リープクネヒト(読み)りーぷくねひと(英語表記)Wilhelm Liebknecht

デジタル大辞泉 「リープクネヒト」の意味・読み・例文・類語

リープクネヒト(Liebknecht)

(Wilhelm ~)[1826~1900]ドイツの社会主義者。スイス、次いでロンドンに亡命してマルクスに師事。1869年、ベーベルとともに社会民主労働者党を結成。1875年、ラッサール派と合同して社会主義労働者党を結成。著「土地問題」「カール=マルクス追想録」など。
(Karl ~)[1871~1919]ドイツの政治家。の子。社会民主党左翼急進派の指導者として第一次大戦に反対。1916年、ローザ=ルクセンブルクらとスパルタクス団を組織。ドイツ革命勃発後ドイツ共産党を結成、一月蜂起に参加し政府軍によって虐殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「リープクネヒト」の意味・読み・例文・類語

リープクネヒト

  1. [ 一 ] ( Karl Liebknecht カール━ ) ドイツの革命家。ウィルヘルムの子。社会民主党左派の指導者。第一次大戦に反対、脱党してスパルタクス団を組織し、さらにドイツ共産党を創立したが、一九一九年一月の蜂起の際、虐殺された。(一八七一‐一九一九
  2. [ 二 ] ( Wilhelm Liebknecht ウィルヘルム━ ) ドイツの社会主義者。三月革命に参加してロンドンに亡命、マルクス、エンゲルスの影響を受ける。帰国後ラッサール派の労働運動に加わり、一八六九年ベーベルとともに社会民主労働党を設立。ラッサール派との合同を進め、ゴータ綱領作成に参加。ベルンシュタインらの修正派と対立した。(一八二六‐一九〇〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リープクネヒト」の意味・わかりやすい解説

リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht)
りーぷくねひと
Wilhelm Liebknecht
(1826―1900)

ドイツの社会主義者。3月29日、官吏の子としてギーセンに生まれる。神学、哲学、言語学を学んだが、サン・シモンの著書などに親んで社会主義的思想を抱き、1847年スイスに赴いて活動した。1848年3月、二月革命に魅せられてパリを訪れ、その後、同年9月および1849年5月のバーデンの蜂起(ほうき)に参加したが敗北し、スイスに亡命した。しかし1850年スイスからも追放されたため、ロンドンに赴き、ここでマルクスを知り、彼を師と仰いだ。1862年恩赦を受けて帰国し、ラッサールの組織した全ドイツ労働者協会に参加してベルリンで活動したが、1865年プロイセンから追放されたためライプツィヒに移り、ベーベルと交わって翌1866年ザクセン人民党を組織し、1867年北ドイツ連邦の議員となった。この間、第一インターナショナルへの参加を支持し、1869年にはベーベルとともにマルクス主義を基調とする社会民主労働者党(アイゼナハ派)を結成した。

 1870年のプロイセン・フランス戦争では、アルザス・ロレーヌの併合に反対して戦時公債を拒否したため逮捕され、1872年には反逆罪に問われて禁錮刑に処せられた。1874年以降、帝国議会議員となり、その間、1875年ラッサール派と合同してドイツ社会主義労働者党を結成、マルクスやエンゲルスの批判を受けながらも党の発展に献身し、第二インターナショナルの指導者としても活動した。1900年8月7日ベルリンで死去した。

[松 俊夫]

『メーリング著、足利末男他訳『ドイツ社会民主主義史』上下(1969・ミネルヴァ書房)』『フリッケ著、西尾孝明訳『ドイツ社会主義運動史』(1973・れんが書房)』


リープクネヒト(Karl Liebknecht)
りーぷくねひと
Karl Liebknecht
(1871―1919)

ドイツの社会主義者。8月13日ウィルヘルム・リープクネヒトの次男として生まれる。ライプツィヒ、ベルリン両大学で法学、経済学を学び、弁護士となる。1900年ドイツ社会民主党に入党、1906年反軍国主義的演説を行い、翌1907年それに加筆して『軍国主義と反軍国主義』を出版し、反逆罪に問われて1年半の刑を受けたが、出獄後の1908年プロイセン下院議員、1912年帝国議会議員となり、ローザ・ルクセンブルクとともに社会民主党の左翼急進派の指導者となった。

