アメリカ石油産業のパイオニア。19歳まで父の農場で働き、その後、汽船やホテルのボーイ、雑貨屋の店員、列車の車掌などを勤めたが、健康を害して1857年に石油業に転じ、綱掘り式井戸掘り法による石油採掘を試みた。当時の原油採取法は、手掘り井や池に浮かんできた油を集めてくみ取る程度であり、原油は石炭油よりも高価で量も少なかった。1859年8月27日、ペンシルベニア州のオイル・クリークの地下20メートルでついに原油を掘り当て、多量の採油に成功した。しかし、ドレークはこの採掘法の特許を得ることには失敗し、やがて石油投機で文無しとなったうえにふたたび健康を害し隠退。ドレークの成功によってアメリカ石油産業は急激に興隆したが、ドレーク自身は悲惨なまでに貧乏を続け、1870年から有志による救済活動が行われ、1873年からはペンシルベニア州議会が年額1500ドルの年金を与えた。
[加藤邦興]
イギリスの航海者、提督。南イングランドに生まれる。初めは親戚(しんせき)のホーキンズ(ジョン)のもとで奴隷貿易に従事し、1568年彼とともに乗船をスペイン艦隊に襲われた事件を機に私掠船長になり、70年以降西インド諸島でスペインの船や町を攻撃した。77年から80年にかけて、大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出、この方面のスペインの植民市や船を襲って多大の財宝を奪ったのち、ゴールデン・ハインド号で太平洋を横断し、インド洋から喜望峰を回って帰国、マゼランに次ぐ第二の世界周航を成し遂げた。その功により、エリザベス1世からナイトに叙された。一時プリマス市長や国会議員に選ばれたが、ふたたび海に戻り、85~86年西インド諸島に遠征した。87年スペインの港カディスを襲撃し、翌年のアルマダ(無敵艦隊)の来襲時には司令官の1人として活躍、火船戦術で敵を混乱に陥れた。95年ホーキンズとともに西インド諸島に遠征したが、彼に続いて船上で病没した。
[松村 赳]
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イギリスの航海者,副提督。西部の港町プリマスの近傍に生まれる。1549年カトリック教徒の反乱にあい,プロテスタントの一家はケントに逃亡,船大工の町ジリンガムで赤貧のなかに成長した。60年代の初め,故郷プリマスに舞い戻り,縁者ホーキンズ家の徒弟として働く。67-68年ジョン・ホーキンズの第3回奴隷貿易に参加,メキシコ東岸サン・フアン・デ・ウルアでスペイン艦隊の猛攻にあう。以来,復讐の鬼と化し,72-73年にはパナマ地峡を攻撃,77-80年には索敵と新航路探検を兼ねてイギリス人として初めて世界周航に成功,騎士位を受ける。81年プリマス市長,84年国会議員。85-86年再度西インド諸島を攻撃,また翌年にはスペインのカディスを攻略,88年副提督としてスペイン無敵艦隊を迎えうった。しかし,89年のリスボン攻撃は失敗に終わり,失意のうちに95年最後の航海となった西インド攻撃に向かう。ポルト・ベロ(現,パナマ領)近傍で病死。
執筆者:越智 武臣
アメリカ石油工業の開拓者。ニューヨーク州グリーンビルの貧農の子に生まれ,鉄道の車掌などさまざまな職に就いたあと,1857年彼が株主であったペンシルベニア・ロックオイル会社(ビスルGeorge H.Bissellが1854年に創設した世界初の石油会社)の事業に参画し,みずから塩井掘削技術を研究した。同社は翌年セネカ石油会社として継承され,彼を長としてペンシルベニア州タイタスビルでさく(鑿)井工事を企てた。59年にパイプによるドリル式さく井法で日産35バレルの油井(地下約21m)を採掘,ここに機械掘りによる世界最初の原油掘削に成功した。彼の成功によりオイル・ラッシュが訪れ,この方式による油田開発はアメリカ南部や中西部へと急速に広まった。彼自身この技術の特許をとることもなく,晩年は事業にも失敗し貧窮のうちに没した。
執筆者:古川 安
