日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニケフォロス」の意味・わかりやすい解説
ニケフォロス(2世)
にけふぉろす
Nikephoros Ⅱ
(912―969)
ビザンティン皇帝(在位963~969)。元は小アジアの豪族フォーカス家出身の軍人。クレタ島奪回(961)で得た戦利品をアトスのラウラ修道院設立基金とした。ロマノス2世没後2人の皇子の摂政(せっしょう)となり、皇妃テオファノTheophano(生没年不詳)と結婚、即位した。キプロス島(965)、アンティオキア(969)をイスラム軍から奪回、国威を高めた。神聖ローマ皇帝オットー1世(大帝)とは南イタリアの領土と皇帝称号問題で争い、一歩も譲らなかった。キエフ大公国のスビャトスラフ王に第一次ブルガリア王国を滅ぼさせた。国内では大土地所有者優遇と一般市民への重税に対する不満が増大するなか、妻と共謀した軍司令官ヨハネス(後の1世)に暗殺された。
[和田 廣]
ニケフォロス(1世)
にけふぉろす
Nikephoros Ⅰ
(?―811)
ビザンティン皇帝(在位802~811)。宮廷革命により退位した女帝イレーネにかわり、財務長官から即位。疲弊した財政立て直しのため、税金台帳の整備、納税連帯制の復活と強化、教会や修道院の所領の一部の国有化、高利子による富裕商人への強制貸付け、「カプニコン」とよばれる人頭税の徴収、テマ(軍管区)兵士の装備の連帯負担など多くの経済改革を断行した。またマケドニア、テッサロニキ、ドゥラキオンなどにテマを新設し、国防を固めた。ブルガリアのクルム王のセルディカ占領(809)に対し、討伐軍を指揮し、緒戦には勝ったが深追いし逆襲されて敗れ、自らもプリスカ近郊で戦死した。
[和田 廣]