 第一次世界大戦では、党の戦争協力政策に反対、1914年12月には第2回の軍事公債に反対投票を行い、そのため翌1915年党から事実上除名され、また政府からは作業兵として召集された。しかし彼は1916年1月、ルクセンブルクらとスパルタクス派を組織、5月1日のメーデーの日にベルリンのポツダム広場で集会を開き、政府の打倒を叫んで逮捕された。1918年10月、釈放されるとただちにスパルタクス派を率いて活動、ベルリンに革命の起こった11月9日には王宮のバルコニーから「自由社会主義ドイツ共和国」の建設を呼びかけたが、革命の主導権を握ることはできなかった。革命後、社会民主党との協力を反革命として終始反対、12月末にはルクセンブルクらとドイツ共産党創立大会を開いて革命の推進を図ったが、1919年1月の蜂起(ほうき)に参加して捕らえられ、同月15日、ルクセンブルクとともに政府軍によって虐殺された。

[松 俊夫]

『中村丈夫他訳『スパルタクス書簡』(1971・鹿砦社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「リープクネヒト」の意味・わかりやすい解説

リープクネヒト
Karl Liebknecht
生没年:1871-1919

ドイツの革命家。W.リープクネヒトの次男。ライプチヒおよびベルリン大学で法学を修め,1899年ベルリンで弁護士事務所を開く。1900年父の死の直後その志を継ぎドイツ社会民主党に入党,02-13年ベルリン市会議員,08-16年プロイセン邦議会議員,1912-16年帝国議会議員を務めた。とりわけ反戦活動と青年運動に情熱を傾け,1907年《軍国主義と反軍国主義》を公刊し,そのため1年半投獄される一方で,同年,社会主義青年インターナショナルが結成されるとその会長に推された(1910まで在任)。13-14年には,帝国議会で軍需産業と陸軍省の癒着を暴露。第1次大戦が勃発すると14年12月,ただ一人,党議に背いて帝国議会で戦時公債に反対投票を行い,反戦の象徴的存在となった。スパルタクス・グループの一員として非合法活動に従事,16年5月1日,ベルリンで反戦デモを敢行して逮捕・拘禁された。18年10月,恩赦で出獄,ドイツ革命に身を投じ社会主義革命を目ざす指導的人物として活躍,ドイツ共産党創立者の一人となったが,19年1月,ローザ・ルクセンブルクとともに反革命暴力団によって虐殺された。
執筆者:


リープクネヒト
Wilhelm Liebknecht
生没年:1826-1900

ドイツ社会民主党の指導者。大学時代に急進化し,1848年革命に参加,スイスを経てロンドンに亡命,マルクス,エンゲルスの強い影響を受ける。62年,恩赦で帰独,65年ライプチヒに移って以来,ベーベルの盟友として活躍,67年,彼とともに北ドイツ連邦議会議員となり,普仏戦争に反対して大逆罪に問われた。74年から短期間を除いて帝国議会議員。社会民主労働者党の機関紙《人民国家》,ドイツ社会民主党の《フォアウェルツ(前進)》の編集者を務め,ゴータ綱領,エルフルト綱領の作成に参与,89年のインターナショナルの復活に努力した。しかし,マルクス,エンゲルスは彼に対ししばしば不満を表した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リープクネヒト」の意味・わかりやすい解説

リープクネヒト
Liebknecht, Karl

[生]1871.8.13. ライプチヒ
[没]1919.1.15. ベルリン
ドイツの左派社会主義運動の指導者。 W.リープクネヒトの子。法律を学び,早くから労働運動に興味をもった。ドイツ社会民主党内では執行部の硬直した官僚主義に反対する左派に属した。第2インターナショナルでの活動において,ロシアとセルビアの社会主義者を除いて,各国の社会主義者が第1次世界大戦遂行を支持したのに対して,それを痛烈に攻撃,国際的な声価を得た。 1908年プロシア下院議員,12年ドイツ帝国議会議員に選出され,13年には政府とクルップとの汚職事件を暴露した。第1次世界大戦の開戦後,社会民主党から追放され,R.ルクセンブルクとともに「スパルタクス団」を結成し,反戦活動に従事,戦争協力の中央と対立,16年帝国議会から追放された。同年のメーデーには帝国主義戦争反対のデモを行い,49ヵ月の強制労働の判決を受けたが,敗戦により 18年釈放された。同年 11月9日,ベルリンでドイツ社会主義共和国を宣言。社会民主党右派の F.エーベルトを中心とする内閣と対抗するため,19年1月1日「スパルタクス団」をドイツ共産党と改め,2週間後に蜂起したが,R.ルクセンブルクとともに逮捕され,殺された。主著『社会発展の運動法則の研究』 Studien über die Bewegungsgesetze der gesellschaftlichen Entwicklung (1922) 。

