改訂新版 世界大百科事典 「カスティリャ王国」の意味・わかりやすい解説
カスティリャ王国 (カスティリャおうこく)
Corona de Castilla
中世イベリア半島の中央部に成立したキリスト教国。13世紀中葉以来,半島最大の領土を占め,15世紀後半にカトリック両王の結婚を通じてアラゴン連合王国と結ばれて,近代スペイン生成の主役を演じた。他のキリスト教諸国と同じく,カスティリャの起源もアル・アンダルスとの対立抗争のうちに求められる。その発祥地はエブロ川上流のビリャルカージョ一帯で,ここはアストゥリアス・レオン王国の東の辺境をなし,同川に沿って侵攻してくるアル・アンダルス軍との不断の戦場だった。このために8世紀の間に早くもその景観を特徴づけるほど多くの城塞,すなわちカステラcastellaが築かれ,これがやがて地名として従来のバルドゥリアBarduliaに取って代わった。
住民はかつてのローマ帝国期の文明化の影響が微弱な山岳部原住民が主で,バスク人も多かった。レオン王は伯(コンデ)を任命して統治,防衛,入植活動を進め,この過程で884年に建てられたブルゴスがやがてカスティリャの中心となった。10世紀に入るとレオン王国の衰微,戦乱下の辺境という事情に起因する政治・法律・社会・文化面での特殊性,優れた政治的才覚をそなえたフェルナン・ゴンサレス伯の登場等を要因に内部統一が達成され,レオン王への従属関係はほとんど有名無実となっていった。11世紀前半,後ウマイヤ朝が崩壊してアル・アンダルスが分裂に陥る一方,カスティリャはフェルナンド1世の下にレオンを合併する形で王国となった(1037)。この後,両国は王権による連合と離反を繰り返しながらも再入植運動の進行,移牧経済の発展,社会条件の接近等からしだいに親和の度を深め,1230年フェルナンド3世によって最終的統合に達した。統合はたまたまアル・アンダルスの混乱と時を同じくし,カスティリャはその後の20年間にコルドバ,ムルシア,ハエン,セビリャ等のイスラム教国を相次いで征服,一気に半島の3分の2を領有する躍進を成し遂げた。
中世最後の2世紀間,カスティリャではローマ法の復活による王権の強化が他のイベリア諸国よりも著しく,これに伴って中央集権へ向けての体制が整備されていった。近代スペインの起点を作ったカトリック両王(1479-1516)はこの趨勢にのっとってもっぱらカスティリャを政策実行の礎とし,続くハプスブルク朝(1516-1700)もこの路線を踏襲した。この間に半島内部ではグラナダとナバラの2国が,そして半島の外ではカナリア諸島からインディアス(新世界)を経てフィリピンに及ぶ広大この上ない地域が,いずれもすべてカスティリャ王権の版図に加えられた。そればかりか,かつてアラゴン連合王国がイタリア南部に獲得した領土の維持防衛までが16世紀以降カスティリャにゆだねられる形となった。通称〈スペイン帝国〉を支えたのは本来その一部にすぎないカスティリャ王国だったのである。〈スペイン帝国〉の繁栄期は〈シグロ・デ・オーロ(黄金世紀)〉とも呼ばれ,近代スペイン文化の絶頂期でもあった。〈カスティリャ〉は少なくとも対外的には〈スペイン〉の同義語となり,カスティリャ語もスペイン語と呼ばれるようになった。だが,カスティリャの社会的疲弊と経済破綻からスペインが没落すると,今度はカスティリャ,特にその中央集権的伝統はいっさいの悪の元凶として糾弾された。この思潮は19世紀初頭からスペイン内戦に至る現代スペインの多難な歴史体験によって増幅されて今日に続くのである。
→スペイン →スペイン帝国
執筆者:小林 一宏
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