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1540頃~96
イングランドの航海者,私拿捕(しだほ)船長。若いときから西インド諸島のスペイン領に遠征,1577~80年マゼラン海峡,太平洋,インド洋,喜望峰をへてイングランド人最初の世界周航を完成。無敵艦隊来襲の際イングランド艦隊の一司令官として奮戦した。のちカリブ海遠征中病死。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…とくに,探鉱・開発,採掘,輸送を上流部門(アップ・ストリーム),精製を下流部門(ダウン・ストリーム)ということがある。
【国際石油産業の沿革】
[起源と展開]
世界の石油産業の起源は,1859年にアメリカのペンシルベニア州タイタスビルTitusvilleで,石油会社の技師ドレークEdwin Laurentine Drake(1819‐80)が綱式さく井法による石油の生産に成功したことにさかのぼる。しかし70年にJ.D.ロックフェラーがアメリカのクリーブランドにスタンダード・オイル・オブ・オハイオ社Standard Oil Co.of Ohio(〈スタンダード・オイル〉の項参照)を創立したのが,近代産業としての石油産業の始まりといえる。…
…1855年にビスルG.H.Bissellはペンシルベニア州のタイタスビルに世界で最初の石油会社を設立した。この会社に工事主任として迎えられたE.L.ドレークは,塩水井を掘る技術を用いて,59年に世界最初の油を目的とした坑井による石油の発見に成功した。今から百数十年前にすぎない。…
…とくに,探鉱・開発,採掘,輸送を上流部門(アップ・ストリーム),精製を下流部門(ダウン・ストリーム)ということがある。
【国際石油産業の沿革】
[起源と展開]
世界の石油産業の起源は,1859年にアメリカのペンシルベニア州タイタスビルTitusvilleで,石油会社の技師ドレークEdwin Laurentine Drake(1819‐80)が綱式さく井法による石油の生産に成功したことにさかのぼる。しかし70年にJ.D.ロックフェラーがアメリカのクリーブランドにスタンダード・オイル・オブ・オハイオ社Standard Oil Co.of Ohio(〈スタンダード・オイル〉の項参照)を創立したのが,近代産業としての石油産業の始まりといえる。…
… 日本におけるオイル・ランプの歴史も,ヨーロッパのそれと同様の古い歴史があるが,いわゆる洋灯としての石油ランプの始まりは,1859年(安政6)に,越後長岡の鈴木鉄蔵が横浜のスネルというオランダ人貿易商より買い求めたのが最初であったという(三宅雪嶺著《同時代史》)。それはシリマンが石油ランプを発明した年であり,E.ドレークがペンシルベニア州で初めて石油の掘削に成功した年であったから,まさしく日本の洋灯の歴史は,シリマンの発明と同時に始まったのであった。明治に入って,石油ランプは,ガラス業者のランプの製造の発達と相まって急速な普及をみせ,明治40年代から大正初年度にかけて最盛期に入った。…
…これらの諸国はみな反スペイン的立場に立っており,旧大陸の北岸を通って中国に達する北東航路,新大陸の北岸を通る北西航路を開こうとしたが,氷と寒さのためにいずれも失敗した。次いでイギリスは1550年代からヨーロッパ,アフリカ,新大陸を結ぶ三角貿易に進出し,新大陸に奴隷を供給して利益をあげる一方,70年以降はフランシス・ドレークなどの私掠船隊がスペインの商船隊をさかんに襲撃した。このほか北東航路,北西航路の探検も続けられ,また84年にはウォルター・ローリーによるバージニア植民地,95年には同じくローリーによるオリノコ川でのギアナ植民地の建設が行われた。…
※「ドレーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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