改訂新版 世界大百科事典 「ドボリャンストボ」の意味・わかりやすい解説
ドボリャンストボ
dvoryanstvo
帝政時代のロシアの貴族層。貴族を意味するドボリャーネdvoryane(単数形はドボリャニーン)に由来する語。ただし日本の旧華族のように,そのすべてが爵位をもつわけではなく,むしろ明治以後の士族に近いものといえるが,人頭税,兵役を免除され,農奴所有権を付与されるなど,実質的な特権をもっていた点で士族とも異なっている。
ロシアではキエフ・ロシアの時代以来,古い貴族層(ボヤールストボboyarstvo)が存在していたが,15~16世紀ごろから,モスクワ大公に奉仕する小領主層であるドボリャンストボが,中央集権国家発展の支柱としてあらわれてきた。そして18世紀のピョートル1世の改革によって,官等表で規定された一定の職につけば,だれでもドボリャニーンになれることになり,ボヤールストボはドボリャンストボに吸収されていった。ピョートルはまた,従来からの公爵knyaz’のほかに伯爵graf,男爵baronの爵位を新設した。
官等表は1917年のロシア革命まで効力をもったが,ドボリャーネになる資格要件は,19世紀の数次の改訂によって引き上げられ,一代貴族は九等官,世襲貴族は文官が四等官,武官で六等官就任が条件となった。このようにドボリャンストボは固定的・閉鎖的な社会層ではなく,家柄に関係なく本人の文官・武官としての勤務能力によって到達できるものであった。それは反面,彼らに国家への勤務を義務づけるものであったが,その義務は1762年ピョートル3世によって免除され,さらに85年エカチェリナ2世によって彼らの特権が確認されるようになった。以後,県(グベールニヤguberniya)・郡(ウエーズドuezd)ごとに組織された貴族団が地方行政の面で大きな役割を果たし,郡の警察署長や地方裁判所の担当者を選んだ。1861年の農奴解放後,これらの特権は縮小され,その影響力は弱まったが,1905年の革命の翌年に開設されたドゥーマ(国会)の選挙でも,他の階層にくらべて,非常に有利な条件を与えられていた。17年の十月革命の結果,ドボリャンストボは完全に消滅した。
執筆者:倉持 俊一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報