ドレーク(読み)どれーく(英語表記)Sir Francis Drake

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドレーク」の意味・わかりやすい解説

ドレーク(Edwin Laurentine Drake)
どれーく
Edwin Laurentine Drake
(1819―1880)

アメリカ石油産業パイオニア。19歳まで父の農場で働き、その後、汽船やホテルのボーイ、雑貨屋の店員、列車車掌などを勤めたが、健康を害して1857年に石油業に転じ、綱掘り式井戸掘り法による石油採掘を試みた。当時の原油採取法は、手掘り井や池に浮かんできた油を集めてくみ取る程度であり、原油は石炭油よりも高価で量も少なかった。1859年8月27日、ペンシルベニア州のオイル・クリークの地下20メートルでついに原油を掘り当て、多量の採油成功した。しかし、ドレークはこの採掘法の特許を得ることには失敗し、やがて石油投機で文無しとなったうえにふたたび健康を害し隠退。ドレークの成功によってアメリカ石油産業は急激に興隆したが、ドレーク自身は悲惨なまでに貧乏を続け、1870年から有志による救済活動が行われ、1873年からはペンシルベニア州議会が年額1500ドルの年金を与えた。

[加藤邦興]


ドレーク(Sir Francis Drake)
どれーく
Sir Francis Drake
(1543?―1596)

イギリスの航海者、提督。南イングランドに生まれる。初めは親戚(しんせき)のホーキンズ(ジョン)のもとで奴隷貿易に従事し、1568年彼とともに乗船をスペイン艦隊に襲われた事件を機に私掠船長になり、70年以降西インド諸島でスペインの船や町を攻撃した。77年から80年にかけて、大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出、この方面のスペインの植民市や船を襲って多大の財宝を奪ったのち、ゴールデン・ハインド号で太平洋を横断し、インド洋から喜望峰を回って帰国、マゼランに次ぐ第二の世界周航を成し遂げた。その功により、エリザベス1世からナイトに叙された。一時プリマス市長や国会議員に選ばれたが、ふたたび海に戻り、85~86年西インド諸島に遠征した。87年スペインの港カディスを襲撃し、翌年アルマダ無敵艦隊)の来襲時には司令官の1人として活躍、火船戦術で敵を混乱に陥れた。95年ホーキンズとともに西インド諸島に遠征したが、彼に続いて船上で病没した。

[松村 赳]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドレーク」の意味・わかりやすい解説

ドレーク
Drake, Sir Francis

[生]1543頃.デボンシャー
[没]1596.1.28. ポルトベリョ沖
イギリスの海賊,海軍軍人。沿岸航路で習練後,1566年以降 J.ホーキンズ配下の海賊船船長としてメキシコ湾を荒し,72年西インド諸島のスペイン植民地を襲撃,多くの略奪品をもって翌年帰国。 77年 12月5隻の船隊を率いて世界周航に出発,南アメリカ沿いに南下,マゼラン海峡を通り,ドレーク海峡を見出す。太平洋をチリ,ペルー沿いに北航し,北緯 48°あたりまで北上,太平洋を横切り,モルッカ諸島,喜望峰を経て,80年9月プリマスに帰還,イギリス人として初めての世界周航を成就。翌年エリザベス1世からナイト爵を授与された。 85年また海に出てカリブ海のスペイン船を攻撃。 87年にはカディス湾のスペイン艦隊を襲い,翌年無敵艦隊の来襲の際には副司令官としてその撃破に貢献。 95年ホーキンズとともに再び西インド諸島のスペイン植民地攻撃におもむいて死去。

ドレーク
Drake, Edwin Laurentine

[生]1819.3.29. グリーンビル
[没]1880.11.8. ベスレヘム
アメリカの石油掘削者。 1858年石油会社に入社,削井の仕事に没頭し,翌年ペンシルバニア州タイタスビル近郊において綱掘式削井法による石油井戸掘削に成功,以後の石油工業発展の基礎をつくった。その後,石油の仲買人として流通業に手を広げたが,うまくいかず,事業家としては失意のうちに没した。

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