ラサール(英語表記)Ferdinand Lassalle

デジタル大辞泉 「ラサール」の意味・読み・例文・類語

ラ‐サール(Jean-Baptiste de La Salle)

[1651~1719]フランスの司祭・教育者。1681年、世界最初の教員養成機関であるキリスト教学校修士会(ラサール会)を創立。近代学校教育の先駆者とされる。

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精選版 日本国語大辞典 「ラサール」の意味・読み・例文・類語

ラ‐サール

  1. ( Jean-Baptiste de La Salle ジャン=バチスト=ド━ ) フランスの教育者、司祭。カトリック主義に基づく教員養成学校などの設立や、中等教育に尽力した。(一六五一‐一七一九

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改訂新版 世界大百科事典 「ラサール」の意味・わかりやすい解説

ラサール
Ferdinand Lassalle
生没年:1825-64

ドイツの労働運動指導者,社会思想家。絹物商人の息子としてブレスラウ(現,ブロツワフ)に生まれ,同地およびベルリンの大学で哲学など学ぶ。学生時代から民主主義・社会主義思想になじみ,1848年にはライン地方で革命に参加,逮捕された。同じころマルクスと知り合い,その弟子をもって自任するようになった。他方,46年に出会った20歳年上のハッツフェルト伯爵夫人に同情,8年にわたるその離婚訴訟に肩入れし多大の労力を費やした。それによって夫人から年金を得,経済的独立を果たしたが,政治活動の領域でも夫人の影響が及ぶことにもなった。1850年代後半,著作活動に入り,やがて労働運動に目を向け,62年には,労働者の歴史的使命について,《労働者綱領》として知られることになる演説を行った。これに感銘を受けたのが,折しもブルジョア左派の進歩党の影響から独立を図っていたライプチヒの先覚的労働者たちだった。彼らの懇請に応じて,ラサールは《公開答状》(1863)を書き,それを基礎に63年5月,全ドイツ労働者協会Allgemeiner Deutscher Arbeitervereinが創立されると会長に収まった。《間接税と労働者階級》(1863)を著し,普通選挙法と国庫による生産協同組合を通じて労働者の理念に基づく国家を実現すべく精力的に遊説する一方でビスマルクと密談することも辞さなかった。1年3ヵ月後,女性問題がもとで決闘してたおれた。しかし,その影響はドイツ社会民主党のなかにのちのちまで及び,とくに国家観の異なるマルクスらをいらだたせた。その行動力はハイネをして感嘆させるとともに世代の差を感じさせた。
執筆者:


ラ・サール
Jean Baptiste de La Salle
生没年:1651-1719

フランスのカトリック司祭,教育者。ランスの司法官の家に生まれ,1678年僧籍に入る。当市に女子教育を目的とする〈聖なる子イエスの修道女会〉を設立したロランNicolas Rolandの遺志に従い,この教団の指導にあたり,教員の募集と養成に力を尽くした。81年に自宅で貧民の児童のための無月謝学校を開設し,84年にはこれを母体として〈キリスト教学校修士会〉なる教育修士会を設立し,全財産を投じてキリスト教主義教育を行った。翌85年には農村地域で教育にあたる良質の教員を養成するための学校を設立した。これは世界で最初の組織的な教員養成機関であるといわれている。88年パリに出てからの彼の教育事業は,初等教育にたずさわる教会付き唱歌教師や町の書き方教師の教育独占権を奪うものとしてさまざまな妨害をうけたが,98年には市内に20歳以下の職工のための日曜学校など4校1000人の児童を擁するまでになった。1705年には同会の教育方針を定めた〈キリスト教学校の指針〉を書いたが,これには苦行者的訓育主義と神秘主義の影響がみられる。また同年サン・ティオンに中産階級の子弟を対象として実科教育を施す全寮制中学校を開設した。無償教育,学力別学級編成と一斉授業職業教育の実施,母国語の教科書作成など近代初等教育の先駆的存在である。現在,同会は日本でも鹿児島,函館の中学校・高等学校を経営して教育活動を行っている。
執筆者:


