アフガニスタンの首都。人口280万(2003)。ヒンドゥークシュ山脈の南側,カーブル盆地の標高1800mの地にあり,インダス川の支流カーブル川に沿う。東はタンギ・ガールーを経てジャララバード,ペシャーワルに,西はウナイ峠を越えてハザラジャートに,南はガズナ,カンダハールに,北はサーラング峠のトンネルを経てトルキスタンに,それぞれ通ずる。古代からの交通上の要地で,前4世紀のアレクサンドロス大王の東征以降,クシャーナ朝,エフタルなどの侵入,支配が行われ,仏教,ヒンドゥー文化が栄えた。7世紀以降,アラブ・イスラム軍はしばしば遠征を行ったが,イスラム化が本格的にすすむのは10世紀末のガズナ朝以降である。1504年,ムガル帝国の創始者バーブルはトルキスタンからカーブルに入り,この地を好み,支配の拠点とした。ドゥッラーニー朝の始祖アフマド・シャー・ドゥッラーニーの子ティムール・シャーが1776年にカンダハールから移って来て以来の首都となっている。住民はアフガニスタン国内の全民族から成り,ペルシア語が共通語である。市内には,政府諸機関のほか,カーブル大学,博物館などがある。カーブル川ぞいに商店,商社が並び,商業が活発である。工場は少ない。西方のヒンドゥークシュ山麓のパグマーンが避暑地,東方のジャララバードが避寒地である。バーブルと,イギリスの考古学者M.A.スタインの墓がある。
執筆者:勝藤 猛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフガニスタンの首都。人口は百数十万といわれるが正確な統計はない。ヒンドゥークシュ山脈の南,海抜1800mの盆地にあり,ハイバル峠とサラン峠につながる要衝。ティムールの子孫バーブルは1504年にカーブルを占領し,ここを拠点としてインドに遠征しムガル帝国を建設した。彼の墓はこの郊外にある。1738年,イランのナーディル・シャーに占領されたが,47年にアフガンのドゥッラーニー朝の支配下に入り,70年代にその首都となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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