日本大百科全書(ニッポニカ) 「リープクネヒト」の意味・わかりやすい解説
リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht)
りーぷくねひと
Wilhelm Liebknecht
(1826―1900)
ドイツの社会主義者。3月29日、官吏の子としてギーセンに生まれる。神学、哲学、言語学を学んだが、サン・シモンの著書などに親んで社会主義的思想を抱き、1847年スイスに赴いて活動した。1848年3月、二月革命に魅せられてパリを訪れ、その後、同年9月および1849年5月のバーデンの蜂起(ほうき)に参加したが敗北し、スイスに亡命した。しかし1850年スイスからも追放されたため、ロンドンに赴き、ここでマルクスを知り、彼を師と仰いだ。1862年恩赦を受けて帰国し、ラッサールの組織した全ドイツ労働者協会に参加してベルリンで活動したが、1865年プロイセンから追放されたためライプツィヒに移り、ベーベルと交わって翌1866年ザクセン人民党を組織し、1867年北ドイツ連邦の議員となった。この間、第一インターナショナルへの参加を支持し、1869年にはベーベルとともにマルクス主義を基調とする社会民主労働者党(アイゼナハ派)を結成した。
1870年のプロイセン・フランス戦争では、アルザス・ロレーヌの併合に反対して戦時公債を拒否したため逮捕され、1872年には反逆罪に問われて禁錮刑に処せられた。1874年以降、帝国議会議員となり、その間、1875年ラッサール派と合同してドイツ社会主義労働者党を結成、マルクスやエンゲルスの批判を受けながらも党の発展に献身し、第二インターナショナルの指導者としても活動した。1900年8月7日ベルリンで死去した。
[松 俊夫]
『メーリング著、足利末男他訳『ドイツ社会民主主義史』上下(1969・ミネルヴァ書房)』▽『フリッケ著、西尾孝明訳『ドイツ社会主義運動史』(1973・れんが書房)』
リープクネヒト(Karl Liebknecht)
りーぷくねひと
Karl Liebknecht
(1871―1919)
ドイツの社会主義者。8月13日ウィルヘルム・リープクネヒトの次男として生まれる。ライプツィヒ、ベルリン両大学で法学、経済学を学び、弁護士となる。1900年ドイツ社会民主党に入党、1906年反軍国主義的演説を行い、翌1907年それに加筆して『軍国主義と反軍国主義』を出版し、反逆罪に問われて1年半の刑を受けたが、出獄後の1908年プロイセン下院議員、1912年帝国議会議員となり、ローザ・ルクセンブルクとともに社会民主党の左翼急進派の指導者となった。
第一次世界大戦では、党の戦争協力政策に反対、1914年12月には第2回の軍事公債に反対投票を行い、そのため翌1915年党から事実上除名され、また政府からは作業兵として召集された。しかし彼は1916年1月、ルクセンブルクらとスパルタクス派を組織、5月1日のメーデーの日にベルリンのポツダム広場で集会を開き、政府の打倒を叫んで逮捕された。1918年10月、釈放されるとただちにスパルタクス派を率いて活動、ベルリンに革命の起こった11月9日には王宮のバルコニーから「自由社会主義ドイツ共和国」の建設を呼びかけたが、革命の主導権を握ることはできなかった。革命後、社会民主党との協力を反革命として終始反対、12月末にはルクセンブルクらとドイツ共産党創立大会を開いて革命の推進を図ったが、1919年1月の蜂起(ほうき)に参加して捕らえられ、同月15日、ルクセンブルクとともに政府軍によって虐殺された。
[松 俊夫]
『中村丈夫他訳『スパルタクス書簡』(1971・鹿砦社)』