リープクネヒト
Liebknecht, Wilhelm

[生]1826.3.29. ギーセン
[没]1900.8.7. ベルリン
ドイツの社会主義運動の指導者。ギーセン,ベルリンなどの大学で哲学,言語学を学び,社会主義,ポーランド独立に関心をもち放校された。 1848年の三月革命に参加,スイスを経て,62年までロンドンに亡命。その間マルクスと交際,影響を受けた。帰国後反ビスマルク運動でプロシアを追放され (1865) ,ライプチヒに居住。 A.ベーベルとともに社会主義運動に努力。 67~70年プロシア下院議員,69年アイゼナハで社会民主労働党を創立。普仏戦争では軍事予算採択に棄権,アルザス=ロレーヌ併合に反対し投獄された (72~74) 。 75年ゴータでマルクスの批判を無視してラサール派と合同,ドイツ社会主義労働党を結成。 74年より死ぬまでドイツ帝国議会議員をつとめた。その間 78~90年ビスマルクの社会主義者鎮圧法に対する反対運動を指導し,同法を無効にさせた。同法廃止 (90) 後,合法政党として改名したドイツ社会民主党の中央機関誌『前進』の主筆をつとめ,E.ベルンシュタインらの修正主義派と対決した。 K.リープクネヒトは彼の息子。

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百科事典マイペディア 「リープクネヒト」の意味・わかりやすい解説

リープクネヒト

ドイツの革命家。W.リープクネヒトの子。ドイツ社会民主党左派に属し,反軍国主義闘争を指導,1907年第1回国際社会主義青年大会を推進。第1次大戦勃発(ぼっぱつ)時には,戦時公債に反対し,以後一貫して反戦運動を指導,スパルタクス団を組織する。1918年ドイツ革命に参加,ドイツ共産党を結成したが,1919年1月の蜂起(ほうき)に失敗,ローザ・ルクセンブルクとともに右翼軍人により虐殺された。
→関連項目シュプレヒコール

リープクネヒト

ドイツの社会主義者。K.リープクネヒトの父。1848年の三月革命に参加,亡命。ロンドンでマルクスやエンゲルスと知り合い,その影響を受けた。1869年ベーベルらとドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ派)を組織。1875年ラサール派との合同(ドイツ社会主義労働者党,のちドイツ社会民主党)に努力,党機関紙の編集に当たった。ベルンシュタインの修正主義に対しては反対。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リープクネヒト」の解説

リープクネヒト(ヴィルヘルム)
Wilhelm Liebknecht

1826~1900

ドイツの社会主義者。1848年三月革命に参加し,スイスついでロンドンに亡命,マルクスエンゲルスの影響を受けた。62年帰国しラサール派の労働運動に参加,のちベーベルと協力して社会民主労働者党(アイゼナハ派)を設立した。プロイセン‐フランス戦争では政府を批判。ラサール派との合同を推進し,ゴータ綱領の作成に参加した。ベーベルとともに社会主義者鎮圧法に対する闘争を指導し,また修正主義に反対した。


リープクネヒト(カール)
Karl Liebknecht

1871~1919

ドイツの革命家。ヴィルヘルム・リープクネヒトの子。社会民主党最左翼に属し,軍国主義に対する青年労働者の闘争を組織,指導した。第一次世界大戦では軍事公債反対の先頭に立ち,スパルタクス団を組織,反戦デモを指導して投獄された。1918年10月出獄後スパルタクス団を率いてドイツ革命に参加,ドイツ共産党を創立。19年1月蜂起の際右翼将校により虐殺された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「リープクネヒト」の解説

リープクネヒト(カール)
Karl Liebknecht

1871〜1919
ドイツの革命家・共産主義者
W.リープクネヒトの子。ドイツ社会民主党左派の一員として活躍,軍国主義反対の大衆運動の拡大につとめた。第一次世界大戦に反対して国会で党議に反し,戦時予算に唯一の反対票を投じた。反戦デモを指導して逮捕投獄され,1918年出獄とともにドイツ革命の中心人物として活躍。ローザ=ルクセンブルクとともにスパルタクス団を組織し,ドイツ共産党を創立したが,右翼将校によってローザとともに虐殺された。

リープクネヒト(ヴィルヘルム)
Wilhelm Liebknecht

1826〜1900
ドイツの社会主義者・革命家
1848年の三月革命に参加。ロンドンに亡命後,マルクスの弟子となった。ベーベルとともに1869年ドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ派)を創立。生涯ドイツ軍国主義とたたかった。

