トゥラーティ(その他表記)Filippo Turati

改訂新版 世界大百科事典 「トゥラーティ」の意味・わかりやすい解説

トゥラーティ
Filippo Turati
生没年:1857-1932

イタリアの社会主義者。ロンバルディアの知事の家庭に成長し,法律を専攻。神経症に苦しみつつビッソラーティらとの文学活動の中で科学的実証主義の洗礼を受け,82年以降社会主義に接近。85年,A.コスタと別居中のアンナ・クリショフと出会い,生涯の同志伴侶となる。彼女の影響下にマルクス主義,ドイツ社会民主党に注目,イタリアに労働者政党の設立を志す。89年ミラノ社会主義者連盟創設。新しい社会主義文化創造を目ざす理論・啓蒙誌《社会批評》をクリショフと刊行(1891-1926)。92年イタリア社会党創立に参画した。96年国会議員。人間の自覚の成熟を伴う漸進的社会主義を主張し,労働者の生活条件改善のためにブルジョア諸政党,ジョリッティ政府と協力する政策をとり,党内革命派と論争した。第1次大戦では中立派。1922年党の分裂により統一社会党を創設。マッテオッティの暗殺後は反ファシズム運動の道義的シンボルであった。26年パリ亡命
反ファシズム
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トゥラーティ」の意味・わかりやすい解説

トゥラーティ
とぅらーてぃ
Filippo Turati
(1857―1932)

イタリアの社会主義者、イタリア社会党創立(1892)の主役。妻のアンナ・クリショフとともに創刊した社会主義的理論誌『クリティカ・ソチャーレ』を主宰し(1891~1926)、知識人と労働者の間の橋渡しに努めた。漸進的改良と大衆の階級意識の成熟とに基づく平和的革命を一貫して説き、第一次世界大戦前には党内で優勢であった改良派を指導してジョリッティなどの自由主義左派政権への閣外協力を行い、第二次世界大戦後の歴史的妥協路線に先鞭(せんべん)をつけた。党内の無政府主義や革命的サンジカリズムの諸流派の排除に成功したが、第一次世界大戦前夜から台頭し始めた革命的中間派(最大限綱領派(マツシマリスタ))には敗れた。大戦後、党の統一を守るために中間派のコミンテルン加盟を受け入れたが、1921年初頭に党は分裂した(リボルノ党大会)。翌1922年、改良派として離党し、統一社会党を結成した。合法的反ファシストとしてアベンティーノ反対派連合の象徴的指導者であったが、1926年、劇的亡命に成功。以後パリで反ファシスト亡命者のため、社会党の統一のために尽力し、客死した。

[重岡保郎]

『山崎功著『イタリア労働運動史』(1970・青木書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トゥラーティ」の意味・わかりやすい解説

トゥラーティ
Turati, Filippo

[生]1857.11.25. コモ,カンゾ
[没]1932.3.29. パリ
イタリアの社会主義者。社会党の前身たるイタリア勤労者党結成 (1892) のイニシアティブをとって以来,社会主義運動の指導的地位にあった。社会党内では改良派に属し,1922年に分裂して統一社会党を結成。ファシズム政権に追われて 26年亡命,国外で反ファシズム活動を続けたがパリで客死。

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百科事典マイペディア 「トゥラーティ」の意味・わかりやすい解説

トゥラーティ

イタリア社会主義運動の指導者。19世紀末―20世紀前半にかけて影響力は大きく,〈イタリアのジョレス〉とも呼ばれた。1926年ファシズムに反対してパリに亡命。

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