大学(読み)ダイガク

デジタル大辞泉 「大学」の意味・読み・例文・類語

だい‐がく【大学】

高等教育の中核をなす教育機関。学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究することなどを目的とする。修業年限は4年を原則とするが、2年ないし3年の短期大学もある。大学は、学部のほかに大学院、研究所・付属病院などを設置することができる。日本では、明治以後設立。明治19年(1886)の帝国大学令、大正7年(1918)の大学令などにより規定され、第二次大戦後は、学校教育法に基づいて設置され、今日に至っている。
大学寮」の略。
俗に、社会人を対象にした教養講座のこと。「市民大学
[補説]書名別項。→大学
[類語]大学校

だいがく【大学】[書名]

中国、戦国時代の思想書。1巻。著者・成立年未詳。もと「礼記らいき」の中の一編であったが、宋の司馬光が抜き出して「大学広義」1巻を作り、のち、程顥ていこう程頤ていいが定本を、1189年に朱熹しゅきが「大学章句」を作って、四書の一とした。治者の倫理・道徳に関する三綱領・八条目を立て、儒教の学問の階梯かいていを説いたもの。
[補説]三綱領は治者の目標となる明明徳・止至善・新民の三つ。八条目は三綱領を実現するための修養で、格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八つ。

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精選版 日本国語大辞典 「大学」の意味・読み・例文・類語

だい‐がく【大学】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 中国の周代以降、王者のたてた最高学府。修身、治人の道を教えたもの。官吏の養成機関でもあった。太学。〔礼記‐王制〕
    2. ( 小学に対して ) 治者の学問。大人の学問。
      1. [初出の実例]「兄が大学を屈して、這の小祿に就かしむ」(出典:江戸繁昌記(1832‐36)五)
    3. 平安時代、大学別曹の中で最も盛んであった勧学院をさしていう俗称。
      1. [初出の実例]「大学より三条の院近し」(出典:宇津保物語(970‐999頃)祭の使)
    4. だいがくりょう(大学寮)」の略。
      1. [初出の実例]「大学諸博士。文学等。不決笞之限」(出典:令義解(718)儀制)
      2. 「大かくの道にしはしならはさむのほい侍るにより」(出典:源氏物語(1001‐14頃)乙女)
    5. 高等教育の中核をなす学校で、学術の研究および教育の最高機関。研究と教育に創意と自由が尊重され、管理運営に自治が認められている。現代の大学制度は西洋中世に起源が求められ、近代国家の発達とともに一九世紀以降今日のような形態となった。日本では欧米に範を求めて明治以降に設立された。明治一九年(一八八六)の帝国大学令、大正七年(一九一八)の大学令、昭和二二年(一九四七)の学校教育法によって規定され、今日に及んでいる。修業年限は四年を原則とし、学部のほか大学院を置くことができる。
      1. [初出の実例]「十七歳の秋といふ頃、ある大学(ダイガク)の門に入りて」(出典:当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉四)
  2. [ 2 ] 中国の経書。四書の一つ。孔子の遺書とも子思または曾子の著作ともいう。もと「礼記」の一編(第四二)で学問の根本義を示す。朱子の校訂によって現形に固定された。明明徳・止至善・新民の三綱領をたて、それに至る格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八条目の修養順序をあげて解説する。

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改訂新版 世界大百科事典 「大学」の意味・わかりやすい解説

大学 (だいがく)

高等教育と研究のための機関。国によって年限,形態,理念などは異なるが,ほぼ18歳以上の青年男女を受け入れ,学校体系の最上部分を占める機関である点は共通している。日本の現行制度では,高等学校の上に位置し,修業年限4ヵ年の大学(ただし医学および歯学の学部は6年以上)と,2~3ヵ年の短期大学とがある。また設置者による区別として国立,公立(都道府県立または市立)および私立(学校法人の経営するもの)の3種類がある。日本の大学がこのような制度になったのは第2次大戦後1947年以降のことである。それより約70年前の明治維新後に,日本はヨーロッパ諸国およびアメリカの大学制度にならって,いわゆる近代大学の制度を導入した。これらのヨーロッパ諸国は,それより約900年前の11世紀に,今日の大学制度の原型に当たるものを生みだした。それは,現在の小学校,中学校などが生まれた時期よりはるかに古い。つまり大学は,さまざまの現存する教育機関のうち,最も古い歴史をもつ学校類型である。現代の世界で,大学はほぼ三つの機能を果たしている。(1)伝統的な学術・文化を継承・保存する一方で,現代科学技術を再生産・創造すること,(2)専門的技能や理論を継承・開発すると同時に,専門職業従事者(プロフェッション集団。医師,技師,法曹,教師など)を継続的に育成すること,(3)教養教育,専門教育を通じて,自然,人間,社会に関する教養を普及し,職業的技能・知識を育成し,市民性を形成すること。大学はこれらの機能を果たす文化的サブ・システムの一つである。第2次大戦後はとくに大学の高等教育機関的性格が強まり,(3)の機能が増大している。日本の大学の目的は,1947年制定の学校教育法によれば〈学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする〉(52条)とされている。これもいずれかといえば,一般教育,専門教育,諸能力の育成などの教育的機能を重視した規定である。
執筆者:

大学の起源は中世のヨーロッパにあり,教師・学生の一種のギルドに発している。〈大学〉をさすuniversity,〈教師〉をさすmasterなどの現代語は,本来は単に〈団体〉〈親方〉というギルドの用語であった。〈12世紀ルネサンス〉とも呼ばれる12世紀の知的高揚のもとで,都市には多くの教師・学生が集まり,私塾をおこして教育活動を行っていたが,彼らはしだいに,一般の手工業者の同職組合にならってギルドを形成し,聖俗の外部権力に対して自己の特権を確立するよう闘争しつつ,内部では,共通のカリキュラムを定め所定の修了者には学位を認可するようになった。カリキュラムと学位制度に支えられた教育機関と,学徒の人的団体としてのギルドとが結合したところに,過去に類例をみない,そして現代にまで連続する〈大学〉という新しい教育組織が成立したといえる。

すでに12世紀後半から13世紀初めにかけて,〈自生的大学〉と呼ばれるボローニャ大学パリ大学オックスフォード大学などの大学が形成されている。この際,ボローニャでは比較的年齢の高い法学生のギルドが中核となり,パリでは学芸学部の教師(多くは上級学部の学生)のギルドが大学を形成し,ともに他の中世大学の模範となった。また,私塾連合体としての大学は,本来,共通の建物をもたなかったから,外部権力との抗争の過程で他の都市に移住することもあった。こうして,オックスフォード大学からケンブリッジ大学が派生し,パリ大学からオルレアン大学,ボローニャ大学からパドバ大学が生まれた(〈移住による大学〉と呼ばれる)。

