ノモンハン事件(読み)のもんはんじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ノモンハン事件」の意味・わかりやすい解説

ノモンハン事件
のもんはんじけん

1939年(昭和14)「満州国」とモンゴル(外蒙古(もうこ))の国境ノモンハン付近で起こった日ソ両軍の大規模な武力衝突。ノモンハン付近の国境について、日本側はハルハ河を、ソ連側は北方ノモンハン付近をそれぞれ国境と主張し、かねてより係争中であったが、関東軍は1939年(昭和14)4月隷下(れいか)部隊に示した「満ソ国境紛争処理要綱」において、紛争に際してはソ連軍を徹底的に膺懲(ようちょう)せよとの方針を決定した。たまたま5月12日に、ノモンハン付近でハルハ河を越えた外蒙軍と満州国軍が衝突する事件が起きた。ハイラルの第23師団長小松原道太郎中将は、関東軍の先の示達によりただちに部隊を出動させ外蒙軍を一時撃退したが、ソ連軍は外蒙軍に加わって反撃した。報告を受けた関東軍司令部はソ連軍撃破の強硬策を決定し、航空部隊による外蒙の後方基地爆撃に続いて、7月2日第23師団が攻撃を開始した。しかし日本軍はソ連軍の優勢な火力戦車の反撃を受けて苦戦に陥った。日中戦争の最中にあって、事件がさらに日ソ戦争に拡大することを恐れた大本営は不拡大方針を決め、政府も事件の平和的解決の方針を定めた。しかしこれを無視した関東軍は7月23日、攻勢を行い、これに失敗後もなお兵力増強を図り、第三次攻勢を準備した。一方、ソ連軍は国境線回復のため8月20日から狙撃(そげき)・戦車両師団の大兵力を集中した総攻撃を開始し、日本軍は第23師団壊滅の大敗を喫した。おりから9月1日ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)したため、大本営は攻撃の中止と兵力の後退を厳命し、モスクワにおける交渉妥結を急ぎ、9月15日モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)大使の間に停戦協定が調印された。軍中央は敗戦の責任により関東軍の植田謙吉(けんきち)司令官と磯谷廉介(いそがいれんすけ)参謀長を予備役に編入したが、参加部隊では責任をとって自決する部隊長が相次いだ。事件の敗北は、陸軍の対ソ開戦の企図に重大な打撃を与えた。

[鈴木隆史]

『防衛庁戦史室編『戦史叢書・関東軍(1)』(1969・朝雲新聞社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ノモンハン事件」の意味・わかりやすい解説

ノモンハン事件
ノモンハンじけん

1939年,モンゴルと満州 (中国東北部) との国境地区で起った日本軍とソ連軍の大規模な衝突事件。結果は,日本軍の惨敗に終った。ノモンハンは満州国の西北部にあり,外モンゴルとの国境が不明確な,国境紛争の発生しやすい地帯であった。5月 11日,ノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦したのが事件の発端になった。参謀本部と陸軍省は当初から事件不拡大の方針をとったが,現地の関東軍は中央の意向を無視して戦闘を続行,拡大し,外モンゴルとの相互援助条約に基づいて出兵したソ連軍と激戦を展開した。7月 17日の5相会議では不拡大方針と外交交渉開始が決定されたが,交渉の開始が遅れているうちに,8月下旬にはソ連機械化部隊の大攻勢が行われ,日本軍は大敗し,第 23師団は壊滅した。8月 23日,独ソ不可侵条約が締結され,9月3日にはヨーロッパで第2次世界大戦が勃発するなどの情勢下で,日本政府は東郷駐ソ大使に停戦交渉を行わせ,9月 15日の東郷大使とモロトフ外務人民委員との会談で停戦協定が成立,16日に共同声明が発表され,ノモンハン地方の国境線が画定されることになった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android