ラージプート(その他表記)Rājpūt

改訂新版 世界大百科事典 「ラージプート」の意味・わかりやすい解説

ラージプート
Rājpūt

西部インド,中部インドにいくつかの政権をうちたてた尚武の種族サンスクリットで〈王子〉を意味するラージャプトラrājaputraの俗語形。古代クシャトリヤの子孫であると称してこの呼称を用いた。彼らが多く住むラージャスターン地方は,ラージプターナRājputāna(ラージプートの土地)とも呼ばれる。5世紀中ごろフーナ族(エフタル)に伴ってインドに入った中央アジア系種族や,土着の諸種族に起源をもつ。氏族的結合が強く,氏族を単位として王国がたてられた。主従の間は封建的関係で結ばれている。武人としての誇りが高く,騎士道精神が尊ばれ,また女性には貞潔が強く求められた。

 ラージプートに属する王朝としては,西部インドから北インドに進出したプラティーハーラ朝(8~11世紀),ラージャスターン地方のチャウハン朝チャーハマーナ朝,9~12世紀),中央インドのチャンデッラ朝(10~13世紀),西部インドのパラマーラ朝(9~12世紀)とチャウルキヤChaulkya朝(ソーランキーSolaṅkī朝,10~13世紀),北インドのガーハダバーラGāhadavāla朝(11~12世紀)などが有力であった。とくにプラティーハーラ朝は,ガンガーガンジス)上流域のカナウジに都を遷し,一時北インドの覇者となったことで知られる。ラージプート諸勢力の盛んであった8~12世紀は,しばしばラージプート時代と呼ばれる。しかし,諸王国は分立して相互に争うことをつねとし,11世紀初頭から始まるイスラム教徒の侵入に対しても,団結して戦うことはほとんどなかった。

 1191年,ゴール朝のムハンマドの軍が侵入すると,ラージプート諸国はチャウハン朝のプリトビーラージのもとに連合して一時これを撃退したが,翌年の戦いで敗れ,ここにイスラム教徒による北インド支配への道が開かれた。1206年,デリーにイスラム教徒の政権(デリー・サルタナット)が成立し,1526年にムガル帝国がその政権を引き継いだ。この間,滅亡を免れたラージプート諸侯は,デリーの政権に服属しつつラージャスターンに地方勢力として存続し,またしばしば離反・独立してこれと争った。18世紀に入るとムガル帝国は弱体化するが,南方からマラーター勢力の侵略を受け,続いてイギリス東インド会社の圧迫に屈して,19世紀初めまでに諸王国のほとんどがイギリスの保護国(藩王国)となった。インドの独立とともに,ラージプート藩王国の大部分はインドのラージャスターン州に吸収された。

 ラージプート諸王国のもとで,インド古来の文化が栄え,文芸の愛好者として高名な王や寺院の建立に努める王が多く出た。中央インドのカジュラーホヒンドゥー教寺院群(チャンデッラ朝)や,西部インドのアーブー山のジャイナ教寺院(チャウルキヤ朝)は,ラージプート時代の代表的建造物である。また細密画手法の美麗なラージプート絵画が,王侯の保護下に発達した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラージプート」の意味・わかりやすい解説

ラージプート
Rājpūt

インド,ラージャスターン州を中心に居住する部族名。5世紀頃中央アジアからインドに移動し,現在のラージャスターン州を中心に定住したといわれる。北インド,西インドにかけて多くの王朝を建設し,13世紀以降デリーを都とするムスリム諸王朝の樹立まで北インド政治の中心をなした。有名な王朝としてプラティーハーラ朝があり,8世紀中頃から北インド平原を支配して,ベンガルパーラ朝デカンのラーシュトラクータ朝と覇を競い,ついに北インド,中央インドを支配する大王国を形成した。10世紀にプラティーハーラ朝が衰えるとグジャラート地方にチャールキヤ朝,マールワ地方にパラマーラ朝,北インドにチャンデーラ朝,ラージャスターン地方にチャーハマーナ朝などが独立した。1192年ゴール朝のムハンマド(→ムハンマド・ゴーリー)がインドに侵入するとラージプート諸勢力は王であるプリトビーラージを中心として戦ったが敗北し,その後ムスリム諸王朝と抗争を繰り返した。またアウラングゼーブ帝はイスラム正統主義を標榜してラージプート諸王国と争ったが,ムガル帝国衰退後の動乱期にはマラータアフガンなどの諸勢力による外部からの干渉も受け,ラージプート諸王国は混乱,荒廃した。1818年以降ラージプート諸王国はイギリス植民地支配下で藩王国(→インド藩王国)となり,1947年のインド独立後にインドに併合された。

