日本大百科全書(ニッポニカ)「自由」の解説
自由
じゆう
liberty
自由とはまず第一に、強制や束縛を受けずに気ままにふるまえることを意味する。旅に出て自由を味わうといった場合の自由は、こうした「……からの自由」であるが、これは動物や事柄にも適用され、たとえば籠(かご)の鳥は不自由だといったり、韻律に束縛されない詩を自由詩とよんだりする。憲法では、さまざまな事柄に関して個人の自由が保障されているが、これもそうした事柄に関して国家や他人からの不当な干渉を排除するという意味では、強制、束縛からの自由とみることができる。
だが自由には、もう一つ、消極的な「……からの自由」ではなくて、積極的な「……への自由」という意味もある。哲学において選択や決断の自由とよばれるもので、古来この自由は自由意志の問題として論議されてきた。だが「自由意志」については別項で扱うとして、ここで選択や決断の自由を環境や状況との関連でとらえる哲学説に触れると、たとえばシェーラー(1874―1928)は、動物の行動はその環境世界の体制によって一義的に決定されているが、人間は逆に世界に対して無限に公開的に働きかけることができ、ここに人間に独特な自発的自由がみいだされるとする。またニコライ・ハルトマン(1882―1950)によると、人間もまた彼が位置するそのつどの状況によって制約されており、その限りでは人間はまったくの自由ではない。とはいえ、状況は人間をある一つの行為へと決定するのではなく、あれやこれやといった特定のいくつかの行為に関してその選択、決断を強いる。つまり人間は決断へと強制されているが、決断もまた一つの自由である。ハルトマンは、そこで、選択、決断の自由は状況による束縛、拘束と両立しうると考えた。
視点は異なるが、状況内での自由という考えは、サルトルにもみいだされる。サルトルによると、人間はそのつどの状況において時々刻々自らの実存を自由に創造していかなければならない。つまり自由は状況のうちにのみ存し、また状況は自由によってのみ存在する。また選択、決断の自由を本来の自己への自由とみるヤスパースによると、人間の根源的にして実存的な自由は、人間各自がその現存在において自己自身であろうと決意することのうちに存する。「決意のうちで私は自由を経験し、この自由のうちでは選択と自我との分離は不可能であって、私自身がこの選択の自由である」という。なおマルクス主義は人間の疎外からの自由と解放を説くが、その場合にもその根本には人間の全能力の開花を目ざした本来的人間への自由が置かれているといえよう。
[宇都宮芳明]
政治学における自由
人間が人間らしく生きていくうえでもっとも基本的な条件は、精神的にも身体的にもいかなるものからも拘束を受けないということである。したがって、自由とはホッブズも述べているようにまず第一にこの「拘束の欠如」と定義づけることができよう。そして、自由が制限されたり侵害されたりすれば、人間はけっして幸福な状態にあるとはいえないのである。
自由が、人間の生存にとって重要であるという考えはギリシア・ローマの時代にもあったが、人間が真に自由を獲得できたのは近代に入ってからである。すなわち、17、18世紀の市民革命期に、ホッブズ、ロック、ルソーなどが、人間は生来、自由で平等な存在であるとして、人間の自由を確保できるような政治社会をつくるように提案して以来、自由の重要性が人々の間で認識されるようになった。
このため近代民主主義国家においては、憲法上、さまざまな人間の自由を保障している。たとえば、「言論・思想の自由」とか「宗教の自由」とかは人間にとってきわめて重要なものであるから、国家権力といえども、それらの自由を制限したり侵害したりできない権利であるとして憲法において保障している。また人を逮捕したり拘禁したりする、つまり人の身体を拘束して自由を奪うような場合には慎重に行われなければならないから、憲法では、「人身(身体)の自由」としてこれらの権利を保障している。さらに、人が労働して形成した財産を国家権力や他人が奪うようなことがあっては社会の安定性は保たれない。憲法において「財産権の保障」という規定が設けられているのはこのためである。これによって人は、自分の労働の成果を自由に処理したり利用したりして快適で安全な生活を送ることができるのである。憲法では、以上に述べたさまざまな自由を「自由権」(「自由権的基本権」)と名づけ、国家権力といえども侵害できない自由として、これらの自由のことを「権力からの自由」ともよんでいる。
ところで、以上に述べた自由も、専制者や独裁者が現れると侵害される危険性がある。そこで、そうした危険性を防止するためには、政治社会に住んでいる人々が自分たちの意志で代表者や政府を選出し自由や権利を守る必要がある。そのため憲法では、人々に「政治に参加する権利」つまり「政治的自由」を保障している。これらの権利は「参政権」ともよばれるが、人々は、この参政権を行使して真に国民の意志を表明できる代表者を選び、彼らに全成員の利益を実現するような法律をつくらせたり、政治を行わせることによって、人々の自由を保障し、そればかりか、新しい自由さえも獲得しようとするのである。この意味で、政治的自由・政治的権利は、人間が自由で快適に生活していくうえできわめて重要なものであるといえよう。そして、このような権利・自由は、「自由権」を補強するものとして、19世紀の30年代から20世紀の中ごろにかけてしだいに各国憲法において確立されてきたのである。