 大学の形成,学徒特権の確立には,ローマ教皇庁はつねに好意を示した。教皇庁は,地域教会や世俗権力への優越と教会思想の統一をめざし,早くから大学の重要性に着目し,その特権確立を積極的に支持した。他方,神学研究の中心地たらしめんとしたパリでのローマ法研究を禁じたことにみえるように,その統制をもはかった。元来一大学にのみ有効であった〈教授免許licentia docendi〉を,普遍的有効性をもつ〈国際教授免許jus ubique docendi〉として承認したのも教皇庁である。一方,大学の発展に促されて(後に〈大学〉は,〈教皇権〉〈皇帝権〉と並称された),13世紀以降,とくに14~15世紀に,都市や皇帝・国王も,その威信と官僚養成をめざして,大学の創設に積極的に加担した。神聖ローマ皇帝によるナポリ大学(1324)の創設を端緒として,スペインのサラマンカ大学(1330ころ),帝国領内のプラハ大学(カレル大学。1347),ウィーン大学(1365),クラクフのヤギエウォ大学(1364)などの大学が次々と創設された(〈創られた大学〉と呼ばれる)。

 1500年ころまでに,ヨーロッパには約80の大学が成立した。中世大学は通例,同郷出身者の団体としての国民団(ナティオnatio)の集合体という性格と,学部の集合体としての性格とをあわせもった。学部には,神学,法学(教会法,市民法),医学と,その予科的な学芸学部があったが,すべての大学が4学部全部をもっていたわけではない。また本来学生の寄宿舎であった学寮(コレギウムcollegium)が,後に大学の重要な構成単位となったイギリスの大学の例もある(カレッジ)。中世末期になると,大学での学問は当初の清新さを失ってしだいに硬直化するが,教育機関としての社会的役割は増大した。聖職界や法曹界,あるいは集権化しつつある国王行政官僚に占める大学卒業生の割合は確実に高まり,それは下級官吏にまでおよんだ。世襲制に安住していた上層貴族も大学教育に無関心でいられなくなり,比較的下層の者が大学を通過することで社会的上昇をとげる例も多くみられた。

 中世大学は,少なくとも理念上は,〈学問する者の自由〉を標榜したが,国権の強大化にともないしだいに国家機関化していった。とくに宗教改革の後,大学は鮮明にその宗派的色彩を明確にし,政治体制への隷属を強めた。パリ大学もストライキ権を剝奪され,絶対主義体制下ではガリカニスムの牙城となったし,イギリスの大学は政変のたびごとに構成員の大幅な更迭をみた。三十年戦争(1618-48)を経たドイツでは〈ドイツ大学史上の暗黒時代〉を迎えるにいたる。17世紀は近代科学の創成期ではあるが,哲学においても自然科学においても,大学は学問の新時代にほとんど寄与するところはなかった。新しい学問はもっぱらアカデミーを場にしたもので,大学は国家官僚の養成機関ではあっても,時代を領導する学問の担い手ではありえなかったのである。このような状況で,大学史に新時代を画したのはプロイセンのハレ大学(1693創設)である。ここでは,学問の自由を当時の合理的精神にそってうたい,諸科学の総合としての〈哲学〉を重視して学芸学部の予科的性格を改革し,高度な学問的探究と教育を一体化して近代大学の祖型をつくり,他のドイツ大学に強い影響を与えた。しかしこのハレの運動も他国には波及せず,フランスが新しい大学制度を樹立するにはフランス革命をまたねばならなかった。
執筆者:

宗教改革のもとで,ローマ教皇によるヨーロッパの大学の一元的な支配は崩れ,ルターを生んだドイツでは,マールブルク大学(1527創立),イェーナ大学(1558創立)などプロテスタントの大学がつくられ,また旧来の諸大学にも人文主義が導入され,教養部の改革などが行われた。イギリスのオックスフォード大学では,ヘンリー8世がローマ教会から離脱した後,教会法が廃止され,スコラ学者たちの著作が追放されるなどの動きがあった。その後いくどかの変動を経験したが,ケンブリッジ大学も含めて,全体として英国国教会と王権とに所属していった。激化する旧教と新教の対立のなかで,ヨーロッパの大学は大きな役割を演じた。その過程を通じて大学はしだいにローマ教皇の手から絶対主義国家の手に移っていった。18世紀後半になるとこの傾向はフランス,ドイツの大学で決定的になった。こうして生まれた近代大学の一つの典型が,19世紀初めのドイツのベルリン大学である。それは神学部を頂点にすえていた学部構成を改めて,それまで〈神学の僕(しもべ)〉とみられていた哲学を大学の中心に置き(哲学部の優位),これに法学,医学などの諸学部を配するものであった。フランスでは,フランス革命後,中世以来の伝統的大学は解体され,ナポレオンによって帝国大学が設立された。それは単科的な職業教育大学のゆるい統合体であった。アメリカでは,ハーバード大学イェール大学など,植民地時代からオックスフォード大学,パリ大学などをモデルとする大学が設けられていた。さらに19世紀になるとヨーロッパのくびきから脱した新しい単科大学を州立大学(農業教育や工業教育を重視)として設ける一方,19世紀にドイツの諸大学が自然科学,医学,法学などの分野で著しく発展させていた〈学問研究の府としての大学〉という性格を学びとって,大学院中心の総合大学を発展させることになる。ラテン・アメリカ諸国では,スペイン系の大学の影響下に,カトリック的な大学が多く設けられていたが,これらも19世紀になると実用的な諸学部を設けるようになっていった。このような変化の背後には,近代における国民国家の成立と資本主義の発展がある。大学は教会権力から国家権力のもとへ徐々に移行し,大学の自治・自由の問題も中世時代とは異なる形で問われるようになった。

 一方,社会主義国家でも大学は独自の発達を遂げた。ロシア革命以後,ソビエト政府は,18世紀半ばに創立されていたモスクワ大学を最高学府として受け継ぎ,自然科学系6学部のほか言語学,歴史学,哲学,経済学,法学,ジャーナリズムの計12学部を置く総合大学として再編した。中華人民共和国でも,北京大学など清朝期に発展していた大学を継承・淘汰(とうた)し,新政権のもとに再編した。東ヨーロッパ諸国でも中世,近世以来の諸大学が新政権になって継承された。これらの大学はそれぞれの歴史的な伝統を負いながらも,マルクス・レーニン主義を基礎とするものであったが,1990年の東西ドイツ統合の影響により,とくにドイツにおいて大きく変動しつつある。

古代に貴族官僚の養成機関としての大学寮があったが,ヨーロッパのuniversityとは異質のものである。日本では,ヨーロッパやアメリカの諸国で大学が〈近代大学〉の形をととのえていた19世紀の後半に,近代大学が発足した。江戸時代から各地で生まれていた洋学私塾や漢学塾,幕末に幕府自身がつくった洋学教育機関(開成所,医学所など)が直接の母体となって明治期の高等教育が出発した。明治政府がつくった最初の大学は,昌平黌(しようへいこう)(昌平坂学問所ともいう)を再興した〈大学校〉であり,国学を中心に洋学と漢学を両翼に配するというものであったが,まもなく復古主義政策が後退するにつれ,国学重視の学問政策は衰微し,ついで開明主義への転換とともに洋学中心となった。やがて,政府は洋学教育機関を母体とする官立の東京大学を設けた(1877)。このほか工部省の工部大学校司法省法学校などが一種の単科大学としてあった。しかし,工部大学校,法学校はしだいに文部省に移管され,1886年に設立の帝国大学(旧,東京大学)に統合された。帝国大学の性格はきわめて国家主義的で,〈国家ノ須要(しゆよう)〉に応ずる学問研究と教育を行うというのがその目的とされた。明治後半期から,帝国大学は地方の大都市(京都,仙台,福岡,札幌など)に広がり,大学制度の頂点をなすものとされた。

