日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ハイデッガー哲学の基本概念
はいでっがーてつがくのきほんがいねん
基礎的存在論(きそてきそんざいろん) Fundamentalontologie
ハイデッガーの主著『存在と時間』の最終目標は、存在とは何かと問い、われわれが漠然と理解している「存在」の意味を明確にすることにあるが、しかしそのためには、まず存在を理解している現存在がどのような構造をもつかを分析してみなければならない。こうした目的をもった現存在の分析が「基礎的存在論」で、内容的には次項の「実存論的分析」と同じとみてよい。
実存論的分析(じつぞんろんてきぶんせき) existentiale Analytik
実存的体験を基礎として、個々の実存に共通な実存性を、事物のカテゴリーとは異なった実存カテゴリーを通じて解明するのが「実存論的分析」で、これは単に個人の実存的体験をそのまま記述するような(実存論的ではなくて、単に実存的な)分析から区別されるとともに、他方また、実存的体験を基礎としない人間分析(たとえば心理学的分析)からも区別される。なお『存在と時間』での実存論的分析は、日常的な現存在の存在機構を解明する予備的基礎分析と、さらに進んで本来的、全体的な実存のあり方を問い、実存の全般的な時間的構造を確定する時間的分析とからなる。
世界内存在(せかいないそんざい) In-der-Welt-sein
現存在の根本構造で、現存在は意識や認識主観のように、世界の「外」に位置して世界に対立しているのではなく、世界に住まい親しんでいるものとして、つねに世界と一体性をなしており、そうした意味で世界の「内」に存在する。現存在がさまざまな事物や他人とかかわり合うのも、現存在の構成契機であるこの世界を介してである。なお『存在と時間』では、この世界は道具連関からなる「環境世界」を手掛りとして、詳しく説き明かされている。
存在と存在者(そんざいとそんざいしゃ) das Sein, das Seiende
世界にはさまざまなものが存在するが、これらはいずれも「存在しているもの」すなわち「存在者」であって、そうした存在者を存在せしめる「存在」ではない。ハイデッガーの後期の思索によると、「存在」は「存在者」を存在させることによって身を引き、自らを隠す傾向がある。そこで西洋の哲学はギリシアの端緒から「存在の忘却」に陥り、その結果「存在」をふたたびある特定の存在者としてとらえる「形而上(けいじじょう)学」が成立した。近世に入ると、存在者を存在させるのは人間の「意識」であるとか、「主観」であるとか、「力への意志」(ニーチェ)であるといった「主観性」の哲学が成立する。現代の危機はここから生じており、これを回避するためには「存在の忘却」や「形而上学」を克服し、「存在」そのものに人間が聴従する途を開かなければならない。
ひと das Man
『存在と時間』の用語。現存在は日常性においては本来の自己をもたず、いわば他人によって支配されているが、しかしその他人はある特定の他人ではなく、他人一般であり、平均化された「ひと」である。いいかえれば、日常的現存在の自己は「ひと=自己」であって、いわゆる大衆化現象も、この自己喪失性に由来する。