ここで、自由を考えていくうえで見落としてならないものは平等との関係である。フランス革命の旗印に「自由・平等・博愛」というスローガンが掲げられたのはなによりもそのことを物語っている。ところがその後、資本主義経済が発展し高度化していく過程で、少数者に富が集中し、また恐慌や不景気が周期的に繰り返されるなかで、大多数の者が失業・貧困などの悪条件に苦しめられ、ここに経済的・社会的弱者の救済という問題が資本主義国家にとって緊急の課題となった。
マルクスやエンゲルスのような社会主義者たちは、少数者が多数者を組織して生産させ、その利潤や果実を独占的に所有する私有財産制を廃絶し、生産の果実を社会的に共有する経済制度に変えて人間の平等を達成することなしには、人間の自由を真に確立することにはならないと主張した。大多数の者が貧困な状態に置かれ、不安定な生活を強いられていては、本来、自由が目的にしている快適で安全な人間らしい生活は保障されないからである。こうして、第二次世界大戦後、ソ連のほかに、十数か国の社会主義国家がこの地球上に出現したが(もっとも1989年の「冷戦終結宣言」以降、東欧諸国やソ連が社会主義国であることをやめたが)、これらの国々は、マルクスやエンゲルスの唱えた社会主義によってその国づくりを行い、それぞれの憲法においては、自由権や参政権の規定のほかに、とくに平等に関する規定が多数盛り込まれているのが特色といえよう。
これに対し資本主義国家においては、経済制度は変更しないが、その欠陥を修正しつつ自由と平等のバランスを図りながら政治的・経済的安定を実現する方向をとっている。そしてこれらの国々は今日「福祉国家」とよばれている。
では、これらの国々においては、近代的自由の考えをどのように転換させて「福祉国家」への道を歩むことになったのだろうか。これについては、19世紀中葉から末にかけて活躍したイギリスの哲学者トマス・ヒル・グリーン(1836―82)の思想が重要である。当時イギリスでも貧富の差が拡大し、労働者階級は悲惨な状態に置かれていた。そこで弱者救済のために国家や政府が積極的な施策をとることが強く望まれた。その場合、高額所得者に累進税をかけ、それを財源として公立学校を設けたり、さまざまな社会保障政策をとることなどが論議された。しかし、そのような措置は、自由の重要な柱である個人の財産権を不当に制限するものであるとか、政府が経済活動に介入するのは伝統的な自由放任主義に反するものであるとか、主として有産者の側からさまざまな反対論があった。
グリーンはこうした状況において、人間にとってもっとも重要なことは「人格の成長」にあるとし、自由はそのための手段である、と述べた。「人格の成長」とは要するに「人間が人間らしく生きる」、ということである。ところが、今日の社会では、自由を目的とすることによって、かえって多くの人々の自由が阻害されている。しかし、目的は手段に優先するから、「人格の成長」を実現するためには、「自由」が制限されることもやむをえない、というのがグリーンの提言であった。このグリーンの「コロンブスの卵」的な「自由」の観念の転換によって、以後、イギリスの政治は福祉国家の方向へと大きく前進した。
今日、世界の国々の憲法において、社会や公共の利益のためには個人自由の制限もある程度やむなしとする「社会権」(「社会権的基本権」)的規定が盛り込まれているのはそのためである。そして、こうした社会権的考え方を最初に規定した憲法は1919年の「ワイマール憲法」であった。そこでは、たとえば、「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。この限界内で、個人の経済的自由は、確保されなければならない」(151条1項)、続いて「所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役だつべきである」(同条3項)と規定されている。また日本国憲法第29条「財産権の保障」においても、財産権の保障(自由権)と同時に公共福祉による制限(社会権)の規定が並列されている。したがって、現代国家においては、「自由」と「平等」は離れがたく結び付いているといえよう。
[田中 浩]
『H・J・ラスキ著、飯坂良明訳『近代国家における自由』(1950・岩波書店)』▽『E・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(1951・東京創元社)』▽『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』