日本大百科全書(ニッポニカ) 「丁朝」の意味・わかりやすい解説
丁朝
ていちょう
ベトナムの王朝(966~980)。呉権(ゴ・クエン)の子の呉昌文(南晋(なんしん)王)が963年に死に呉朝が滅びると、東京(トンキン)平野の紅河(ソン・コイ川)デルタ地帯は群雄割拠の状態となった。いわゆる十二使君の分立の時代(963~965)であるが、その十二使君の一人、陳明公と結んだ丁部領(ていぶりょう)(ディン・ボーリン)はその長子の丁璉(ていれん)(ディン・リエン)とともに、965年、十二使君の分立を平定し、その翌年、都を華閭(かろ)(ホアルウ、ニンピン省)に定め、帝位につき国を大瞿越(だいくえつ)(ダイコベト)と号し、ここに丁朝を創立し、また太平なる年号をたてた。中国の中原(ちゅうげん)に建国した宋(そう)が971年に、当時広州に都していた五代十国の一つ南漢を滅ぼしたので、その翌々年、璉は使を派遣して宋に朝貢し、宋から静海節度使を授けられ、ついで975年、朝貢すると宋は父の部領を交趾(こうし)郡王に封じた。また977年、璉は太宗の即位を祝賀して朝貢している。このように宋との交渉で丁璉が代表者となっているのは部領が皇帝と称していたため、宋との交渉で彼自身が表面に出ることは外交上都合がよくなかったからであろう。部領は長子の璉とともに979年、華閭城内で杜釈(としゃく)なる者に暗殺された。そこで璉の弟の丁璿(ていせい)(ディン・トアン)がわずか6歳で位についたが、大将の黎桓(れいかん)(レ・ホアン)が摂政(せっしょう)となり副王と称し、翌年7月には自ら帝位につき天福と改元した。ここに丁朝は滅びた。なお、この丁朝より黎(れい)朝(レ朝、前黎朝)への交替の混乱に乗じて宋の太宗はベトナムに出兵したが敗退した。『大越史記全書』ではこの丁朝をもってベトナム独立王朝の始めとなしている。
[河原正博]
『河原正博著「ベトナム独立王朝の成立と発展」(山本達郎編『ベトナム中国関係史』所収・1975・山川出版社)』