マッテオッティ(読み)まっておってぃ(その他表記)Giacomo Matteotti

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マッテオッティ」の意味・わかりやすい解説

マッテオッティ
まっておってぃ
Giacomo Matteotti
(1885―1924)

イタリアの反ファシスト、改良主義社会主義者。ポレージネ(ベネト地方)の富裕な家庭の出身。ボローニャ大学で法律を専攻した。郷里農民問題を手始めに第一次世界大戦前のポー川流域の社会主義運動に参加し、大戦中は反戦行動のために投獄された。1919年以降社会党代議士。社会党から分離した統一社会党書記になる(1924)。1923年末に『ファシズム支配の一年』と題する実態調査書を出版し、1924年5月30日、国会において、前月の下院選挙でファシストが犯した不正行為あるいは暴行・恐喝の事実を詳細に暴露する演説を行った。翌6月10日登院の途中、数名の暴漢に襲われて拉致(らち)され、行方不明となり、2か月後彼の死体がローマ郊外で発見された。すでに高まっていたファシズム糾弾の世論は沸騰し、政府とファシズムを崩壊の危機に追い詰める、いわゆる「マッテオッティの危機」を招いた。第二次世界大戦後に行われた事件の再審裁判で、アメリゴ・ドゥミーニを主犯とするファシストの犯行が確認された。

[重岡保郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「マッテオッティ」の意味・わかりやすい解説

マッテオッティ
Giacomo Matteotti
生没年:1885-1924

イタリアの社会主義者。ボローニャ大学を卒業し,ポー平原地帯の社会主義運動家として活躍,1919年国会議員となる。22年社会党の分裂で右派系の統一社会党に移り,書記長となる。24年5月30日議会の演説で,4月に実施された総選挙の際のファシストの暴力脅迫を指摘,ムッソリーニ政府の責任を厳しく糾弾した。6月10日自宅を出たあと行方不明となり,8月15日に遺体となって発見された。行方不明直後からファシストに誘拐されたうわさが流れて,議会内外に激しいファシズム批判が起こり,政府はいわゆるマッテオッティ危機と呼ばれる状況の中で窮地に立った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マッテオッティ」の意味・わかりやすい解説

マッテオッティ
Matteotti, Giacomo

[生]1885.5.22. フラッタポレージネ
[没]1924.6.10. ローマ
イタリアの社会主義者。農民運動の活発な地域に生まれ,ボローニャ大学で法律を専攻,イタリア社会党に入党して農民の組織化に尽力。 1919年下院議員に選ばれ,1922年 10月社会党が分裂したとき改良派のイタリア統一社会党に移って書記長に就任。 1924年4月ベニト・ムッソリーニによるファシズム政権発足後最初の総選挙があり,同年5月 30日の議会でファシスト党の暴力選挙の実態を公然と批判した。6月 10日行方不明となったが,ファシストにより誘拐,暗殺されたことが判明,遺体は8月になってローマ近郊で発見された。反ファッショ諸党派はこれに抗議してアベンティーノ分離派を結成,ムッソリーニ政権を一時危機に追い込んだが,ファシスト側も反撃に転じて一党独裁の強化に向かった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マッテオッティ」の解説

マッテオッティ
Giacomo Matteotti

1885~1924

イタリア社会党の議員。1924年5月の議会演説でファシストによる暴力的な選挙活動を糾弾し,その直後に誘拐され殺害された。ファシストに反対する諸政党はこの事件を契機として議会を放棄し,アヴェンティーノ連合を結成して政府に対抗。ムッソリーニ政権は一時的に危機に陥った。

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