ラ・サール
Robert Cavelier de La Salle
生没年:1643-87

フランスの探検家。ルーアン近郊に生まれ,初めイエズス会に属したが,1667年修道士を免ぜられたため北アメリカのフランス植民地に渡航,以後生涯の大部分を五大湖地域とミシシッピ川の探検に費やした。1669年に第1回の探検を行った彼は,78年以降,国王ルイ14世からの正式の命を受けて本格的な探検に入り,82年,五大湖からイリノイ川を経てミシシッピ川を下り,初めてその河口まで達した。彼は河口一帯をルイ14世にちなんでルイジアナと名づけ国王に献上したが,新しい植民地総督が彼に敵対したため,彼の探検は正当な評価を受けられなかった。その後,ルイジアナに対する新しい植民地計画がルイ14世に認められ,彼は遠征隊長となったが,艦隊指揮官との対立などによって遠征は失敗に終わった。植民地計画も成功をみず,失意のうちに引き上げる途中,トリニティ川近くで部下に暗殺された。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラサール」の意味・わかりやすい解説

ラ・サール(Jean-Baptiste de La Salle)
らさーる
Jean-Baptiste de La Salle
(1651―1719)

フランスの司祭、教育者。「キリスト教学校修士会(ラ・サール会)」の創設者。ランスの富裕な司法官職の家に生まれる。16歳でランス聖堂参事会員、27歳で司祭となる。すでに貧困児童の教育に携わっていたラ・サールは、1679年アドリアン・ニエルAdrien Nyelと共同してランスに無料の初等学校を開き、これを母体として1681年に貧民子弟のキリスト教教育を主目的とする世界初の教師養成機関「キリスト教学校修士会」を創立、その後1684年の飢饉(ききん)を機に参事会の栄職を辞し、全財産をなげうって民衆教育に専念した。「近代教育の先駆者」とよばれたラ・サールは、ラテン語での教育を廃してフランス語で書かれた教科書を児童に学ばせ、また個人教授法をやめて学力別学級編成による同時教育法を採用するなど初等教育を改革し、中等教育や職業教育の充実にも努めた。学校教育による社会の改革を目ざしたその事業は、彼の死後も幾多の障害を克服して発展し、同会はフランス革命直前に128の修道院と学校、930人の会員、約3万6000人の生徒を数え、2011年時点では世界中に約1000の学校、6000人の修道士、100万人の生徒を擁している。同会は1932年(昭和7)に日本での活動を開始し、第二次世界大戦後では鹿児島と函館(はこだて)で中・高一貫教育の学園、仙台で養護施設を経営する一方、東京にラ・サール会の会員養成所を開くなどして教育活動にあたっている。

[石川光一]


ラ・サール(Robert Cavelier de La Salle)
らさーる
Robert Cavelier de La Salle
(1643―1687)

フランスの探検家。23歳でカナダへ渡航。モントリオール近郊で毛皮貿易に従う。原地のインディアンから情報を探り、1669年7月に23名のフランス人と9隻のカヌーに分乗し、セント・ローレンス川をさかのぼり、ナイアガラとオハイオ川に到達。1672年には五大湖一帯を探訪した。1681年にはさらに内陸深く歩を進め、イリノイ川からついにミシシッピ川に達した。そして翌1682年にミシシッピ川を下って、沿岸の地をルイ14世にちなんでルイジアナと命名し、故国フランスに捧(ささ)げた。その後いったん帰国した。さらに植民希望者を引率して、ふたたびミシシッピ河口へ赴いたが、移民計画に失敗し、植民者の手で暗殺された。

[金澤 誠]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラサール」の意味・わかりやすい解説

ラサール
Lassalle, Ferdinand

[生]1825.4.11. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1864.8.31. ジュネーブ
ドイツの社会主義者,労働運動指導者。富裕なユダヤ商人の子で,ブレスラウ,ベルリン両大学で法律と哲学を学び,ヘーゲル哲学の影響を受け社会主義思想も知るようになる。 1848年の革命にライン地方で参加,逮捕される。このころマルクスと知合う。その後哲学や法学の著作にはしるが,59年ごろから政治的活動を再開。憲法闘争 (1862~63) をはじめプロシアのさまざまな政治闘争に関与,社会主義運動を指導した。 62年「賃金鉄則」を唱える『労働者綱領』 Arbeiterprogrammを発表,63年には『公開答状』を書き,労働者の組織化を目指し「全ドイツ労働者協会」を組織して会長となる。これは現在のドイツ社会民主党の母体の1つとなった。彼は普通選挙の実現と国庫による生産協同組合の実現という,国家を通しての社会主義化を目指した (ちなみに「夜警国家」とは自由主義国家に向けて彼が使った異称) 。彼自身はマルクスを財政的に支援するなど好意的であったが,マルクスらはビスマルクと密談を持つといった彼の政治スタイル,国家観に反発していた。 64年女性問題にからむ決闘により死亡。