 私立の高等教育機関が大学になる道を開かれたのは大正期に入ってからである。1918年の大学令制定によって,初めて地方自治体や私人(財団法人)も大学を設立できるようになり,また官立専門学校のなかのあるものも,大学になることができることになった。幕末,維新期以来発達してきていた慶応義塾,早稲田,同志社,中央,明治などの私学が大学令による大学になり,また東京高等商業学校が東京商科大学(現,一橋大学)に,東京高等工業学校が東京工業大学になるなど官立専門学校も次々に大学に昇格して,帝国大学すなわち官立総合大学だけが大学であるという独占体制が崩れた。さらに24年朝鮮に京城帝国大学,28年台湾に台北帝国大学を設立するなど植民地にも大学が設置された。

 第2次大戦後の学制改革のもとで,大学の体制も大きく変わった。戦前,大学のほかに高等教育を担っていた専門学校,大学専門部,高等学校,大学予科,高等師範学校,師範学校などが再編統合されて新制大学となり,新制高等学校の上に直接つづく教育機関となった。私立専門学校や高等女学校専攻科などを母体として短期大学も発足した。私立の専門学校,旧制私立大学の一部が新制の大学に転換を開始したのが48年,国立大学の大部分が新制に移ったのは49年,同年短期大学も発足した。新制下の大学院は53年から出発した。新制大学は,理念のうえで戦前の大学の国家主義を否定し,制度のうえでは量的拡大(高等教育機会の均等,拡大)を予期して出発した。新制大学が6・3・3制の単線型的な学校体系の最上段に位置し,専門教育と研究という二つの機能と並んで,一般教育による市民形成をめざしたことも大きな変化であった。

現在,世界と日本の大学が当面している問題は数多いが,ほぼ世界的に共通な問題をあげれば,(1)大衆化のもとで大学の制度的性格をどうするか,(2)財政と大学の自治との関係をどう考えるか,(3)現代の学術との関係はどうなるか,(4)学生の地位や権利をどう考えるか,などである。

第2次大戦後,高等教育の〈大衆化〉はほぼ1960年代から本格化しはじめた。すでに早くから多数の青年を大学(ユニバーシティやカレッジ)に迎えていたアメリカを別として,ドイツ,フランス,イギリスその他のヨーロッパ諸国では,高等教育進学者の増加をいかにして伝統的な大学制度と調和させるかが深刻な問題となっている。ドイツではアビトゥーア(大学入学資格。〈バカロレア〉の項目参照)を獲得した学生たちが現実に大学へ進学できないという事態が深刻化しているし,68年の大学紛争後,大学の全面的な改革を行ったフランスでは,大学生の特定大学への集中,新構想大学の学生過密化や研究教育水準の低下といった問題を抱えている。またイタリアの有名諸大学は1960年代以来,大学教育のマスプロ化の課題を抱えている。伝統的大学制度をもつこれらのヨーロッパ諸国に比べて,イギリスでは新大学の新設,放送大学(オープン・ユニバーシティ)の設置などを行って大衆化への対応を比較的早く開始した。アメリカは,60年代の半ば以降,40~46%の大学進学率を迎えたが,コミュニティ・カレッジの普及,公立大学の無試験入学制度などの多様な方法によって,この圧力に対応している。大学入学方式の面でも,成人・勤労学生の進・入学,職業経験者の再入学などの弾力的な制度をとっており,大衆化への適応を最もよく果たしている国であるといえよう。

 新制大学制度をとった日本は,1962年以降,大学進学希望者の著しい増加を迎え,高度経済成長期を経て石油危機直後の75年度までに,大学進学率は約13%から約38%に急増した(その後やや低下し,1985年度は30.5%まで落ち込んだが,その後ふたたび増加し,96年時点では39%である)。また,この間,4年制大学は160校,短期大学は208校増設され,大学全体の在学者数も約84万人から約210万人へと2.5倍の増勢を示した。大学がこれらの大量の進学者を受け入れることができたのは,戦後学制改革のもとで明治以来のエリート型の大学制度を大衆的な新制大学制度に改めていたためである。この意味では,戦後の大学改革は,大衆高等教育mass higher educationへの適応を先取りした制度改革だったといえる。ちなみにその後も大学数,在学生数は増加を続け,96年時点では大学576校,短大598校,在学者数は大学259万6667人,短大47万3279人である(なお2006年現在,大学744校・285万9212人,短大468校・20万2254人)。しかし,上のような1960-70年代の大衆化のもとで,日本の大学には国公・私立間の格差,国立大学相互間,私立大学相互間の格差が広がり,大学の序列化が進行した。大学入試の激化(特定大学の入学難),大学全体とくに進学者の80%を引き受けた私立大学の研究・教育条件の悪化などの深刻な事態が生み出されている。79年に大学入試の合理化をめざして国・公立大学共通一次試験が実施され,毎年33万人前後の学生が受験した。なおこの試験は90年以降,臨時教育審議会の答申により,〈大学入試センター試験〉と改称され,私立大学でこれに参加する大学も増えつつある。さらにこれを,選抜試験ではなく大学入学資格試験にすべきである,という意見も強い。一方,1985年度から放送大学が開校され,日本での初の試みとして注目されているが,これが従来の大学教育になかった特色を打ち出しうるか否かはまだ未知数である。

 このような大学の大衆化という状況のもとで,多くの国の大学は,大学の内部の教育方式や管理制度を近代化,合理化する必要に迫られる一方,大学入学・進学方式をどのように改めるか,大学以外の多様な中等後教育(ポスト・セカンダリーエデュケーション)の形態をどのようにつくり出すかという課題を抱えている。カリキュラムを合理化し,演習,作文などの方法を採用し,視聴覚的な設備・機器を導入することで学力の低下を防ぐなどの改革が多くの国で模索されている。また労働経験者,専門職業者の入学・再入学を許可し,入学年齢を壮年・中年に上昇させる方式もつくり出されつつある(スウェーデンなど)。日本においては1979年度,立教大学で初めて社会人入試制度が開始された。

 88年,臨時教育審議会の答申に基づいて文部大臣諮問機関の大学審議会が発足した。それは大学の教育・研究・制度の全般について広範な審議を行ってきたが,審議の基調は,21世紀をめざしての高等教育・大学の拡充方策の策定である。特に91年同審議会の答申によって大学設置基準が大改定され,大学の科目を一般教育専門教育等と区分する必要がなくなった。このため戦後〈一般教育科目〉という名で呼ばれてきた科目群は解消し,各大学は4年間の教育において教養教育と専門教育を有機的かつ自由に編成することができるようになった。戦後改革に次ぐ2度目の大学教育改革が,カリキュラム改革を中心として急激に進行している。他方,少子化の影響から,2010年前後には大学進学者総数と入学定員とが一致することが予想されており,そうなった場合,高等教育のレベルをどのように設定し直すかが問われるものと予想されている。また少子化の動向のもとで,学部・大学院を社会人・現職者などに開放する動きも急速に進んでいる。要するに現代の大学は,エリート主義的で硬直した形態を打破して,新しい国民生活にどのように柔軟に対応すればよいかについて,質・形態両面からの見直しと改革を迫られている。

