ラ・サール(読み)らさーる(英語表記)Robert Cavelier de La Salle

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラ・サール」の意味・わかりやすい解説

ラ・サール(Jean-Baptiste de La Salle)
らさーる
Jean-Baptiste de La Salle
(1651―1719)

ランス司祭、教育者。「キリスト教学校修士会(ラ・サール会)」の創設者。ランスの富裕な司法官職の家に生まれる。16歳でランス聖堂参事会員、27歳で司祭となる。すでに貧困児童の教育に携わっていたラ・サールは、1679年アドリアン・ニエルAdrien Nyelと共同してランスに無料の初等学校を開き、これを母体として1681年に貧民子弟のキリスト教教育を主目的とする世界初の教師養成機関「キリスト教学校修士会」を創立、その後1684年の飢饉(ききん)を機に参事会の栄職を辞し、全財産をなげうって民衆教育に専念した。「近代教育の先駆者」とよばれたラ・サールは、ラテン語での教育を廃してフランス語で書かれた教科書を児童に学ばせ、また個人教授法をやめて学力別学級編成による同時教育法を採用するなど初等教育を改革し、中等教育や職業教育の充実にも努めた。学校教育による社会の改革を目ざしたその事業は、彼の死後も幾多の障害を克服して発展し、同会はフランス革命直前に128の修道院と学校、930人の会員、約3万6000人の生徒を数え、2011年時点では世界中に約1000の学校、6000人の修道士、100万人の生徒を擁している。同会は1932年(昭和7)に日本での活動を開始し、第二次世界大戦後では鹿児島と函館(はこだて)で中・高一貫教育の学園、仙台で養護施設を経営する一方、東京にラ・サール会の会員養成所を開くなどして教育活動にあたっている。

[石川光一]


ラ・サール(Robert Cavelier de La Salle)
らさーる
Robert Cavelier de La Salle
(1643―1687)

フランスの探検家。23歳でカナダへ渡航。モントリオール近郊で毛皮貿易に従う。原地のインディアンから情報を探り、1669年7月に23名のフランス人と9隻のカヌーに分乗し、セント・ローレンス川をさかのぼり、ナイアガラオハイオ川到達。1672年には五大湖一帯を探訪した。1681年にはさらに内陸深く歩を進め、イリノイ川からついにミシシッピ川に達した。そして翌1682年にミシシッピ川を下って、沿岸の地をルイ14世にちなんでルイジアナと命名し、故国フランスに捧(ささ)げた。その後いったん帰国した。さらに植民希望者を引率して、ふたたびミシシッピ河口へ赴いたが、移民計画に失敗し、植民者の手で暗殺された。

[金澤 誠]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラ・サール」の意味・わかりやすい解説

ラサール
Lassalle, Ferdinand

[生]1825.4.11. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1864.8.31. ジュネーブ
ドイツの社会主義者,労働運動指導者。富裕なユダヤ商人の子で,ブレスラウ,ベルリン両大学で法律と哲学を学び,ヘーゲル哲学の影響を受け社会主義思想も知るようになる。 1848年の革命にライン地方で参加,逮捕される。このころマルクスと知合う。その後哲学や法学の著作にはしるが,59年ごろから政治的活動を再開。憲法闘争 (1862~63) をはじめプロシアのさまざまな政治闘争に関与,社会主義運動を指導した。 62年「賃金鉄則」を唱える『労働者綱領』 Arbeiterprogrammを発表,63年には『公開答状』を書き,労働者の組織化を目指し「全ドイツ労働者協会」を組織して会長となる。これは現在のドイツ社会民主党の母体の1つとなった。彼は普通選挙の実現と国庫による生産協同組合の実現という,国家を通しての社会主義化を目指した (ちなみに「夜警国家」とは自由主義国家に向けて彼が使った異称) 。彼自身はマルクスを財政的に支援するなど好意的であったが,マルクスらはビスマルクと密談を持つといった彼の政治スタイル,国家観に反発していた。 64年女性問題にからむ決闘により死亡。

ラ・サール
La Salle, René Robert Cavelier, Sieur de

[生]1643.11.22. ロウエン
[没]1687.3.19. セントルイス近郊
フランスの探検家。イエズス会の教育を受けた。 1666年モントリオールに移住。 69~70年オンタリオ湖,エリー湖の南部を探検。カナダ総督フロンテナクに認められて,74年総督の代表としてフランスに派遣され,ミシシッピ川流域の交易の独占権を獲得。 79年ミシガン湖の西岸を南下し,セントジョーゼフ河口にいたり,ここにマイアミ城塞を築き,さらにイリノイ川に出,やがてミシシッピ川上流に達した。 82年4月ついに念願のミシシッピ河口に到達,ミシシッピ川流域全体をフランスのルイ 14世の治下におくことを宣言し,この地方を「ルイジアナ」と命名した。この広大な地域の資源を守るため,同年 12月イリノイ川岸にセントルイス城塞を築き,シカゴにも中継地をおき,ルイジアナの総督に任命された。 84年フランスからの帰途,部下の反乱にあい,そのうえ船は難破し,失意のあまり 87年1月再びカナダに帰ろうとしたが,途中部下の一人に暗殺された。

ラ・サール
La Salle, Jean-Baptiste de

[生]1651.4.30. ランス
[没]1719.4.7. ルーアン
フランスのカトリック聖職者,教育改革者。フランスのペスタロッチと呼ばれる。裕福な貴族の家に生れ,パリで学び,1672年帰郷して家督を継ぎ,78年司祭となった。当時まったく顧みられなかった貧児教育に献身し,84年教職者をキリスト教学校修士会に組織。没するまで 22の学校をフランス各地とローマに設立。またラテン語によらずフランス語を用いる寄宿学校は画期的改革であり,教師育成のための師範学校は初めての試みであった。 1900年列聖。主著『キリスト者の務め』 Les Devoirs d'un chrétien (3巻,1703) ,『キリスト教学校の経営』 La Conduite des écoles chrétiennes (20) 。

ラサール
La Salle

カナダ,ケベック州南部の都市。モントリオール南郊のモントリオール島の南端に位置し,セントローレンス川の早瀬ラシーヌラピッドに面する。 1668年入植。 1820年代に早瀬のバイパスとしてラシーヌ運河 (13km) が建設され,運河の西端の積替え地として発展した。第2次世界大戦後,モントリオールの郊外住宅地および工業地となった。 1969年には,広域行政区のモントリオール大都市圏に入った。アルコール飲料,食料品,化学,医薬品などの工業も立地する。人口7万 6299 (1981) 。

ラ・サール
La Sale, Antoine de

[生]1386頃.アルル近郊
[没]1460頃
フランスの物語作家。プロバンスの豪族の出身で,早くからアンジュー公らに仕え,ベルギー,イタリア,ポルトガルなどを訪れた。イタリアの地方伝説集,統治論,道徳論などがあるが,特に物語『小姓ジャン・ド・サントレ』 Le Petit Jehan de Saintré (1456頃執筆,1517刊) が有名。これは中世騎士道を皮肉り,シャルル7世時代末期の社会を鋭く描写したもので,近代風俗小説の先駆的作品ともいえる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android