ラ・サール
La Salle, René Robert Cavelier, Sieur de

[生]1643.11.22. ロウエン
[没]1687.3.19. セントルイス近郊
フランスの探検家。イエズス会の教育を受けた。 1666年モントリオールに移住。 69~70年オンタリオ湖,エリー湖の南部を探検。カナダ総督フロンテナクに認められて,74年総督の代表としてフランスに派遣され,ミシシッピ川流域の交易の独占権を獲得。 79年ミシガン湖の西岸を南下し,セントジョーゼフ河口にいたり,ここにマイアミ城塞を築き,さらにイリノイ川に出,やがてミシシッピ川上流に達した。 82年4月ついに念願のミシシッピ河口に到達,ミシシッピ川流域全体をフランスのルイ 14世の治下におくことを宣言し,この地方を「ルイジアナ」と命名した。この広大な地域の資源を守るため,同年 12月イリノイ川岸にセントルイス城塞を築き,シカゴにも中継地をおき,ルイジアナの総督に任命された。 84年フランスからの帰途,部下の反乱にあい,そのうえ船は難破し,失意のあまり 87年1月再びカナダに帰ろうとしたが,途中部下の一人に暗殺された。

ラ・サール
La Salle, Jean-Baptiste de

[生]1651.4.30. ランス
[没]1719.4.7. ルーアン
フランスのカトリック聖職者,教育改革者。フランスのペスタロッチと呼ばれる。裕福な貴族の家に生れ,パリで学び,1672年帰郷して家督を継ぎ,78年司祭となった。当時まったく顧みられなかった貧児教育に献身し,84年教職者をキリスト教学校修士会に組織。没するまで 22の学校をフランス各地とローマに設立。またラテン語によらずフランス語を用いる寄宿学校は画期的改革であり,教師育成のための師範学校は初めての試みであった。 1900年列聖。主著『キリスト者の務め』 Les Devoirs d'un chrétien (3巻,1703) ,『キリスト教学校の経営』 La Conduite des écoles chrétiennes (20) 。

ラサール
La Salle

カナダ,ケベック州南部の都市。モントリオール南郊のモントリオール島の南端に位置し,セントローレンス川の早瀬ラシーヌラピッドに面する。 1668年入植。 1820年代に早瀬のバイパスとしてラシーヌ運河 (13km) が建設され,運河の西端の積替え地として発展した。第2次世界大戦後,モントリオールの郊外住宅地および工業地となった。 1969年には,広域行政区のモントリオール大都市圏に入った。アルコール飲料,食料品,化学,医薬品などの工業も立地する。人口7万 6299 (1981) 。

ラ・サール
La Sale, Antoine de

[生]1386頃.アルル近郊
[没]1460頃
フランスの物語作家。プロバンスの豪族の出身で,早くからアンジュー公らに仕え,ベルギー,イタリア,ポルトガルなどを訪れた。イタリアの地方伝説集,統治論,道徳論などがあるが,特に物語『小姓ジャン・ド・サントレ』 Le Petit Jehan de Saintré (1456頃執筆,1517刊) が有名。これは中世騎士道を皮肉り,シャルル7世時代末期の社会を鋭く描写したもので,近代風俗小説の先駆的作品ともいえる。

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百科事典マイペディア 「ラサール」の意味・わかりやすい解説

ラサール

ドイツの社会主義者。ヘーゲル哲学を学び,独自の社会主義思想を打ち立てた。若くして弁護士としてハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟などで名をあげた。1862年,のちに《労働者綱領》として知られることになる演説を行い,自由主義的国家観と対決。全ドイツ労働者同盟(ラサール派)を結成して指導し,労働者に対する国家の役割を重視する点などでマルクスらと対立していたが,ドイツの労働運動,社会主義運動の創始者の一人として大きな影響を与えた。恋愛事件で決闘,死亡。主著《間接税と労働者階級》。
→関連項目第四階級賃金鉄則説夜警国家

