日本大百科全書(ニッポニカ) 「テラーニ」の意味・わかりやすい解説
テラーニ
てらーに
Giuseppe Terragni
(1904―1943)
イタリアの建築家。ミラノに生まれる。コモの工科大学で学んだ後、ミラノ工科大学で建築を学び1926年に卒業。同年、同じ大学を卒業した友人とともに合理主義を標榜するグループ「グルッポ7」を結成した。その宣言文は、彼らをイタリアにおける近代建築運動の先導者にした。
テラーニは、27年に、エンジニアである兄アッティリオAttilio Terragniとともにコモに事務所を設立し、死ぬまでの16年間、イタリア近代建築の中心地であったコモで、小規模だが注目すべき設計を行った。
実現した最初の計画である集合住宅ノボコムン(1928、コモ)は、イタリアにおける最初期のモダニズム建築であり、コモ市民の論議を巻き起こした。その円筒形を組み込んだ隅部の処理には、ロシア構成主義からの影響が指摘されている。
戦没者慰霊碑(1933、コモ)は、アントニオ・サンテリアが残した電力センターのスケッチをもとに、テラーニとエンリコ・プランポリーニEnrico Prampolini(1894―1956)との共同設計により実現された。
カサ・デル・ファッショ(1936、コモ)は、30年代イタリア近代建築の最高作であり、イタリア合理主義建築の規範となる作例といわれる。ここでは構成主義は放棄され、1辺が33.2メートルで中庭をもつ正方形平面と、その半分の16.6メートルという高さからなる単純なフォルムが与えられた。外観は極めてマッシブな鉄筋コンクリート石張りの装飾の全くない建築であるが、柱と梁(はり)の骨組みだけを残す何もない部分と白い石張り、またはガラスブロック壁とガラス窓が調和し、古典的な美的感覚を生み出した。
一転して、サンテリア幼稚園(1937、コモ)では、カサ・デル・ファッショの規則的に配置された構造とは対照的に、自由でリズミカルな平面が設定された。建物の輪郭はあいまいにされ、水平線を強調して、軽快感を生み出し、ダイナミックな表現と、政治的プロパガンダから解放された明快な表現をもつ。この後テラーニは、最後の作品コモのフリジェリオ邸(1939)まで、厳格なまでの幾何学的造形のなかで独自の機能主義を追求し、コモで没した。
二つの世界大戦間のイタリアでは、ファシズムによって革新的な建築が抑圧されることは表向きにはなかった。しかし、公用の政治的建物は、新古典主義(18世紀にバロックやロココの典雅な趣味に対する反動として興り、19世紀前半まで続いた建築の動向で、古典古代の再認識を基盤とする)や折衷主義に傾きがちで、建築界は沈滞傾向にあった。テラーニは、そのイタリア建築を、近代ヨーロッパ様式の主流に合流させた。
[秋元 馨]
『B・ゼーヴィ編、鵜沢隆訳『ジュゼッペ・テッラーニ』(1983・鹿島出版会)』▽『二川幸夫企画・撮影、トーマス・L・シュマッハー文「ジュゼッペ・テラーニ:カサ・デル・ファッショ1932-36 アントニオ・サンテリア幼稚園1936―37」(『GA グローバル・アーキテクチュア』74・1994・エーディエー・エディタ・トーキョー)』▽『鵜沢隆著『ジュゼッペ・テラーニ――時代を駆けぬけた建築』(1998・INAX出版)』