増大する科学研究費と高等教育財政のもとで,大学が古典的な近代大学の自治の原則を守ることがきわめて困難になっているという事態がある。大学の研究・教育活動が巨額の公費によって支えられるようになると,国家・政府による研究,高等教育の〈計画化〉と〈財政主導〉とが避けられなくなる。研究活動は個人の営みとしてではなく研究機関の事業の一環として扱われ,大学は個性的な教育機関としてではなく,より抽象的な高等教育機構とみなされることになる。社会主義国家においてはともかく,資本主義国家の大学においては,この事態は近代的な大学の自治の理想と制度に対する重要な挑戦であるといえよう。アメリカにおける連邦政府の科学政策と大学の研究との関係,日本における私学への公費助成と統制の関係などに,代表的にあらわれる。この事態のもとでは,大学の研究者たちは,個人的な研究の自由だけでなく集団としての研究者の自由を守る組織や運動を考える必要に迫られるし,また大学は,個別大学の自治を守ることとともに,大学連合体の自治も守る方策を立てる必要に迫られている。

 日本においては,大学審議会が財政問題を含む高等教育計画の答申に当たる審議会として活動しているが,同時に大学財政は国家レベルでの行政改革の動向に左右される面が大きく,国立大学の民営化や特殊法人化,特別会計制度の再検討などの論題がたえず浮かび上がっている。私学に対する公費助成施策は1970年度に発足して28ヵ年度を経たが,その総額は84年度以降横ばいの状態であり,96年度も研究設備整備費等補助金・施設整備費補助金を合わせて160億円,私学経常経費総額の12.1%にとどまっている。一方,大学が固有の財産,財源をもち,政府の掣肘(せいちゆう)を免れることは欧米では自治の重要要件とみなされてきたが,日本の国立大学は財政上の自由や自治をまったく欠いている。

 2004年4月,国立大学は独立行政法人へと移行し,国立大学法人となったが,諸課題は依然として山積している。

19世紀に完成した学問体系・学問分類が現代において崩れつつあり,それに対応して学部,学科,講座等を編成してきた大学のあり方が問われている。世界各国の大学のうち,とくに1960年代以後につくられた〈新大学〉では,専門分野の伝統的な区分を排して,境界領域,複合領域,総合領域に即した大学の教育・研究組織をとり入れる試みがひんぱんにみられる。日本で74年に設置された筑波大学が学部制・講座制を廃止して,新しい学系・学群制をとったことなどもその一例である。現代学問体系に即応して大学の内部編成を変えていく試みは,今後の大学改革のなかで,広がっていくものとみられるが,大学の自治,研究成果,教育効果の面でどのような事態を生むかは,にわかに予測することはできない。

大学における学生の位置や権利をどう考えるかは,1960年代末に欧米諸国,日本などで起きた〈大学紛争〉〈学生反乱〉のもとで激しく問われた問題であった。学生が大学の構成要素であるという事実そのものは,大学の大衆化状況ともあいまってだれも否定することができない。しかし,学生たちに,大学構成員としての固有の地位や権利(学長選挙権,管理参加権,処分審議権など)を与えるべきか否か,単なる異議申立権だけを認めるかどうか,学問共同体を構成する学徒としてみるかそれとも大学において教育関係を結んだ〈契約者〉として考えるか,あるいは単なる施設利用者として位置づけるかなど,見解はさまざまに分かれているというのが,現状である。一方,学生自体の側も,量的増加のもとで,出身階層,文化的属性,社会的地位などに大きな変化をきたしつつある。大学の大衆化,さらにはその普遍化(M. トロウ)のもとで,学生層をどのように位置づけるかが,より基本的な問題であると思われる。
執筆者:



大学 (だいがく)
Dà xué

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大学」の意味・わかりやすい解説

大学(教育機関)
だいがく

大学の定義はさほどに簡単ではない。大学の性格や任務が社会により時代によって変わるので、定義もまた変動する。日本の場合を例にとっても、今日いう大学(新制)とは、初等・中等教育のあとに続く高等教育を行うところの総称であって、そこには大学院や研究所や短期大学も含まれている。しかし戦前の大学(旧制)は、高等専門学校とよばれるものと区別された、より狭義の、エリートを対象とした高等教育機関であった。

 ヨーロッパの中世社会で用いられた今日のユニバーシティの原語、ウニベルシタスuniversitasは、同職者のギルド、組合を意味していた。そのころ、法律など専門の知識を教え学ぶ人たちは、パン屋や鍛冶(かじ)屋などと同様にギルドをつくっていたが、学位の授与という点でほかのギルドと異なっていた。大学は、ドクターたちが次のドクターをつくりだす組織体として社会的に認知されていたのである。したがってヨーロッパではいまでも、ユニバーシティとは学位を出す学校であって、学位を出さない高等教育機関(カレッジやホッホシューレなど)と峻別(しゅんべつ)されることが多い。ヨーロッパほど伝統にとらわれないで、高等教育をより多様な形で展開させてきたアメリカでの定義はどうか。ユニバーシティとは、文理の学問学部を中心に、法学、医学などの専門職学部群と大学院とを擁して、学位を与える総合的な高等教育機関、などといわれている。

[横尾壮英・舘 昭]

役割

学位を与えるということは、学問の専門分野で一定のレベルに達したことを証明し、ある資格を公認することである。大学はその役割を、まずそうした専門職の養成にみいだした。法律家、医者、牧師、大学教師といった人たちはもっぱら大学で「つくられる」ことになった。しかし大学の人材養成は単なる専門職業人の育成にとどまるものではない。教養の豊かな政治家やジェントルマン、あるいはよき市民の教育もまた大学の重要な使命と考えられてきた。またとくに19世紀以降は、学問研究、つまり新しい知識の開発が大学の重要な任務として自覚されてきた。大学の教師は真理の探究者でもあり、研究に裏づけられない教育は大学教育ではないとされる。以上の二つに加えて、今日の大学にはいま一つ社会へのサービスという任務も課されている。大学はその存在する地域社会から遊離することなく、地域と相互に助け合うときに、研究面でも教育面でもより大きな成果を期待しうるだろう。とくに人間の教育が生涯学習の観点からとらえ直されつつある今日では、大学は社会に開かれた柔軟な存在でなければならないと考えられている。ただ、すべての大学が以上の教育、研究、社会サービスといった使命を三つとも等しく果たすことは容易ではないし能率的でもない。大学はそれぞれの使命を自覚的に選択し、個性的にその性格と伝統とを培っていくべきであろう。

[横尾壮英・舘 昭]

起源

ヨーロッパに今日の大学の原型が現れたのは、いまからおよそ800年前のことで、「12世紀ルネサンス」とよばれる社会の変動期においてであった。農業の生産性が高まり、交通が発達して都市がおこり、十字軍による東方世界との接触があり、国民国家や官僚制度や貨幣制度も急速に整ってくるなかで、人々は新しい世界、新しい情報に目を輝かせた。彼らの好奇心が新しい専門的な知識の習得へと向かうとき、新しい専門職が成立し、その社会的地位も保証され始めた。それまでも学校はあったが、それ以外に北イタリアの法律の学校、地中海沿岸の医学の学校、パリその他の神学や教養諸科の学校など、新しい学校が各地に誕生した。そして新しい専門的な知識を教える師匠のもとには、ヨーロッパの各地から青年たちが集まり、教師もまた流動した。