ラ・サール

フランスの探検家。1667年カナダに赴き,奥地探検を試みた。1681年―1682年にはイリノイ川からミシシッピ川に入り,その河口まで達し,この河谷をルイジアナと名付けた。帰国してルイジアナ植民地化のための指揮官に任ぜられ,アメリカに戻ったが成功せず,やがて部下に殺された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラサール」の解説

ラサール
Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle

1825~64

ドイツの社会主義者。シュレージエンに生まれ,ヘーゲル哲学を学び,マルクスと類似の社会主義思想に到達。1848年の革命に参加して投獄される。その後弁護士として名をあげたが,63年「全ドイツ労働者同盟」を組織してその指導者となった。これがドイツ社会民主党の始まりである。彼は労働階級の政権掌握をめざしたが,国家の役割を重くみた点でマルクスと異なり,マルクスの弟子ベーベルリープクネヒトと対立した。女性問題で決闘して死す。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ラサール」の解説

ラサール
Ferdinand Johann Gottlieb Las salle

1825〜64
ドイツの社会主義者・労働運動指導者
1848年三月革命に参加。同年,マルクスと接して影響をうけるが,1850年代末より離れる。1862年「労働者綱領」を発表し,63年プロイセンをおもな活動範囲とする全ドイツ労働者同盟を創設し,大衆的な労働運動の基礎を築く。いっぽう,プロイセン国家の熱烈な信奉者でもあり,ビスマルクに接近するなど,マルクス主義とは無縁だった。のちのドイツ社会民主党改良主義派にはラサール派が多い。

ラ=サール
Robert Cavelier de La Salle

1643〜87
フランスの探検家
カナダの五大湖付近を探検。またミシシッピ川を下って河口に達し,この川の沿岸をルイ14世にちなんでルイジアナと名づけ,フランス領とした。

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世界大百科事典(旧版)内のラサールの言及

【国家】より

…さまざまな形で生ずる利害の対立を自由に放任することが,社会の秩序と安定にとって最も望ましい結果をもたらすものであるとすれば,国家の果たすべき機能は外敵の侵入を防ぎ,国内の基本法の遵守を確保することで十分である。19世紀のドイツの革命家F.ラサールは,こうした国家を皮肉をこめて〈夜警国家〉と呼んだ。このように,自由放任主義の下で国家の機能が極小化されていた時期には,法律を制定することが重要な意味をもっていた。…

【第四階級】より

…現在では,司法,立法,行政の三権に対する第4の権力と理解し,三権に対する監視役としての期待と,その強大な権力の乱用に対する批判の,両方の意味をこめて用いられる。このほかF.ラサールが《労働者綱領》(1862)で名付けたように,市民階級に続いて登場した労働者階級をこう呼ぶ場合もある。【広瀬 英彦】。…

【賃金生存費説】より

…生存費説による自然価格を労働の市場価格が上まわれば,人口増加がうながされ,労働の供給が増加して労賃を引き下げる作用が生じ,その逆ならば逆になるという人口法則がその背後に想定されていた。このリカードの賃金学説をやや一面的に継承し,F.ラサールは,賃金は労働者と家族の生存最低費に帰着する〈鉄のような経済法則〉があると主張(賃金鉄則説)した。ドイツ社会主義労働党ゴータ綱領(1875)にもラサールの賃金鉄則がとり入れられ,マルクスの《ゴータ綱領批判》(1890‐91)での論争をうけている。…

【夜警国家】より

…国家の機能は,外敵からの防御,国内の治安維持など,必要最小限の公共事業にあるとする国家観。ドイツの国家社会主義者F.ラサールが,ブルジョア的私有財産の番人,夜中のガードマンになぞらえて自由主義国家を批判したことに由来する。福祉国家行政国家に対置される概念である。…

【宗教教育】より

…フランスでは,ナントの王令がルイ14世によって1685年に廃止されるが,ユグノーに対する弾圧はそれ以前から始められ,ユグノーの子どもに対する改宗教育政策が進められた。ルーアンにキリスト教学校修士会を創設したJ.B.ラ・サールやリヨンのC.デミアによる宗教教育を中心とした貧民の無償教育も,この政策に呼応したものであった。女子修道会〈新カトリック〉を指導したフェヌロンの《女子教育論》(1687)も,貴族の娘たちをキリスト教の立場から良妻賢母として育成することを目的としたものであった。…

※「ラサール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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