルに侵入したシベリア白衛軍の部隊に対する武装闘争を開始。 24年革命軍総司令官,35年第一副首相を経て,38年首相兼陸相,内相,軍司令官となり,「モンゴルのスターリン」として独裁的権力をふるった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チョイバルサン」の解説

チョイバルサン
Choibalsan

1895~1952

モンゴル人民共和国の政治家,軍人。牧民の子として生まれ,ラマ(高僧)となった。ロシア留学後独立運動に参加,1921年の人民党創設に加わり人民革命の指導者の一人となった。23年に全軍司令官。36年のゲンデン首相解任後粛清を指導,39年から首相,元帥,外相。39年にはノモンハン事件(ハルハ河戦争)で日本軍を撃退した。52年,モスクワで病死。

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旺文社世界史事典 三訂版 「チョイバルサン」の解説

チョイバルサン
Khorloogiin Choibalsan

1895〜1952
現代モンゴルの革命家,モンゴル人民共和国首相(在任1938〜52)
ロシア十一月革命の影響で民族解放運動を開始,1920年にスフ=バートルらとともにモンゴル人民革命党を結成した。1924年,モンゴル人民共和国の建国に活躍,38年から死去するまで首相をつとめた。

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