 しかし、そうした教師や学生の多くは他国者(よそ者)であって、居住した都市の市民権をもたなかったから、互いに団結して自己防衛をし、逆境のなかでの不自由をカバーしなければならなかった。安い家屋、いろいろな免税・免役、それに固有の裁判権や教師のサラリーの確保などである。知的活動を事とするその大学集団が、社会のなかで新しい階層として位置を占めるのは、たやすいことではなかった。彼らはギルドとして団結し、聖俗の権力と闘って、しだいに地盤を確立していったのだが、都市(タウン)と大学(ガウン)は互いに争う場合も少なくなかったし、大学は都合が悪ければほかの都市へ移って新しく居を構えた。

 初期の大学団は、下部組織として出身地別の国民団(ナティオ)をもっていた。その国民団のうえに教養部があり、また別に神・法・医といった学部があった。いずれも固有のルールと役職者、印璽(いんじ)や金庫をもつ自治体であって、役職者は民主的な手続で選ばれたが、こうした団体への加入は自由であった。つまり入学試験はなかったが、ラテン語の素養が必要だった。修学の年期は教養諸科で4~7年であった。年期を積んで最終の試験に合格するとドクター(ないしマスター)の称号を与えられ、教師の一員となる資格ができた。学生とドクターの中間身分がバチェラーであったが、こうした階梯(かいてい)は、商工ギルドの徒弟―職人―親方(マスター)、武家社会の小姓―従者―騎士(ナイト)をまねたものだった。

 大学は、新しい専門職やエリートの供給源として、しだいに世の注目をひいた。教皇や皇帝や都市からも目をつけられた。そしてその保護を受けたり、彼らのきもいりで設立される大学が増えていく。大学は自生の時代から政策的な設立の時代に入るのであって、1500年の時点でヨーロッパの各地におよそ80の大学が存在したといわれている。

[横尾壮英・舘 昭]

近世以後の大学

ルネサンスが大学に影響を及ぼしたことはもちろんだが、宗教改革の影響はそれ以上に決定的であった。16世紀以後、大学はすべて新旧いずれかの宗派に属することを余儀なくされたし、同時に領邦ないし国家の教育機関として、いよいよナショナリズムの支配を免れえなくなった。聖俗の権力闘争で大学が精神的要塞(ようさい)となることもまれではなかった。そういう傾向と併行するかのように、一部では大学教育の硬直化もみられた。カリキュラムや教授方法のマンネリ化、教師の意欲の欠如など、地域による濃淡はあるが、大学の衰微の時代が続いたのである。したがって、知識人のなかには大学を見捨ててほかに同好の士を求める動きも現れた。その代表的な例は、近代的な思考方法や科学の先駆者たちが結成したアカデミーである。アカデミーは、イタリアに始まってフランス、イギリス、ドイツなどに波及した。それは真実を探る腑(ふ)分けの精神を共通のきずなとし、国境や宗派にはこだわらない自由で私的な人々の集団であった。注目したいのは、彼らを庇護(ひご)するパトロンが各地に現れたこと、大学のなかにアカデミーの自由な精神に刺激されて活性化する例がみられたことである。ハレ、ゲッティンゲンといった近代大学の創設もその延長線上で考えられる。そして、その頂点にたつのがベルリン大学の創設(1810)であった。

 ベルリンでは、大学は自由な学問研究の場、その中枢的組織としてとらえられ、研究への参加がすなわち教育であるとみなされた。そして、そういう新しい大学の使命の自覚とそれに基づく研究教育の実績は、ドイツ国内のみならず他国の大学にも大きな刺激を与えた。たとえばイギリスでは、古いオックスブリッジといろいろな点で対照的なロンドン大学が、有志の手でつくりだされた。地方の諸都市にも、新しい時代の要求にこたえる「市民大学」(シビック・ユニバーシティ)が設けられた。

 ベルリン大学が成立する前後はフランスの大学にとっても歴史的な変革の時期であった。革命とナポレオン体制のもとでフランスの大学はすっかりその姿を変えた。高等の専門職の養成機関としていわゆるグランゼコールが生まれ、他方ユニベルシテは文部大臣の統轄する教育体系の全体の名称となったが、その体制は19世紀を通じて変動を免れなかった。

 アメリカでは最初、東部の植民地にハーバードなど九つのカレッジができたが、それは新世界に教養のある牧師を確保することを主眼としていた。独立戦争後は人々が西に進むにつれて各宗派が競ってカレッジを設けた。とくに1819年ダートマス大学に関する大審院の判決が私学の基金制度を保障してからは、私立大学の数が増えた。しかし同判決は各州に独自の州立大学をつくらせる契機ともなり、宗派にとらわれない近代的な州立大学の出現を促した。また1862年のモリル法によって、いわゆる国有地賦与大学(ランド・グラント・カレッジ)が現れ、農工業などを重視して産業社会に貢献する新しい大学へと発展した。それに、ドイツの影響のもとジョンズ・ホプキンズ大学など大学院大学の誕生があり、さらには「大学拡張」による大学の地域社会へのサービスも始まった。19世紀の後半以後、アメリカの大学は数的に急増した。そしてその種類や形態において、あるいはカリキュラムや研究教育の方法において、きわめて自由で多彩な様態を示し、世界をリードする力強い存在となった。

[横尾壮英・舘 昭]

日本の大学の歴史

日本で大学という名が現れたもっとも古い例は、古代の大学寮である。それは、唐の影響を受けた律令(りつりょう)制度の一環として設けられた、貴族の子弟を養成する施設であった。それ以後も高度な修学の場が貴族、僧侶(そうりょ)、武士などを対象として不断に存在したが、大学とはよばれず、明治の初めに欧米の高等教育制度が導入されたとき、ユニバーシティないしカレッジに対応する邦語として、その名が用いられたのであった。

 すでにそれ以前、江戸には昌平黌(しょうへいこう)、地方には藩校など、国民の修学の場は相当に整い、知的水準はかなりのものであったから、欧米のモデルが現れたときの反応も、きわめて敏感かつ積極的で、文明開化を目ざしてさまざまな学校や塾が現れた。慶応義塾、開成学校、医学校、工学寮、札幌農学校、同志社英学校などなど、官も私もこぞって大学の種を播(ま)いたのだが、そのなかでもっとも早く体裁が整い中身も充実したのは、官の代表東京大学であった。その設立の試みは1869年(明治2)にもみられたが、1877年に法・文・理・医の4部門からなる近代大学としてスタートした。同大学は1886年の帝国大学令により「帝国大学」と名を改め、「国家の須要(しゅよう)に応ずる学術技芸」を教授攻究するところとなる。そしてそれを頂点とする官による高等教育機関の整備は、旧制の高等専門学校を全国的に配置することと、京都、東北、九州などの帝国大学をつくるという二つの方向で進められた。

 他方、私立の高等教育機関も数多くつくられた。法律を教えるもの、宗派立のもの、女子を対象とするものなどで、それぞれが建学の精神や学風をもって、東京や関西に誕生した。それら私立のものを含めた法的整備は1903年(明治36)の「専門学校令」によってなされたが(当時の専門学校の数は50)、専門学校ないし高等の諸学校の大学への昇格意欲は旺盛(おうせい)で、政府は1918年(大正7)、臨時教育会議の答申に基づいて「大学令」を公布した。以来、大学には総合大学のほかに単科大学、官立のほかに公・私立の大学も存在することになる。こうして1940年(昭和15)の大学の数は47校、学生数8万余、そのほかに多くの高等専門学校があった。

