改訂新版 世界大百科事典 「ニュージャーマンシネマ」の意味・わかりやすい解説
ニュー・ジャーマン・シネマ
Junger Deutscher Film[ドイツ]
New German Cinema
第2次世界大戦直後のイタリアの〈ネオレアリズモ〉,1950年代末のフランスの〈ヌーベル・バーグ〉などに次いで,ようやく60年代末から70年代にかけて西ドイツで起こった新しい映画の動きがこの名で呼ばれる。戦後のドイツ映画は,25年の歴史をもつウーファ社の解体に象徴されるように衰退と消滅の一途をたどり,東西ドイツに分割されて力を失い,西ドイツでは,それでも,ナチスの犯罪を告発し,荒廃と飢餓の現状を訴える〈瓦礫(がれき)映画Trümmerfilme〉のなかからヘルムート・コイトナー(《最後の橋》1954),次いでベルンハルト・ビッキ(《橋》1959)というすぐれた才能が輩出するが,ともにハリウッドに吸収され,そのあとに残されたものは,ベルリンでつくられていた〈労働者映画Arbeiterfilme〉とミュンヘンでつくられていた〈郷土映画Heimatfilme〉という母もの映画やメロドラマだけというありさまであった。1962年のオーバーハウゼンOberhausen短編映画祭に集まった〈ミュンヘン・グループ〉(のちに〈オーバーハウゼン・グループ〉)と呼ばれる若い映画作家たち(それまでドキュメンタリーや短編しか撮っていなかった)が,〈パパの映画は死んだ〉という標語を掲げ,〈新しいドイツ映画Junger Deutscher Film〉の創造を宣言。この歴史的な〈オーバーハウゼン宣言〉が〈ニュー・ジャーマン・シネマ〉の出発点になった。アレクサンダー・クルーゲAlexander Kluge,ペーター・シャモニPeter Schamoni,エドガー・ライツEdgar Reitzらがグループの中心で,新しいドイツ映画の創造のためには〈新しい自由〉が必要であるとして,政府と映画企業に対して,新人監督への門戸開放,処女作への経済的援助および保障,新しい才能を育成するための映画学校の開設などを要求。それに答える形で,連邦政府は映画産業助成対策を強化,それに伴うテレビ局の意欲的な映画製作援助,映画館の近代化(のちにフランス語でシネマ・コンプレクス(複合映画館)と呼ばれる新しい小劇場に改築)による若い観客層の動員,映画学校の開設(1966年から68年にかけてミュンヘンに〈映画テレビ大学(HFF)〉,ベルリンに〈ドイツ映画テレビ・アカデミー(DFFB)〉が創設された)といった政策が効を奏し,65年には〈若いドイツ映画委員会〉が設立されて,実際に〈オーバーハウゼン・グループ〉の何人かのメンバーが長編劇映画の製作にとりかかることができる状況をつくり上げるまでに至る。
〈オーバーハウゼン宣言〉の中心的存在であったクルーゲの象徴的な題名の映画《昨日からの別れ》(1966)がその口火を切った。次いでP.シャモニ(《キツネの禁猟期》1966),ウルリヒ・シャモニUlrich Schamoni(《毎年ふたたび》1967),フォルカー・シュレンドルフVolker Schlöndorff(1939- 。《テルレスの青春》1966)らがヨーロッパで注目を集めた。68年の〈五月革命〉以後,〈西ドイツという社会の閉塞状況とそこに生きる人間の挫折,もしくはそこから脱出しようとして果てしなく彷徨(ほうこう)する人間の虚無感〉を描く〈新しいドイツ映画〉の第2世代が生まれる。ウェルナー・ヘルツォークWerner Herzog(《小人の饗宴》1969,《アギーレ,神の怒り》1972,《カスパー・ハウザーの謎》1974),R.W.ファスビンダーRainer Werner Fassbinder(《季節を売る男》1971,《マリア・ブラウンの結婚》1978),ビム・ベンダースWim Wenders(《都会のアリス》1973,《アメリカの友人》1977,《ことの次第》1982)に代表される新世代の監督たちである。ファスビンダーとベンダースはミュンヘンのHFFの第1期生であった。この3人は戦前アメリカに渡ったドイツ映画の3巨匠,F.W.ムルナウ,フリッツ・ラング,エルンスト・ルビッチにも比較されるほど国際的な(とくにアメリカで)評価を得て,〈ニュー・ジャーマン・シネマ〉の黄金時代を築くことになる。ハンナ・シグラ(《マリア・ブラウンの結婚》),クラウス・キンスキー(《アギーレ,神の怒り》),ブルーノ・ガンツ(《アメリカの友人》)といった国際的なスターも輩出。シュレンドルフの《ブリキの太鼓》(1979年カンヌ映画祭グラン・プリ受賞)に次いでベンダースの《パリ・テキサス》(1984年カンヌ映画祭グラン・プリ受賞)の大成功で,〈ニュー・ジャーマン・シネマ〉は世界を制覇した観がある。
→ドイツ映画
執筆者:広岡 勉
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