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367日誕生日大事典 「リープクネヒト」の解説

リープクネヒト

生年月日:1826年3月29日
ドイツ社会主義運動の指導者
1900年没

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世界大百科事典(旧版)内のリープクネヒトの言及

【ドイツ革命】より

…社会民主党内に開戦当初から存在した〈帝国主義戦争〉反対派もしだいに勢力を強め,戦争支持派による抑圧と排除に抗して,17年4月,ついにドイツ独立社会民主党を結成した。同党は,ハーゼカウツキーら平和主義的な党指導部から,ローザ・ルクセンブルク,カール・リープクネヒトを中心とする反戦革命派のスパルタクス派まで,さまざまな流れから構成されていた。 ロシアに革命が勃発したこの1917年は,ドイツでも大衆行動が大戦下最初の高揚を見せた年となった。…

【ドイツ共産党】より

…第1次大戦前のドイツ社会民主党左派から発展して大戦中に独自の組織を形成したスパルタクス派Spartakus Gruppe(インテルナツィオナーレ派Gruppe Internationale)と,ブレーメン左翼急進派Bremer Linkeなどから1918年に結成された。 スパルタクス派は,ローザ・ルクセンブルクK.リープクネヒトらを指導者として組織され,政府の戦争政策を支持する党主流派に反対し,反戦と革命行動を唱えて非合法誌を発行し,この誌名がグループの呼称となった。1917年独立社会民主党(USPD)が創設されると独自の組織を維持しつつこれに属した。…

【ドイツ社会民主党】より

…しかしここでも労働者の自立の傾向が強まり,68年には,VDAVもADAVと同様,国際労働者協会(第一インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。 69年8月,VDAVのベーベルW.リープクネヒトら労働者派は,ラサールの後継者J.B.vonシュワイツァーと対立してADAVの分派を形成していたブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)らとともに,アイゼナハで集会を開き,アイゼナハ綱領を採択し社会民主労働者党Sozialdemokratische Arbeiterpartei(SDAP)を創立した。新党(アイゼナハ派)と,ラサールの影響のいっそう強いADAV(ラサール派)とは競合を続けたが,普仏戦争の後半,プロイセンの征服政策にはともに反対の声をあげた。…

【ゴータ綱領】より

…2月前に公表された草案に対し,マルクスはアイゼナハ派のブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)に徹底的な批判を書き送った。この《ゴータ綱領批判》は,理論より合同の実現を重視したW.リープクネヒトら当事者によってほとんど生かされなかったが,マルクス晩年の国家論,ラサール批判を示す文書として重要であり,次のエルフルト綱領の作成過程でエンゲルスによって公表された(1891)。アイゼナハ綱領エルフルト綱領【西川 正雄】。…

【ドイツ】より


[労働者文化と農業界]
 ビスマルクによって〈帝国の敵〉とされたもう一つの勢力は,形成途上の社会主義労働運動であった。とりわけ,プロイセンの反自由主義に鋭く反発するその指導者ベーベルとW.リープクネヒトが,独仏戦争に際し戦費協賛に保留,次いで反対の態度をとり,さらにパリ・コミューンに共感を表明したことは,ビスマルクに大きな衝撃を与えた。しかし,1878年の社会主義者鎮圧法,また83年に始まる一連の労働者保険も,労働者街とりわけ酒場での仲間づきあいや各種の文化(合唱,演劇など)・スポーツ団体を中心に独自の〈労働者文化〉と相互扶助の世界を形成しつつ発展するこの運動を抑え込むことはできなかった。…

【ドイツ社会民主党】より

…しかしここでも労働者の自立の傾向が強まり,68年には,VDAVもADAVと同様,国際労働者協会(第一インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。 69年8月,VDAVのベーベルW.リープクネヒトら労働者派は,ラサールの後継者J.B.vonシュワイツァーと対立してADAVの分派を形成していたブラッケWilhelm Bracke(1842‐80)らとともに,アイゼナハで集会を開き,アイゼナハ綱領を採択し社会民主労働者党Sozialdemokratische Arbeiterpartei(SDAP)を創立した。新党(アイゼナハ派)と,ラサールの影響のいっそう強いADAV(ラサール派)とは競合を続けたが,普仏戦争の後半,プロイセンの征服政策にはともに反対の声をあげた。…

【フォアウェルツ】より

…前身として1844年から45年にかけてパリでドイツ人亡命者が発行した週刊紙があり,これにはマルクスやH.ハイネなどが協力した。その後ドイツ社会主義労働者党ゴータ会議の機関紙統一決議に基づき,76年W.リープクネヒトらによりライプチヒで創刊された。ビスマルクの社会主義者鎮圧法(1878制定)により発行を禁止されたため,84年から《ベルリーナー・フォルクスブラットBerliner Volksblatt》と改題刊行されたが,90年の鎮圧法廃止とともに,党名を社会民主党に改称したのとあわせ,《フォアウェルツ》に復題した。…

※「リープクネヒト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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