 軍国主義が招いた第二次世界大戦では、大学もまた国家とともに破滅するかと思われた。しかし敗戦は破滅よりも再生の機会をもたらした。アメリカに指導された新しい教育体系のもとで、大学は六・三・三の初・中等教育を終えた青年を、男女の差別なしに迎え入れる4年制の高等教育機関となった。国・公・私立という三つの設置形態は、戦前の伝統を背景に存続した。新しく生まれ変わった新制の大学は、1953年(昭和28)の時点で国立72校、公立34校、私立120校、学生数はあわせて44万であり、そのほかに短期大学も228校存在した。大学院も修士、博士の二段階で発足した。こうして、日本の大学は急速に民主化され大衆のものとなった。それは大きな脱皮と発展を意味したが、やがてまた新しい問題をも伴った。たとえば、教育と研究をどう相即させるか、教育の量に対する質の保証、各大学の個性の確認、一般教育の見直し、大学院の整備、それにいうまでもなく大学入試の問題などである。昭和40年代の大学紛争でも提起されたそれらの問題が今後どう克服されるか、いま大学の歴史は曲り角にあるといえよう。2022年度(令和4)の大学数は国立86校、公立101校、私立620校、学生数は国・公・私立あわせて293万0780人、短期大学の数は309校、学生数は9万7413人である。

[横尾壮英・舘 昭]

設置形態等

前述したように、日本の大学には、国立、公立、私立の3種類があり、私立が数的に8割弱を占めている。アメリカには私立と公立の2種類があるが、公立のほとんどは州立で、国立(連邦立)は軍関係などわずかである。ドイツでは約7割が公立(学生数では約9割)。イギリスではもともとすべてが私立だが、1校(バッキンガム大学)を除き財政その他地域社会や国の援助を受ける度合いが大きいので、国公立的性格ももっている。フランスはすべてが国立である。

 大学を設置する場合、その設置をだれがどういう形で認めるかが問題になる。たとえばイギリスでは、設置を意図する団体が国王の創立特許状(チャーター)を得て、初めて設立が公認される。日本では大学設置基準というものがあり、その基準に達しているかどうかを大学設置審議会が判定することになっている。アメリカでは、そうした中央の機関はなくて、一般に州の認可を得るのが容易なため、設立された大学が互いに自己規制をしてレベル・ダウンを防ぐアクレディテーションaccreditation(適格認定)方式がとられている。

 設置形態は、大学の財政問題にもかかわるところが大きい。研究や教育の規模が拡大する状況のなかでは、私立大学が授業料収入だけでその経費をまかなうことは不可能だし、大学の研究・教育活動に公的性格があるとすれば、そこに公費の援助があるのは当然だと考えられる。ただ公費の援助は、国や地方自治体の大学に対する干渉や統制を招くおそれがあるので、大学の自治と公費の助成をどう両立させるかが問題になる。日本でも、国費による私学助成が行われており、2022年度(令和4)の私立大学に対する経常費補助は2980億円余である。

[横尾壮英・舘 昭]

内部組織

大学の内部組織としては、学部、学寮(カレッジ)、研究所、附属病院などがある。学部は、大学における研究教育のもっとも普通にみられる単位である。歴史的には神学、法学、医学の「上級三学部」と、その予備的位置からしだいに昇格した哲学部が老舗(しにせ)であって、西欧の大陸部ではこの伝統がいまも色濃く残っているが、19世紀以後は、哲学部から理学部、法学部から経済学部、医学部から薬学部が分かれるというように、分化現象が著しく、いまでは相当に変貌(へんぼう)している。アメリカでは、学部に相当するものをスクールとかカレッジとよんでいるが、ヨーロッパの神・法・医・哲の伝統があまりないことと、実用主義の傾向もあって、さまざまな名称の学部が大胆につくりだされた。家政学部、歯学部、ホテル学部などはアメリカ生まれであり、日本もその影響を受けている。

 学部はその数が増えただけでなく、組織の単位としての再検討も迫られている。日本では筑波(つくば)大学が学系・学群と称する組織によっているし、ドイツでもボフム大学などは学部にかわって学科Abteilung(アップタイルング)制をとっている。

 大学の内部組織として、学部とともに重要な役割を果たしてきたものにカレッジ(学寮)がある。これは教育研究の単位であるよりも生活の単位だが、イギリスのオックスフォード、ケンブリッジや、1960年以降に設立された「ニュー・ユニバーシティ」では、学寮が大学の中核的な組織となっている場合が少なくない。とくに古典的な大学の場合には、学寮が固有の基金や財産をもち、自治権ももっていて、チュートリアル(個別指導)など独自の教育を行ってきた。

[横尾壮英・舘 昭]

管理運営

学内の管理運営の方式には、教授会を中心にするものと、理事会を中心とするものとの二つがある。たとえばヨーロッパの大陸部や日本の国公立の大学では、一般に各学部の「教授会の議を経る」ことが管理運営上不可欠のこととなっていて、中世以来の学部自治の伝統がそこにある。しかし今日のマス化した大学では、教授会も適正規模を超えることが多いし、教授たちがすべて管理運営に向いているとも思えないから、人事・予算などすべてを教授会で決めるやり方は、限界にきているともいわれている。アメリカの大学などで多くみられる理事会方式は、ジュネーブのアカデミーでカルバンによって始められ、オランダやスコットランドの大学を経由してアメリカに根づいたものである。ハーバードの場合、理事は7名(日本の私大でも5名以上とされている)、そのもっとも重要な任務は学長の選考、教授の人事、財政上の配慮などである。教授や准教授は教育と研究に専念する立場にある。

 学長にも二つの類型がある。ヨーロッパに由来して日本の国公立大学でモデルになっている学長は、教授等のなかから互選によって選ばれ、その任期は長くない。他方イギリスの大学の学寮長に起源をもつアメリカなどの学長職は、任期が長く理事会から大きな権限をゆだねられていることが多い。

 公権力との関係も、大学の管理運営の大きな問題である。一般に大学は自治を認められていて、国家や地方自治体は、大学に対して財政その他の面で「支持しつつ干渉しない」ことがだいじだといわれている。しかし具体的な事例、とくに政治上の問題、イデオロギーにかかわる問題では、自治の程度をめぐって議論が分かれることも少なくない。

[横尾壮英・舘 昭]

教育、研究、開放への道

18世紀のころまでは、ある程度の基礎学力があれば(宗派による制限はあったが)、大学への登録は容易であったが、近代的な学校の体系化とカリキュラムの編成が進むにつれて、入学の条件が問われるようになり、今日、大学入試はどの国でも問題をはらんでいる。ただし、ドイツ、フランス、イタリアのように、高校卒業者にはすべて、ある年齢まではいつでも、どの大学にも登録を認める、したがって大学には厳しい定員制がない国々と、日本のように、どの大学にも定員制があって、年に一度の学力試験で及落を判定する国とは、そのやり方がきわめて対照的である。