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百科事典マイペディア 「ラージプート」の意味・わかりやすい解説

ラージプート

7―9世紀ごろ,北方からインドに侵入した外来諸族に土着諸族が混交成立した種族。ラージプタナ(ラージャスターン)と中央・北インドの一部に分布して多くの国家を建設。8―12世紀にはラージプート時代を形成したが,のちイスラム教徒に屈服。壮麗な神殿の建立,文学,劇などの芸術の発展に特色を示す。→ラージプート絵画
→関連項目アウラングゼーブジャイプルジョードプルビーカーネール

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラージプート」の解説

ラージプート
Rājpūt

インドのカースト。ガンジス川中流域以西の北インドに広く分布。主に政治,軍事,農業に従事し,クシャトリヤとされる。7世紀以降ラージャスターン地方一帯で王家を構成した諸氏族がその始まりとされる。氏族的紐帯の強い政体を構成し,ムスリム政権支配期においてもヒンドゥーの在地勢力として,政治史上重要な位置を占めた。特にムガル期には帝国軍の中核としてムガル体制を支える一方で,その後半期には各王家が独立,ムガル帝国崩壊の一因ともなった。

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世界大百科事典(旧版)内のラージプートの言及

【インド】より

…とくに8世紀以後には,各王朝は伝説上の太古の王の後裔と称して,王朝の権威と支配の正当性を誇示するようになり,諸王朝の割拠状態が著しくなるにつれ,各地方で領主層が台頭しその勢力が強まり,政治権力の分散化が進んだ。後世ラージプートとよばれるカーストが形成されるのもこの時期である。一方,村落には古くから自治自律的な機関が存在し,村長や村老によって運営された。…

【グルジャラ族】より

…5世紀ごろフン(エフタル)族などとともに中央アジア方面から西インドに入って定着し,インド化したとみられているが,この外来説に反対し土着説を唱える史家も多い。6世紀中ごろから有力となり,クシャトリヤ(ラージプート)と称して西インド各地に数王国を建設した。この種族に属し8世紀前半マールワー地方に興ったプラティーハーラ朝は,9世紀初めガンガー(ガンジス)川流域に進出してカナウジに遷都し,北インドに大王国を建設した(11世紀初めまで続く)。…

【ヒマラヤ[山脈]】より

…パハーリー語は西部,中部,東部に分かれ,西部パハーリー語はヒマーチャル・プラデーシュ州の諸言語,中部パハーリー語はガルワール・ヒマラヤの諸言語,東部パハーリー語はネパール語で,ネパールの国語となった。彼らの多くは,イスラムのインド亜大陸侵入によって,難を避けたラージプート(王族)の子孫を自称する。そして数多くの土侯国がヒマラヤ山中に生まれた。…

【ラージャスターン[州]】より

… 歴史は古く,州北部のカーリーバンガンではインダス文明都市期の都市遺跡が発見されている。前2世紀から後6世紀までは,バクトリア,サカ,グプタなどの諸王朝の領域下にはいり,8世紀から12世紀にかけては州名の由来となったラージプートの諸王朝が興亡した。13~14世紀にはデリー・サルタナットに服属したが,16世紀初めにはラージプートは勢力を回復するに至る。…

※「ラージプート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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