ドイツ社会主義労働者党
どいつしゃかいしゅぎろうどうしゃとう
Sozialistische Arbeiterpartei Deutschlands
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ドイツ社会主義労働者党(ドイツしゃかいしゅぎろうどうしゃとう)
Sozialistische Arbeiterpartei Deutschland
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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ドイツ社会主義労働者党
ドイツしゃかいしゅぎろうどうしゃとう
Sozialistische Arbeiterpartei Deutschlands
ドイツ社会民主党の前身
1863年,ラサール派が全ドイツ労働者同盟を,69年ベーベルや W.リープクネヒトらはドイツ社会民主労働者党を組織し,両者は初め激しく対立したが,ドイツ帝国の成立後,統一の機運が高まり,75年ゴータに会して合同し,ドイツ社会主義労働者党と称した。合同の結果,党勢はめざましく発展し,これを恐れたビスマルクは,1878年社会主義者鎮圧法を制定して弾圧したが,90年には廃棄され,同党は名称をドイツ社会民主党と改めた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のドイツ社会主義労働者党の言及
【社会主義者鎮圧法】より
…1878‐90年にドイツで実施された社会主義弾圧のための法律。ドイツの社会主義運動は1875年にアイゼナハ派とラッサール派が合同してドイツ社会主義労働者党(後の[ドイツ社会民主党])が結成されて以来,勢力の伸張が目ざましかった。[ビスマルク]はこれを危険視し,弾圧の機会をうかがっていたが,78年5,6月あいついで起こった皇帝狙撃事件を利用し,帝国議会にいわゆる社会主義者鎮圧法を上程し,同年10月強引に成立させた。…
【デューリング】より
…1873年の《国民経済学ならびに社会経済学教程》および75年の《哲学教程》で脚光を浴び,ドイツの社会主義運動家たちの間でも共感を生んだ。75年のゴータ大会([ゴータ綱領])において,それまでのラサール派とマルクス派とが合同して成立したドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)の一部に対するデューリングの影響には絶大なものがあった。ラサールおよびマルクスを批判しつつ独自の体系を提示したデューリングに対して,[エンゲルス]は党の中央機関紙《フォアウェルツ(前進)》に反デューリング連載論文(77年1月から78年7月まで)を発表して応戦した(これを合本にしたのが《反デューリング論》と通称される《オイゲン・デューリング氏の科学の変革》(1878)である)。…
【ドイツ社会民主党】より
…新党(アイゼナハ派)と,ラサールの影響のいっそう強いADAV(ラサール派)とは競合を続けたが,普仏戦争の後半,プロイセンの征服政策にはともに反対の声をあげた。71年,ドイツ帝国が創立されてしまうと,ドイツ統一問題が両派の現実的争点ではなくなったうえ,等しく当局の抑圧を受けたために,徐々に両派の間に歩み寄りが見られ,75年5月,ゴータで合同大会が開かれてドイツ社会主義労働者党Sozialistische Arbeiterpartei Deutschlandsが発足するに至った。これは,ドイツに労働者を構成要素とした単一社会主義政党が誕生したことを意味する。…
※「ドイツ社会主義労働者党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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