 大学教育のいろいろな問題点の一つは、一般教育にある。一般教育は専門教育の基礎を固め、かつ広い視野と豊かな発想を養うために始められた制度だが、それが内実のあるカリキュラムとして活性化され、魅力のある授業となるのにはなお多くの障害がある。日本では、1991年(平成3)の大学設置基準大綱化による制度改革で、カリキュラム編成の自由が各大学に与えられ、種々の改革が実施されているが、まだ十分な解決をみていない。大学院もスタッフ、予算、設備など多くの点で十分であるとはいえない。研究者や大学教師の苗床としての大学院の存在意義は大きく、また高度専門職業人養成の機能強化が課題となっている。外国人留学生の数もますます増えるであろう。学位の出し方を含めて大学院にもメスを入れる必要がある。大学の研究を推進するものとして、19世紀以後に発達したのは研究所である。日本でも国・公・私立の多くの大学に附属の研究所、研究センター、研究施設などがある。また、個別の大学に所属しない大学共同利用機関などもその数を増しており、2022年(令和4)4月時点では国立民族学博物館、国立天文台、素粒子原子核研究所など19施設が存在する。国立大学の附置研究所・センターは、2022年時点で33大学に107研究機関があり、東京大学や京都大学の場合の附置研究所の数は学部の数に匹敵する。

 大学で行われる研究は、基礎的なものと応用的なもの、個人レベルの小規模なものから、いわゆる巨大科学の研究までさまざまである。一般の傾向としては、共同で行われる大型のもの、多くの専門にまたがるものが増えている。研究の方法も、いわば古典的なものから、コンピュータなどを使う新しいものまで多様である。研究の大型化は当然研究費の大型化につながるから、研究組織のリーダーは研究費の確保にも力を注がねばならない。また大学と企業その他産業界や軍との共同研究も盛んになる傾向にあり、それに伴う問題も起こってくる。

 現代大学の第三の機能といえる社会へのサービスは、19世紀にイギリスの大学によって先鞭(せんべん)をつけられ、アメリカの大学に続いて他国もそれに倣ったものである。いわゆる大学拡張university extensionの中身は開放講座、夏期大学、夜間部、通信教育などいろいろであるが、イギリスではそれらの活動が大学と労働者教育協会(WEA)、地方教育当局(LEA)の共同研究として行われてきた。アメリカで最近著しい発達を示しているのはコミュニティ・カレッジである。それは、地域の老幼男女がいつでも、だれでも、なんでも学習できて、やがては学位もとれるような仕組みになっている。大学教育の大衆化のもう一つの形態に放送大学やオープン・ユニバーシティがある。また、特定の大学に所属せずに学習し、学士などの学位がとれる制度があり、日本では独立行政法人大学改革支援・学位授与機構がその制度を実施している。大学はいまや各国民の生涯の教育の一環としての新しい姿をみせつつあるのである。

[横尾壮英・舘 昭]

『島田雄次郎著『ヨーロッパの大学』(1964・至文堂/1990・玉川大学出版部)』『寺崎昌男著『日本における大学自治制度の成立』(1979/増補版・2000・評論社)』『潮木守一著『大学と社会』(1982・第一法規出版)』『天野郁夫著『試験の社会史』(1983・東京大学出版会/増補版・平凡社ライブラリー)』『横尾壮英著『ヨーロッパ大学都市への旅』(1985・リクルート出版部)』『舘昭著『大学改革 日本とアメリカ』(1997・玉川大学出版部)』『永井道雄著『日本の大学』(中公新書)』『皇至道著『大学の歴史と改革』(講談社現代新書)』『中山茂著『帝国大学の誕生』(中公新書)』


大学(儒教経典)
だいがく

もと『礼記(らいき)』の第42篇(へん)。教育機関としての大学の理念を述べた書で、漢代ごろに成立したといわれる。朱熹(しゅき)(朱子)はこの書を四書のうちで「初学の徳に入るの門」といい、学問の入門指針書として重視し、本文に脱落錯簡があると考え、論理的に再構成して『大学新本』のテキストを定め、注釈を書いて『大学章句』とし、臨終の数日前まで改訂し続けた。彼によれば、『大学』は、孔丘(こうきゅう)(孔子)の言を弟子の曽参(そうしん)(曽子)が祖述した経1章と、曽参の意を門人が記録した伝十章からなる。経は「明徳を明らかにす」「民を親(あら)(新)たにす」「至善に止まる」の三綱領と、「物に格(いた)る」「知を致(いた)す」「意を誠にす」「心を正す」「身を修む」「家を斉(ととの)う」「国を治む」「天下を平らかにす」の8条目により、精神修養から政治的実践に至る道を説いている。伝は三綱領8条目の補足説明で、そのうち「格物致知」を説く伝5章は脱落したとみて補伝を書いた。それだけ「格物致知」を重んじたのである。この改編、注釈によって『大学』は朱子学の経典としての権威を与えられたが、後世の経書改纂(かいさん)のきっかけともなった。王守仁(しゅじん)(陽明(ようめい))は、『礼記』中の「大学古本」は完本で、脱落錯簡はないとし、『大学新本』を否定したが、このころから『大学』改編の是否と思想内容をめぐる論争が盛んとなり、「格物致知」には72の各説があったともいう。批判を受けながらも『大学章句』は官吏資格試験(科挙(かきょ))のテキストとして清(しん)末まで用いられた。

[佐野公治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大学」の意味・わかりやすい解説

大学
だいがく
university

高度な専門的学術の研究および教授を主たる機能とする高等教育機関。さまざまな学問分野で学位を授与する権限をもつ。
近代の大学は中世の教会や修道院の付属学校を起源とする。大学の先駆をなすものは,9世紀にイタリアのサレルノに設立された医学校 (→サレルノ医学校 ) で,ヨーロッパ全土から学生が集った。世界最古の本格的な大学は 11世紀に設立されたボローニャ大学で,法学で知られた。 1150~70年には神学で有名なパリ大学が設立され,オックスフォード大学をはじめ 12世紀に発足した大学のモデルになった。当時の大学は学生と教授の組合組織で,教皇や皇帝,国王から特権を与えられ,無神論と異端を教えないかぎり自治を認められた。しかし,みずから運営資金を調達しなければならず,教授の生活を支えるために学生は授業料を支払い,教授は学生を満足させる授業を行う必要があった。学生が不満を訴えて他所へ移り,新たな大学を設立することもあった。ケンブリッジ大学 (1209) は,オックスフォードから移ってきた学生によってつくられた。 13世紀以降,モンペリエ (20) ,パドバ (22) ,ローマ (1303) ,フィレンツェ (21) ,プラハ (48) ,ウィーン (65) ,ハイデルベルク (86) ,ライプチヒ (1409) ,フライブルク (57) ,テュービンゲン (77) ,ルーフェン (25) ,セントアンドルーズ (11) ,グラスゴー (51) など,ヨーロッパの主要都市に次々と大学が設立された。当時の大学では自由七科 (論理,文法,修辞,幾何,算術,天文,音楽) に基づいた講義が行われた。学生は医学,法学,神学の専門学部の一つで学んだが,最終試験はきびしく落第者が多かった。
16世紀の宗教改革と続く反宗教改革は,大学にも影響を及ぼした。ドイツ諸国ではプロテスタントの大学が新設され,プロテスタントに乗取られた大学もあったが,残った大学はカトリックの頑強な擁護者と化した。 17世紀になると,カトリック,プロテスタント系いずれの大学もそれぞれの教義の擁護に傾倒して,ヨーロッパ全土に広まった新しい科学には無関心であった。そのため多くの大学は衰退したが,この間にもエディンバラ (1583) ,ライデン (75) などに新しい大学が設立された。
最初の近代的大学はハレ大学 (1694) で,合理的で客観的な知識の探究のために特定の宗教を信奉せず,ラテン語ではなく母国語のドイツ語で初めて講義が行われた。この新制度はゲッティンゲン大学 (1737) をはじめ,ドイツやアメリカの大学で採用された。 18世紀後半から 19世紀にかけて,大学は近代的な学問研究機関になり,授業科目と運営も専門化され,宗教の影響は弱まった。この傾向はベルリン大学 (1809,現フンボルト大学 ) で典型的にみられ,実験室での実験が推量に取って代り,近代的な学問の自由も生れた。西半球ではサントドミンゴ (1538) とミチョアカン (40) に最初の大学が設立された。アメリカでは,ハーバード大学 (1636) ,ウィリアム・アンド・メアリー・カレッジ (93) ,エール大学 (1701) ,プリンストン大学 (46) ,キングズ・カレッジ (54,現コロンビア大学 ) などの4年制の単科大学が,大半は宗教団体によって設立されたが,やがて総合大学に発展した。フロンティアの西進に伴って,多数の大学が新設されたが,ドイツを範としたこれらの大学では,プロシアの学問の自由の理想とアメリカの教育の大衆化の伝統が結びついた。 1862年には農学と機械工学の新大学を設立するために土地を各州に供与するモリル法が制定され,マサチューセッツ工科大学コーネル大学や,イリノイ,ウィスコンシン,ミネソタに州立大学が生れた。
19世紀になるとイタリア,スペイン,フランスで大学の再編と宗教からの分離が行われ,ほとんどの大学を国が運営するようになった。女性の入学も 19世紀後半に認められた。授業科目も改善され,ラテン語やギリシア語,神学に代って現代の言語や文学が教えられるようになった。物理学,化学,生物学,工学,経済学,心理学,社会学なども授業科目に加えられた。 19世紀末から 20世紀にかけて,イギリスとフランスは南アジアや東南アジアの植民地に大学を設立した。 20世紀なかばに植民地から独立した国々では,欧米を範として大学制度の拡充をはかった。ロシア,日本,中国でもモスクワ大学 (1755) ,サンクトペテルブルグ大学 (1819) ,東京大学 (77) ,京都大学 (97) ,北京大学 (98) など,欧米の大学をモデルに最高学府としての大学が設立された。 20世紀に入って各国とも大学は著しい拡充をみせたが,特に 1950年代以降,学生数が急増し,これに伴って大学の新設,規模拡大がはかられ,いわゆる高等教育の大衆化が進行した。この結果,組織,管理,目的,機能などのうえで,さまざまな問題が生じ,新しい大学像の模索が進められている。

大学
だいがく
Da-xue

儒教の経典の一つ。もと『礼記』中の1編であったが,南宋の朱子にいたり孔子の教えの正統を示す『四書』の一つとされ,きわめて重要な経書となった。朱子はこれを孔子の高弟曾子の作とするが,根拠に乏しい。漢代初期の成立と考えられる。宋学によれば,儒教の目的を三綱領にまとめ,その実践を,知識を得ることから天下を治めるにいたる八条目に整理して,儒教の輪郭を示しているとされる (→三綱領・八条目 ) 。朱子は,本文に錯簡,誤脱があるとして校定し,また「格物」の伝を補った。これを「格物補伝」という。明の王陽明が朱子学を批判してから,朱子の『大学章句』特にその補伝は儒学者論争の中心問題となった。王陽明は,朱子改定以前のいわゆる『古本大学』によっている。日本でも『大学』は,朱子学とともに江戸時代に大いに行われたが,ここでも『大学章句』と『古本大学』をめぐる論争が展開され,また日本の国学者の創見による著述も多く出ている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大学」の解説

大学
だいがく

1古代の中央における学問・教育のための機関。7世紀後半の天智朝に始まるとされ,大宝・養老令の官制では式部省のもとに大学寮がおかれた。博士1人・助教(大宝令では助博士)2人・学生(がくしょう)400人のほか,音博士・書博士・算生・書生などが所属し,学生は秀才・明経(みょうぎょう)・進士(しんし)などの課試をへて官吏に登用された。のち728年(神亀5)の学制改革によって文章(もんじょう)・明経・明法・算の4学科体制が成立し,730年(天平2)には衣食の給付をうける得業生(とくごうしょう)の制度が新設された。平安初期には文章道(紀伝道(きでんどう))が重視され,勧学田がおかれ,学問料が給付されるなど教育の条件が整えられた。大学はその後も中・下級官人養成の機能を維持したが,博士家の形成にともなってその実質はしだいに失われ,大学寮は1177年(治承元)の京都の大火によって焼失し,以後は復興されなかった。

2近代の学術研究と教育の最高学府。近代の大学は明治期以降,ヨーロッパの大学制度を移入して設立された。1877年(明治10)旧幕府の開成所(かいせいじょ)・医学所などを母体に東京大学が設立された。86年には工部大学校など各省管轄の教育機関を統合して帝国大学となり,「国家ノ須要」に応じる学問と官僚・高等技術者養成の役割をはたした。帝国大学はのち京都・仙台・福岡などにも設置された。1918年(大正7)の大学令以降,官立単科大学,公立・私立大学も認められ,さらに植民地に京城・台北両帝国大学が設置されるなど,大学数・学生数も増加したが,第2次大戦前および戦中期を通じて帝国大学の特権的性格は変わらなかった。戦後は6・3制の最上段階として旧専門学校・高等学校などを統合して新制大学に再編され,修業年限4年で一般教育・専門教育を施す機関となった。50年(昭和25)から2年または3年制の短期大学も発足した。戦後の大学進学率急増による大学の大衆化や序列化などに対応して,入試制度や大学の個性化などさまざまな問題もかかえている。ほかに文部科学省所管外の防衛大学校・防衛医科大学校・気象大学校・水産大学校など大学校がある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「大学」の解説

大学(だいがく)
universitas[ラテン]

中世に起源を持つ高等教育機関。ヨーロッパの大学は,伝統的な自由七科を教授した8~9世紀以来の修道院,司教座聖堂の付属学校を基礎に,イスラームの影響を受けつつ形成された。当初はボローニャ大学のように,個々の学部を持つにすぎなかったが,13世紀初頭に自治,裁判,免税の諸特権を獲得し,人文,法律,医学,神学の各学部を有したパリ大学(1200年創設)が,14世紀以降叢生する諸大学の範となった。大学は教師と学生のナツィオン(地域別グループ)からなり,その代表が学長を選んだが,のちには学位授与権を持つギルド組織の専門別学部制になり,またイギリスのような学寮の集合からなるものもあった。しかし「大学の自由」の理念に支えられ,あらゆる学問分野を包括する研究教育体系としての総合大学の出現は18世紀以降に属する。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「大学」の解説

大学
だいがく

儒学の経書
戦国時代の作という。もと『礼記』中の1編であったが,宋の程顥 (ていこう) ・程頤 (ていい) が特に尊重し,礼記の古註疏 (ちゆうそ) をしりぞけて朱熹 (しゆき) が『大学章句』を作り,四書の1つとした。格物致知を主とし,修身・斉家・治国・平天下を説き,道徳と政治との関係を論じている。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

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